昭和51年 指導会にて

池田先生は「栄光と嵐の凱歌の五十年」とおっしゃった。

創価学会は不思議な会だ。五十年で世界に開いたのだから。


日蓮大聖人様は竜の口の法難、佐渡流罪など様々な法難を乗り越えてこられた。その最中に、御本尊様を顕わしてくださった。


私達も、嫌な事もあるし、恥じらいもある。非難、抽象もあります。けれど目先の事で粉動されないで乗り越えていこう。

こう、心を新たにして先生の決意を、私たち一人一人の決意にして頑張っていこうではありませんか。


そのためには、やはり喜びがなければならないのです。大聖人様はあれほどまでに迫害されて、竜の口で首を切られそうになって

「これほどの喜びを笑えがし」と言われた。


処刑されるのを見て四条金吾が泣いたら

「なぜ泣くのだ」「これほどの喜びをなぜ笑わないのか」。やはり難の中にあって喜んでおられた。

「喜悦計りなし」「両眼滝の如し」滝のように嬉し涙です。ですから私達も喜び勇んで邁進できなければ大聖人の直結の弟子ではありません。



確信がなければ、噴動されます。創価学会は謗法だ!と言われて「あら、そうかしら」と噴動されるのは確信がないからだ。確信があれば「何、言ってんだ」「そんなこという奴が謗法だ」と言えます。

皆さん方は確信があったから、今日この場に集まって下さっている。確信なくして学会を離れて悩んでいる人が沢山おられます。本当に可哀想です。


本日は五十年の決算ですから、今後の広宣流布の為に、どうしたら歓喜と確信の題目を上げていけるか?どうしたら本当に功徳出していけるか?そのポイントとは何か?

そういう事について代々の会長の教え、御本尊の功力や体験等を通して、皆様方と一人一人とお話するつもりでおこなって参ります。よろしくお願い致します。


池田先生は人間革命の映画の中で、基本を教えておられました。何故、勤行や教学をしなければならないのかと。今までにも様々基本を教えてこられました。

ですから私達も、絶えず原点に戻って。

なぜなら基本が分からなくなると、確信がなくなるのです。

その基本をもう一度考えたいと思います。



南無妙法蓮華経とは?



まず妙法蓮華経とは何か?ということです。朝晩言っている南無妙法蓮華経。宇宙の森羅万象の中に含まれて溶け込んでいるのです。

十界互具といって、あらゆるものは10の世界を持ってます。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人界・天界・声聞・縁覚・菩薩・仏。10の世界がどんな所にもあるわけです。太陽にも、月の中にも、星の中にも、一粒一粒落ちてくる雨の中にもあるわけです。石ころのなかにも。ネコでも犬でも持っている命の事なんです。極端にいえば、ノミでもシラミでも持っているのです。宇宙の中にあるのですから、当然私たちの中にもあるのです。妙法蓮華経と云う命がこの中にある。

しかし、あるだけでは何もならない、出して使わなければ。その使う方法として大聖人は、御本尊様を現した。「日蓮が魂を墨に染め流し」大聖人の魂を外に出して形にした。みんな持っているけれど形にできなかった。自分の中に溶け込んでいたから。

何が溶け込んでいるか?仏の働きです。形があるわけではない。だけど仏の働きがあるから仏性という。仏の根性、仏の性分。十界だから、怒る命もあります。怒る命が爆発すると「コンチクショウ」と言う(笑)お金が欲しい!とは餓鬼で、それは「貧乏性」。悩む命だってあります。悩む命が爆発したら飛び込み自殺もします。それを地獄というのです。欲しいって言う命が爆発したら、万引きでも泥棒でも強盗でもやるんです。怒りが爆発すると人殺しもするんです。クラクション鳴らしただけで人殺しした人がいる。些細な事で。反対に嬉しいっていう命もあります。爆発したら、身体全体が喜びです。その時はお赤飯を炊きます。もし南無妙法蓮華経が爆発したら何でも願いが叶います。しかし、この中にある南無妙法蓮華経は色も形もありません。でも確かに自分の中に抱きしめているんです。だけど抱きしめている事すらもわからない人がいる見えないから。

一番近い所にあって、見えない事を雖近而不見(すいごんにふぅけん)。聞いたことあるでしょ?

近しと雖も而も見えざらしむ。近くっても見えない、でもこの中にある。この中にある南無妙法蓮華経を外に出したのが、日蓮大聖人様だ。一人一人の命の中に、私と同じ命があるんだよって言うのが我復於彼中(がぶおひちゅう)。我も復 彼の中に於いて。

私はあなたの中にもいるんだよ。あなたの中の法を説くんだ、為説無上法(いせつむじょうほう)。でもあなたは外の御本尊様ばかり見ている。向こうの御本尊様から何か来ると思って信心していたら、それは乞食だよ。

御本尊様の功徳は、お薬あげようという功徳ではないんです。お金あげようという功徳ではないんです。

では何か?あなたの中の南無妙法蓮華経を出してあげるよっという功徳なんです。

生け花があります。生け花は口を利きませんが。そこにあると「あぁ綺麗だな」と感じるでしょ?外の花を中で楽しむ、これを花見という。外の富士山を中で楽しむ、これを観光旅行という。空の月を中で楽しむ、これを月見という。外のピアノを中で楽しむ、これを音楽という。外の御本尊を中に湧かして楽しむ、これを勤行という。あなたの中に働くのを内道って言うんです。外から何かもらえるのを外道って言うのです。キリスト教など、神様が別なところに居て助けてくれる。仏法は外に御本尊様があるけれど、それは仏縁で、あなたの中の南無妙法蓮華経を引っ張り出してあげるのだと言うのです。湧かしてあげるのだから、あなたの親だよ。「我亦為世父(がやくいせぶ)」。 湧かしてもらうあなたは子供だよ。「一切衆生わが子なり」。私は親だから他人じゃないよ。私の財産を全部あげましょう。御本尊の財産は「常楽我浄」です。常に楽しくって清らかなのです。常とは三世。過去・現在・未来。起きて良し、寝て良し、死んで良し。そういう命が潜っている。それを出すことを自体顕正と言うのです。それを出すために御本尊様を御まつりするわけです。仏の命は刀を振りかざしても首は切れない、外から不幸にできない強い命が中にあるということを大聖人御自身で証明した。それは南無妙法蓮華経というお曼荼羅だよ。日蓮の魂を出した、この御本尊と同じものがあなたの中にもある。でも凡夫だから出せない。出せる人は仏様だけれども、同じ仏でもお釈迦様では出せない。他の仏様では出せません。日蓮大聖人様ただ一人出せるのだから、御本仏というのです。だから、この南無妙法蓮華経を鏡にして、あなたのようにしてください!と心を声に顕わしてぶつかってきたら、あなたの中の南無妙法蓮華経を湧かしてあげましょう。湧かしたら、あなたも南無妙法蓮華経で私と同じだよ。私と同じ境涯にしてあげたいと言うのが御本尊なんですよ。祈れば自分の中の南無妙法蓮華経がズゥゥンと出てくるわけです。この中に潜っている溶け込んで見えないものを見えるところにズゥゥンと引っ張り出すのが信心なんです。それが頭の天辺、中まで届くと頭痛が止まります。目玉に届くと目が見えます鼓膜まで届くと耳が聞こえます。背骨までいくと、カリエスが治ります。血液の中まで入ると白血病が治ります。中にあるだけでは、無いのと同じです。電波があったって、何も聞こえてこないもの。ここにラジオとテレビを置いてスイッチ入れたら、いっぱい聞こえてくるニュースも聞こえてくる。色も形も見えてくる。山口百恵が歌を歌ってくるの見えてくるよ(笑)反対に電波は来てもラジオもテレビも無いなら電波は今、無いのと同じなのです。あってもスイッチ入れなきゃあ駄目です。宇宙の中にあるんですから電波は12チャンネル来ているんですから。御本尊様を顕わしたということは、テレビを発明したみたいなものです。久遠元初、大昔から電波はあるのです。南無妙法蓮華経も大昔からあるのです。だけど誰も南無妙法蓮華経を顕わしてくれなかったから、見えなかった。だから、大聖人様はありがたいのです。南無妙法蓮華経を形にした。御本尊のスイッチ入れてごらん。功徳がよく見えるよ。功徳が自分の体の中に見えるのです。中に湧くから、内道と言うのです。向こうから功徳が飛んでくるのではない。外から飛んで来れば、それは外道だ。胃がんで困っちゃった。南無妙法蓮華経と唱えてなぜ胃がんが治るのか?御本尊様が注射してくれたのか?そうではない。御本尊様が薬を飲ましてくれたのか?そうではない。御本尊様がお金くれたのか?そうではない。御本尊様は黙って見ているだけだから。ではどうして胃がんが治るのか?それは御本尊様と同じ南無妙法蓮華経が、こっちにあるからです。自分の中の南無妙法蓮華経と外の御本尊様と声でぶつかるわけです。どちらも南無妙法蓮華経だから感電する。それを感応妙という。同じものがあるから、どっちも感じるのです。南無妙法蓮華経と感電しちゃう。御本尊と同じになっちゃう。仏様と同じになるから蘇生するんです。


妙とは蘇生の儀なり


雷様は空で光ったって感電しちゃうよ。とたんに感電したら雷様と同じになっちゃう。それを感電死という。その代り死んじゃう。高圧線なんて触らなければ感電しない。触れば即死だ。御本尊様は、雷も離れていても感電しちゃう。御本尊様と離れていても感電しちゃうんです。

宇宙の法則で強いんだから。人間も同じようなことで感電しますよ。それを恋愛と言うんです。どっちも感ずるんだから。相思相愛だから。片っぽだけなら片思いだもの。御本尊様の南無妙法蓮華経は、仏力・法力です。私たちの南無妙法蓮華経は信力・行力です。信力・行力と仏力・法力が、ぶつかって感電して同じになっちゃうんです。そうすると、この身体が、南無妙法蓮華経になっちゃいます。だから「あぁっ御本尊様と私の命が同じになっちゃうのが信心かっ!あぁ知らなかった。私は不幸だと思った。私は罪障が深いと思った。とんでもない、大間違いだ。私は世界一幸せ者だったんだ!御本尊様、よ~くわかりました!ありがとうございます」と言うのが信心なのです。そうしたら、嬉しさがこみ上げてくるのです。仏様と同じになって、乳がんの仏とか、子宮がんの仏とか喘息の仏とか、ないんです。貧乏な仏なんかないんです。南無妙法蓮華経と中にグゥゥンと湧いてそれが病気に対しては薬になります。「いかなる病、障りをなすべきや」中で全部なおしちゃいます。

風邪薬は風邪しか治してくれないです。目薬は目でしか効きません。腹薬は下痢しか止めてくれません。南無妙法蓮華経はなんでも治しちゃいます、頭痛でも中耳炎でも白内障でもカリエスでも喘息でも、ヘルニアでも何でもかんでも治しちゃうんです。アパートのマスターキーみたいにどんな部屋でも開けちゃう。根本ですから。だから「いかなる病、障りをなすべきや」薬の中でも大良薬「此大良薬(しだいろうやく)  色香美味(しきこうみみ)」だから御本尊様を拝む事がありがたくなかったら、おかしい。他には、その南無妙法蓮華経が磁石の働きもします。

「磁石の鉄を吸うがごとく」「ゴヤクの塵をとるがごとし」「今又法華経を信ずる人は、幸いを万里の外より集むべし」

幸せを万里の外から引っ張るんです。

お金がほしいなとお金を呼ぶ力です。

家に困ったなって言ったらちゃんと家が出てくる力です。洋服が欲しいなと思ったら洋服を呼ぶ力。結婚したいなと思ったら相手を呼ぶ力。なんでも欲しいものが、スィィィスィィィと呼んじゃう力がこの中にあるんです。それが見えない、南無妙法蓮華経と、御本尊様と感電するとこっち爆発します。だけれども喜びがないと出が悪いわけです。嬉しくって嬉しくてと題目上げると爆発です。三座やんなきゃあ、寝られないのかなぁ、と嫌々拝んでると、しぶしぶ出てきて、すぐ引っ込んじゃう(爆笑)。だから目玉に届かないから目が開かない。頭に届かないうちに引っ込んじゃうから、頭痛がなおんない。そういう意味で、私は御本尊の側に住んでいて、嬉しくて嬉しくてっという題目を上げないと損だなと思うんですね。いわゆる南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり。磁石の働きと病気を追放する薬の働きと両方持っている命がこの中にあって、それが沈んでいたのでは何にもならない。見える所へ引っ張り出す「自体顕証」だから。とけ込んでいたら妙伏です。または潜伏です。潜在ですから。石けんの洗剤じゃあないよ。潜水艦の潜だから潜っていただけではダメなんだ。それが南無妙法蓮華経と声を出して拝むと、わが身の中に「報法の三身と現われ」「如是相・如是性・如是体」と現る。如是相に出てくるから顔色が良くなる。目がきりっとしまってくる。人相が良くなる。拝むと顔色が良くなるでしょ?。人相が明るくなるんです。そして如是性にでてきます。根性。根性は見えないけれど根性曲がり、なんて言うでしょ?持っているのだから。如是性が人の事を逆にとるような人が素直になります。怒りっぽい人が、優しくなります。ケチな人が他人に物を上げたくなってしまう。題目を上げると、なんか変わったなぁ変わったなぁとあの人は信心してから変わったなぁと、みんなが思うようになることは、如是相・如是性が変わるからです。で如是体が変わるから。これを人間革命というのです。だから自分の顔が見えないから向こうに鏡を置くんです。向こうに鏡を置くのは、顔を見る為に置くんです。鏡の為に鏡があるんじゃないんだから。こっちもお化粧するために鏡があるんだから。鏡を向こうに置いて、目で見て外から磨くんですね。自分の仏は、自分で出せない、凡夫だから。向こうに御本尊を御まつりして心で南無妙法蓮華経と声を出してぶつかる。中から磨くのが勤行だ。学会の女性は外からも磨く。中からも磨くから学会美人って倍ぐらい美人になっちゃう。心も清らかになる、人相も良くなる。だから、南無妙法蓮華経にかなう楽しみはないよ。一切衆生、南無妙法蓮華経と唱うるよりほかに遊楽はなきなり。他にも楽しい事はいっぱいありますよ。全部外と中の関係ですよ。菊の花は外だから綺麗だなっていうのは中だから。外の菊の花を目でみて、中で綺麗だ綺麗だという。これを花見っていうんです。外の富士山、外の馬津島、外の瀬戸内海、アメリカならナイアガラの滝、そういう景色を眺めて、中で楽しむのが観光旅行です。これで目で見ている。外の良い景色が無かったら楽しくないんです。空の月を見て楽しむ。これを月見っていう。ピアノは外だ、レコードも外だ、耳で関係して中で楽しむ。これを音楽の鑑賞です。外と中の関係じゃあないですか目で触ってるか、耳で触っているか。外の御本尊様を心で触るのです。声に顕わして南無妙法蓮華経と触ると、中に南無妙法蓮華経が湧く。これを衆生所遊楽、花見も楽し、月見も楽し、音楽も楽し、観光旅行も楽しい、みんな衆生所遊楽です。しかし、そういう楽しみは貧乏を治す力は無いんです。子供の小児マヒを治す力は無いんです。花を見ても、月を見ても。御本尊様、南無妙法蓮華経…ってみんな治しちゃうんです。だったら、比べ物にならないじゃないですか?他の楽しみと御本尊を拝むのは比べ物にならないほど御本尊様はありがたい。楽しいんです。だから歓喜の中の大歓喜なりだし、南無妙法蓮華経と唱うるよりほかの遊楽は無きなり、というんです。花を見ても楽しい、音楽も楽しい、月を見ても楽しい、でも南無妙法蓮華経はなんだか面倒くさい。全く逆になっている。だから功徳がでない。嬉しくて嬉しくてたまらないという勤行。あぁっまたご本尊様の前に座れました!ありがとうございます!南無妙法蓮華経。ご本尊様に対して同じになっちゃうんですね!ありがとうございます。ありがとうございます。血管の中まで南無妙法蓮華経と洗っていくんですよ。骨の髄まで南無妙法蓮華経と染みこませていくんですよ。目玉も中から洗っていくから目が見えてくる。もう乳ガンだとか子宮ガンとか、南無妙法蓮華経ってブルトーザのようにガァァッとえぐるように攻めるんです題目で。だから癌だとか瞬間でちっちゃくなっちゃう手術したと思ったら消えちゃった。なんてなっちゃうんですから。それぐらいすごい凄い力があるのに、喜んで拝んでない。しょうがないから拝む。良いことだから拝む。罰があたっちゃったら困るから少し拝むか…なんていう。五座が無ければ助かるんだけれどなあぁぁなんて言いながら渋々拝むと、功徳の方も渋々出てくる。喜んで拝むと、功徳も爆発です。それが信心する人の責任なんです。だから行道不行道、随応所可度(ぎょうどうふぎょうどうずいおうしょかど)行道は歓喜と確信のお題目。不行道は怠けるお題目、嫌々題目、反対する題目。喜んであげたら功徳は100%。嫌々あげたら、功徳もちょっぴり。反対したら罰がでる。それを、そちらの信心に応じて功徳をあげましょう。と言うので行道不行道、随応所可度と言うのです。だから信心する以上は、喜びの題目、確信の題目が無ければだめだ!それで中に湧くのですから御本尊様は向こうにあると思って拝んでいてはいけない。中に御本尊を沸かすんです。そういう気持ちで。向こうに御本尊があると思っていると、なんだか他人行儀になって外から乞食が物をもらうような気持ちになっちゃうんです。南無妙法蓮華経と唱えなさい。私はお父さんなのだから、あなたは子供だよ。親子だから。財産を全部あげますよ。我亦為世父(がやくいせぶ)。我もまたこれ世の父なり。お父さんなんだ一切衆生はみな子供だ。それからもうひとつは師匠ですね、御本尊は。主親の三徳なんだから、師匠だから、こちらは弟子だ。師匠様は、弟子を同じようにしたいのです。自分と同じように、免許皆伝したいわけです。だから御本尊様と同じになるんだ!御本尊様の財産をそっくりそのまま頂戴する。その財産が病気を治すとか、商売繁盛なんていう、そんなちっぽけなものなんかじゃあない。常楽我浄と云う命です。


御本尊の全財産が、常在霊鷲山


また常楽我浄、常に楽しく我清し。常とは三世なり。過去・現在・未来。南無妙法蓮華経!先祖代々の過去の謗法を消す。南無妙法蓮華経!今困っている事を解決する。南無妙法蓮華経!未来の幸せを呼ぶ。これだけの力が、南無妙法蓮華経にはあるのです。だから、常楽我浄…常に楽しい。起きて良し、寝て良し、死んで良し、って云うんだから。これが常楽我浄ですよ。常とは三世。起きて願いを叶えなさい、寝たらぐっすり寝なさい。死んだら霊鷲山ってぐっすり眠ったような状態か、楽しい夢見ているような状態か。そういう状態でオギャャッと生まれてみたら、とてもぐっすり寝たのだから気持ちがいいと、そういう風に元気な赤ん坊になって生まれてくる。必ず人間に生まれてくる、必ず御本尊様に会う。必ず親、兄弟、家族と、必ずお目にかかる。これが御本尊様の功徳ですから。それで死んでも怖くないわけです。現有滅不滅(げんうめつふめつ)有滅不滅を現ずるけれども、死んだり生まれたり無いのと同じである。すぐまた戻ってくるのですから。若退若出(にゃくたいにゃくしつ)って云うのですから。で、出てきたら また人間だから。また親、兄弟、夫婦、会うのですよ。「あらっ?また会うの?」なんて(笑)困る人も中にはいるかもしれないけれど(笑)まあ、嬉しい人の方が多いわけです。それを ういのおくやま、きょうこえて、朝日ゆめみじえいもせず 本当にこれが生死即涅槃(しょうじそくねはん)その悟りは法華経を信ずる、御本尊様を拝んで、実感する以外にないのです。なぜ実感できるか?現世の事が功徳がどんどん出てくるから、死んでからの事も本当だなってわかるんです。それで御本尊を拝む。だから向こうから乞食が物をもらうように功徳があるとか分けてもらうとかではなく、同じになるのだから御本尊様をこの中に見ている。外にあると思ってない、中に見なさい。身体の中にあるんですから、湧くのですから。湧いた南無妙法蓮華経は御本尊様と同じなんですから。もったいないけれど、それが信心のポイントです。私が云うのではないのです。大聖人様が仰せですから。

P.1244

此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり


この御本尊全く外にあると思うな。ただ南無妙法蓮華経と唱える私たちの胸中、つまり胸の中だよ。肉体の中に御本尊様と同じ力が湧いちゃうんだよ。こっちの南無妙法蓮華経、色も形も無いけれど、働きが御本尊と同じになっちゃうんです。これが教え。全く向こうにあると思うな。中に見るんだ南無妙法蓮華経をこの中に湧いてくるんですから。これを覚えてください。自分の胸の肉体の中にあるんだぞ!って全く外だと思うなよ!ってだから、御本尊を拝む時には、仏壇の中の御本尊様を南無妙法蓮華経と身体の中にグワワッと湧いて、血液まで洗っていくんです。脳みそまで洗っていくから頭が良くなるのです。題目とは智慧なり だから。バカが利口になるのですから…バカにつける薬って云うんだから大良薬ですね。牧口先生は馬鹿につける薬がある。南無妙法蓮華経はバカがつけると利口になる薬だといつもおっしゃった。50周年だから初代会長の事、言ったっていいでしょ?だからありがたいのですよ。これが一つのポイント。南無妙法蓮華経がグーウウウンと爆発したら、頭のてっぺんから足の爪の先まで、南無妙法蓮華経になりますよ。手の指の先まで南無妙法蓮華経になってしまうんですよ。だから関節リュウマチなんか、その場で治っちゃうんですよ。帰りに治っちゃう人、いっぱいいるんですよ。ありがたい。それくらい功徳が早い。その時には頭が妙だ、喉が法だ、胸が連、腹が華、足が経だ。私たちのこの五尺の身体が、南無妙法蓮華経の五重の塔になることを信心と言うんだということです。だからすごいんですよ。中に南無妙法蓮華経が湧いた時だよ。怒っているときは駄目だよ。怒っているときは、頭のてっぺんから足の先まで、修羅だから。悩んでいるときは、身体全体が地獄だからね。南無妙法蓮華経と唱える、南無妙法蓮華経が湧いてきたら。この身体が、お曼荼羅と同じになっちゃう。その時には、どんな病気も治しちゃう。


716P

我等が頭は妙なり喉は法なり胸は蓮なり胎は華なり足は経なり此の五尺の身妙法蓮華経の五字なり、此の大事を釈迦如来・四十余年の間隠密したもうなり 開とは信心の意妙なり


開とは、開く、自分の中に溶け込んでいる南無妙法蓮華経を身体いっぱいにグゥゥゥっと開くことだ。それを信心と言うんだ。喜んであげたら、爆発です。その時には頭は妙になるよ喉が法だ、胸が連、腹が華、足が経になるよ。だから頭の痛い人は邪宗の頭になっているんですよ。創価学会に入って10年も経つのに、邪宗の頭ってどういうわけだって。それは今は妙法です。でも先祖代々から染み込んだ禅宗や真言宗や念仏の残りかすがあるから痛いのです。過去の法が起こるがゆえに病む、いわゆる頭と目と背の痛みとあるのです。信心が弱いと、残りかすが取れないのです。喜びが無いと、どうしてもカスが残っちゃう。だから、歓喜でお題目をあげて、グルゥゥゥッと洗ってあげないと本当の幸せを感じないですね。業との戦い、宿命との戦い、が長引く。それを押しうるために仏様は生まれてくるのです。それを教える為に生れてきて、説明したのがお釈迦様だ。こうやって実践しろ!と説明なしに御本尊を拝め!って言ったのが大聖人様だ。なぜ拝むのか?と言うと経文を見ればわかるわけです。御本尊様は凄いんだ凄いんだと。でも経文だけでは効能書きで、医者や薬は御本尊様だから。御本尊に南無妙法蓮華経と唱えることが薬を飲むということ。お釈迦さんの経文をいくら読んだって、薬の効能書きだけで薬は無いから法華経だけでは駄目なんです。そういう意味で、やっぱり御本尊様はありがたい。御本尊様があるということは訳が分からなくても南無妙法蓮華経と唱えると、功徳があるんです。赤ん坊がおっぱい吸うのと同じです。それは初心の人はそれでも良いですが、10年20年と信心やってきた人は、ただ赤ん坊がおっぱい飲むように、何もわかんなくっても良いから飲め、とはね。それでは幼稚。やっぱりよくわかった方がいいですよ。糖尿病の時は糖がこうやって、糖分の無いものとか、研究してやる。同じように、訳が分からなくて、ただ南無妙法蓮華経と唱えるていては喜びが無いから惰性になっちゃう。やっぱり教学を勉強したり会合に行ったり体験を聞いたり、あぁ凄いなってビックリしゃっくりしながら前進するんですから。組織が無いと前進できない。とにかくこれが分かればいいんですよ。一行じゃあないですか?


「我等が頭は妙なり、喉は法なり、胸は連なり、腹は華なり、足は経なり、この五尺の身、妙法蓮華経の五字なり」


私が仙台に行ったときに、糖尿病で目が見えなくなった大幹部がいた。失明を大学病院で宣告されました。右の方も目が悪いです。左の目が見えなくなって右の目も見えなくなったら、どうしよう。そう思うと、いてもたってもいられない。もう自殺したくなるくらい。それで私が行った時に、わらをも掴む思いで指導してください。左の目が全然見えなくなっちゃったっていうんですね。右の目の方も危ない。でもパッチリと目があるんですよ、大きな目がね。両方目がそろっていて、見えないのか?って聞くと見えないっていう。

大聖人様は開目抄って言うんだよ。目を開けって教えているのに、それじゃ閉目抄じゃあないか逆だよ!逆をやったから見えなくなっただけだよ。猛烈な反対をした証拠だ。目に来るというのは「キチガイ」っていうと目に来ると経文にあります。お前なんか「キチガイ」だ「狂っている」そんな題目なんかあげて何もなるものか!こういう風な反対をすると、かくの如きザイホウはまさによよぎまなこなかるべし生まれてくるたびに、難にあうんですよ。今世だけでなく、来世も。それくらい恐ろしい。でもあなたは半分見えるのだから5割引きだ。御本尊拝んでいるから、軽く薄く出ているんだよっ!もし信心しなかったら、今世は失明です。そういう宿命だよ。それがわかれば良いじゃあないか。「あぁ信心していなかったら失明する宿命を持っているのだ。ああっ御本尊拝んでいるから、軽く出てきて、消えていくんだな。」こう思ったら感謝にならないか?それを一生懸命拝んできたのに、20余年も信心してきたのに、どうして目が見えなくなっちゃったんだろうな。御本尊拝んでも、幸せになれないのか。こんなに折伏してきたのに御本尊様は私の目を治してくれないのか。文句が言いたい。そういう命がどこかの隅にあると目が見えないよ。愚痴と文句は功徳を消し、感謝と喜びは功徳を倍加しょって言うんですから。頓愼癡(とんじんちの三毒)といって愚痴なんだから五座・三座やっていながら愚痴なんだから心が濁っちゃうんです。こんなにやっているのにどういうわけだ。そうじゃあないんです。こんなにやっていても先祖代々の謗法なのです。残りカスなのです。「あぁ私の凄い凄い謗法だ」「我が家の謗法だ」「先祖代々の謗法が」こういった残りカスが私に来ているのだ。「御本尊様、身にしみて良くわかりました。みんな私の責任です。よくわかりました。我が家の謗法を勘弁してください。私の謗法を許して下さい。一生懸命信心してきました。これからもこの命御本尊様に捧げて広宣流布します。どうか広宣流布の為に命を捧げますから、御本尊様のお顔をはっきり見せてください。拝むんですから拝むあなたのお顔が見たいのです。そして南無妙法蓮華経と唱えるときには、仏壇の御本尊身体の中に湧かすようにしてグゥゥンと裏っかわから目玉を洗うようにして、お題目をゆっくりゆっくり丁寧にあげてください。目玉を洗っていきなさい。そういうつもりでお題目をあげてみろ!南無妙法蓮華経、目玉に届いたら、瞬間に目がみえてくるんだよ。拝んでいるのに、どういうわけだ、と疑っているから切れちゃってるんだ。目玉に届かないんだ。感謝と喜びが無いじゃあないか。確信が無いじゃあないか。おろおろして、だらしがない。自分の中にもっている南無妙法蓮華経が目玉に届けばいいんだ。グゥゥンと南無妙法蓮華経が湧いてきたら、目が開くに決まっているんだよそのために目玉があるんだろう?私の題目で大丈夫ですかって言うから、絶対大丈夫だといった。一生懸命やります、といって15分ぐらいね、お題目をあげたら「副会長、目が見えてきました」っていう。その場で15分ですよ。部屋が全部見えてきて、私の顔がよく見えてきてネクタイの柄が見えてネクタイピンまで見えてきた。飛んだりはねたりして、電話でご主人を呼びつける。夫婦で本当にあぁぁっよかったよかった、こうやってもうたちまち感謝に変わった。仙台ですよ。今度ダブル選挙で、広島まで行くと言っていた。それで悪い失明した方の目の方がよく見えるようになった。ハガキが来ました。


(手紙紹介)


失眼と言われ、ご指導うけて三ヶ月になりました。おかげさまで、初めて字を書くことができました。熱く熱く御礼申し上げます。ダメになった左目が実によく見えるのです。字は下手ですが私は喜びでいっぱいでございます。日々、大御本尊様に守られ、病める友のためには全力で激励に頑張っています。大変乱筆で申し訳ございません、さようなら)


これはもう、その場でですね。歓喜に変わったからすぐ功徳が出てくる。それは中にあるんだから。南無妙法蓮華経が、身体をグルグル洗っていくんですから。

南無妙法蓮華経と言うのは獅子孔。ライオンが吠える一遍、南無妙法蓮華経と電気がグルグルっと走るようにライオンが一度パトロールします。がんの細胞とか、糖尿病の黴菌とか、結核菌とか、ばい菌は鶏かウサギみたいなものです。ライオンが来ただけで、もうすくんでしまうんですね。ライオンが悠々と食べちゃうんです。南無妙法蓮華経と一遍でライオンがパトロールだもの。どんな病気であろうと獅子王の前のウサギやニワトリみたいなものです。それぐらい違いがあるのだからそれで病気が治るわけです。そう思って身体の中に、余所に求むる事なかれ、なんだから。


【ここからしばらくテープが切れています】

もうみんなに体験発表して、これで内職が出来るぞ、と思って内職始めたらまた痛くなっちゃったんです。どういうわけだろうと大騒ぎになっちゃって。それで幹部に指導を受けた。あなた何か一つ忘れていないか?広宣流布の為にって約束したのに治ったら。あっそうだったと気がついた。広宣流布を忘れて内職が出来るぞって。そう思ったら、たちまち痛くなっちゃって。もう一度謝って、広宣流布の為に…って祈ったら、また治ったのです。だから心で思っていると形になって出てきちゃう。一念三千と言うことは、この形だけではない、形だけで五座・三座やったって、心の中が濁っては駄目だ。とっても面白い例だからご紹介します。


【手紙紹介】


岡山文化会館で辻先生より個人指導を受けました、松田敏子です。腰が痛いので病院に行ったところ、娘時代に、肋骨を切除しているための後遺症で腰の骨が変形しているのです。仕事をするのなら、コルセットをはめなさいと医者に言われ、大変悩んでいました。聖教新聞を配達するにも大B担として活動するにしても、腰が痛いと困るし、本部婦人部長に相談しましたところ、辻副会長が、個人指導をしてくださるから受けなさいと激励を受け、個人指導を受けました。腰の痛みは邪宗教からきている。謗法の罰をわび、先祖の分まで広宣流布の為、戦いますから、どうか健康にしてくださいとお願いするのですよ。そして身体をクリーニングするような気持ちで、正確なお題目を唱えるのです。あなたはまだ若いのだ。腰の痛みは治りますよ、と力強いご指導をしてくださいました。翌日は少し痛みがありました。しかし次の日の朝は気持ちよく起きられたのです。治っている、治っている腰が…。主人を起こして、よかったよかったと大喜びして大御本尊の前で、とめどもなく涙が流れて仕方がありませんでした。新聞配達しながら、大Bの人たちに副会長の指導を受けたこと、私の腰痛が治ったこと等、話して語りました。もう腰は治ったし内職が出来ると、ミシンを踏み始めました。ところが、どうしたことでしょう。目の周りが暗くなっていくのです。胸や腹が苦しくなって、トイレに駆け込んだりしましたが、お通じがありません。胸が苦しくなり、また御本尊様のところに行き、倒れそうなのを我慢して、題目を上げました。全身から汗が噴き出してきます。どうにもならない苦しさなので、仕事に行っている主人に帰ってきてもらい、病院で診察を受けましたが、原因が分からず精密検査をしなくてはいけないといわれました。その夜、本部長に電話をいたしました。原因が分からないのなら、医者で治るわけがない。松田さん、広宣流布の為に健康にしてくださいと、お願いしたの?といわれ私は、ハッとしました。

そうだ!広宣流布の為に私の腰痛は治していただいたのに、それなのにこれで内職が出来ると思った。私は本当に申し訳ないことをしたと。御本尊様の前に行き、お詫びの題目を上げました。仏法の為に身体を使う以外にないのだと思いました。辻副会長と広宣流布の為にと頑張ることを約束したじゃないかと自分を叱りながら、一生懸命題目を上げました。

その時から、腰痛はすっかり治り現在は病院にも行かず、新聞配達をしたあとは朝は必ず一時間のお題目をあげ、昼は大Bの人たちと会うようにしています。今から思い出せば、家の経済の為に仕事をして、会合はあるから行くのだ…と喜びの唱題がありませんでした。個人指導を受けてからは、歓喜の唱題に変わり、毎日が広宣流布の為にと、一日一日を過ごしております。


この手紙には大変凄い教えが含まれています。御本尊様は、内職をしてはいけないなんて、そんなケチくさい御本尊ではありません。内職しても良いんです。これで広宣流布できるぞ!ってそういう喜びで、ちょっと時間があるから内職しようって言うのならいいんです。広宣流布を吹っ飛ばして、これで内職が出来るぞ!ってそっちが先になったからいけない。仕事の内職と広宣流布、どっちを根本にするかです。そこのところが本末転倒になって、本末究竟等になっていないから、ちょっと心が曲がると、そこに現象が出てくる。それぐらい御本尊様は正直だと、それを一念三千という。


それから8月の中旬に足立平和会館に行った時、その人は10年も前から、足が痛い、左足が。でこういう勤行会の帰りには治っちゃうんですね。帰りには。だって足の先まで南無妙法蓮華経になっちゃうから、歓喜したら。私はこの人に直接会ってはいませんがお手紙を頂きました。個人指導ではありません。こういう会館で私の話を聞き、一般論でお聞きになった方です。このお手紙の中に大きな教えが二つ含まれています。皆さんも一緒に考えてもらいたい。


手紙紹介


「前略、私は足立区に住む婦人部でございます。辻先生に一言、お礼を申し上げたく筆を取った次第でございます。8月の足立区平和会館における家族勤行会の席で足が悪くて指導会に参加させていただきました。10年前にバスに乗ろうとして転んだのが元で、左足が痛み続けていたのです。辻先生の「自分の謗法を畳に頭をこすりつけてお詫びしなさい」とのご指導をお聞きし、心から自分の過去の謗法を自覚し心からおわび申し上げました。指導会以来、足の痛みはなくなりました。あまりにうれしくお礼のお手紙を書かせていただきました。今日からまた、報恩感謝をこめて、折伏に頑張りたいと思います」


こうして大勢の中にいて、私の話を聞いて非常に強く感じて、もう帰りには足がなおっちゃうんですよ。10年来の痛みです。この人、前から御本尊を拝んでいるのでしょ?どうしてもっと前に治っていないか。これが問題なのです。私が話してから拝みだしたのではないのです。前から拝んでいるんですもの。拝んでいるから会合にきたんですから。じゃあもっと前に治っていてもおかしくない。私は医者でもなければ拝み屋でもないんです。私が治すのではありません。この人は自分で治したのです。なんで治らなかったかと言うと「10年前にバスに乗ろうとして、転んだのが元で左足が痛み続けていたのです」つまりあの時バスに乗らなければ良かったと思っているのです。バスに乗ろうとして転んだのだから、バスに乗らなければ良かったと思っている。そうではなく、この人は手足で苦しむ業を持っていたのです。法華経をバカにすると手脚病来といって、手足がねじれて使えなくなるとあります。関節リュウマチになったり、小児マヒになったり、又は松葉杖になったり車いすになったり、そういう宿命があるんです。法華経をバカにしたんです。一番バカにしたのが真言宗と禅宗なんです。真言宗なんて骨まできちゃうんですから。骨と血液まで来るんです。禅宗は一番この、手足にくるんですね。それでその謗法が、バスに乗ろうとしたのがきっかけでその縁で出てきて、その元がある。あの時にバスに乗ったのがいけないんだとバスを怨嫉しちゃっているわけです。それが一つ目の間違い。先祖の邪宗教の謗法がバスに乗るときに出てきただけです。バスはただの縁なのです。元の原因は邪宗だということが分かっていなかった。もうひとつは、確信がない。「私のような信心では治るわけがないと思っていましたが、この信心はなんでも叶う、まさに偉大な信心であると心から感じました、」と私の話を聞いてから確信したんでしょ?それまでは「私のような信心では治るわけがない」と思っているわけですから、これじゃ治んないよ。口だけパクパク南無妙法蓮華経と心が全然信心がありません。そういう弱い信心ですね。だから宿命打開できない。本当は百万円持っているけれど、五万円しか財布に入ってないんだと思ったら、買い物は五万円しかできませんよ。百万円持ってるぞ!と思ったら、百万円の買い物が出来ます。百万円あるのに五万円しかないんだと、錯覚したら、五万円の買い物しかできないわけです。もったいないじゃあないですか?

「南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはりをなすべきや」P1124

と言っているのに。私のような信心では、治るわけない。それじゃあ、御本尊様と合わないよ。だから治んないんです

それは分かりますね。純真に「あぁっそうか!」と思ったら、すぐ治っちゃうんですよ。


富山県で、9月17日に奥さんが喘息、主人が腰が痛くてしょうがない。子供が腸の中におできが出来ている。それが「あぁっ我が家の謗法からきているのだ」心の底から謝って勤行したら一遍の勤行で腰が治っちゃった、ご主人。奥さん喘息が治っちゃった。一週間たってから、喘息が治っているのに気がついた。主人に言われて気がついた。子供のおできがちっちゃくなっちゃってる。一変に家中、功徳です。親の信心ですね。


【お手紙紹介】


前略、ごめん下さいませ。秋さわやかな今日この頃となりました。私は元気に学会活動に頑張り、日々楽しく暮らしております。私は二年ほど前から、夜になると咳が出るのです。病院に行って診てもらいました。医師から喘息だと診断されました。咳が毎晩続きました。また、主人の腰痛がひどく子供の盲腸の下あたりに、大きなしこりがあり、悩んでいました。そんな時、辻副会長がお見えになる会合に主人共々参加させて頂きました。

副会長のご指導の中に、過去世の謗法の恐ろしさを話されまして、御本尊様を保つがゆえに、謗法の重い罪障が転重軽受されている事を、教えていただきました

私はその場で本当に心の底から謗法を詫び、広宣流布の為に戦うことを決意しました。御書の中に、我らが頭は、妙なり、喉は法なり、胸は連なり、胎は華なり、脚は経なり、この五尺の身、南無妙法蓮華経の五字なり、わが身の仏性を湧顕していけば、必ず健康になれると、確信を持つことが出来ました。また、様々な体験を紹介されるのを聞いている内に、私も絶対に治る…という確信が湧いてきました。私は、本当に信心して良かったなぁと心の底から感謝の気持ちがこみ上げてきました。帰宅後、主人共々に、夜の勤行を真剣にさせていただきました。勤行のあと、主人が急に腰が軽くなったと…喜んで話してくれました。それから一週間後、主人から「お前の喘が、治っているじゃないか」と言われ、本当に治っているのに気がつき、感謝の心でいっぱいです。本当にありがとうございました。それから先輩の方から「あなたの顔、とても綺麗になったわね」と言われシミの薄くなっているのに気がつきました。また子供のしこりが小さくなっているのにも驚いています。副会長、本当にありがとうございました。指導通り過去世の謗法を詫び、広宣流布の為に戦うことをお誓いして、お礼のお手紙とさせていただきます。草々

(拍手)


本当に素直に、やったらすぐにこういう風にね、ご主人の腰も治る、奥さんの喘息も治る。もう喘息なんか薬では絶対治りませんからね。業だから、笑った罰だから、法華経を。経文にありますから、軽蔑したら喘息になるんです。だから謝って、お題目で治す以外には、絶対治んない。もう素直に謝ったら、すぐ治っちゃう。それがありがたい。ただ赤ちゃんのような場合は、赤ちゃんは自分では治せない。こういう場合は、もう親の題目です。親子と云うのは即同じですから、南無妙法蓮華経と、自分の中に湧かせて、それを子供にドンドン輸血するんだ。他人だって輸血すれば治っちゃう。血液型が違うと困っちゃうけど題目は血液型なんて関係ない。ただしその時の信心の仕方、条件があります。

「この子供は必ず広宣流布のお役に立てます。約束しますから、御本尊様、子供の病気を治してください」それで初めて親の信心が通じるから、子供が題目あげられなくても、治るわけです。この間、世田谷の方で、二歳七カ月の子供が、知恵遅れで、声は出るけれど、言葉が出ない。「まんま」も言えない、何も言えない「あぁぁ」とか「うぅぅ」とか、大平総理大臣ぐらいしか言えない(笑) それで、その子のお父さんお母さんが心配で心配で、「こういう子供でも、信心して一人前になれますか?」と聞いてきたので「絶対、治る」と言いました。子供で苦労する業があるから、それが分かれば良いんだ自分で。「私には子供で苦労する業があるんだなぁ」と云うことが分かればいいんだょ。それを御本尊を拝んだら「福子」ができる、と云うのに、こんな「福子」があるわけがない…と思って御本尊を拝んでいるから駄目なんです。そうではなく、持ってる業が出てくるんだから、あぁっ自分は子供で苦労する業があるんだ、よぉく判りました。過去の謗法が子供に来るのです。身にしみてわかりました…我が家の謗法です。先祖の分まで、私が広宣流布いたします。この息子は必ず広宣流布の役に立てるから、子供の声が出るように、一人前に話ができるように、一人前の子供にしてくださいと、南無妙法蓮華経と御本尊を身体の中に湧かせて、そのまま、子供に浴びせるようにすりこんであげなさい。輸血するようにうつしちゃう。風邪ひいたってうつっちゃうんだから、南無妙法蓮華経をうつしてみろ。必ず治るよ。題目とは智慧なりと云うんですから、馬鹿につける薬なんだから、必ずしゃべりだすよ、もうそれで一週間でしゃべりだしちゃったんです。まず、猫を見て「にゃんにゃん」犬を見て「わんわん」お父さんが、兄弟を見て叱っているのを見て「ばかばかっ」ってね。お父さんビックリしちゃって、感激の手紙をよこしました。だからね、一週間か10日で治っちゃうんだから…。本当にお題目はすごい。


【手紙紹介】

昭和55年9月23日、先生のご指導を受けました世田谷の小林と申します。親子五人そろって、温かいご指導と激励を頂きまして、本当にありがたく、あらためて心から感謝申し上げております。ご指導の通り、夫婦そろって信心に励んでおります。結果、23日から、一週間の間に、多動児で(しょっちゅう動いて落ち着きがない症状で言葉が出ない)理解力の全然なかった三男が、落ち着きが出てきて、分別が少しずつできてまいりました、そして10月にはいって、初めて「いやいや」…と叫びました。その後も猫を見て「にゃんにゃん」犬を見て「ワンワン」と言いました。勤行しようと妻に言ったとき、二階に上がり、仏壇の電気を一人でつけて、扉を開けてくれたのです、そして、壮年部幹部会から帰った私が、兄弟を叱っていると、側で見ていた三男が、私に向かって、「ばかばか」と言ったのです。私はビックリしました。うれしいと思うと同時に、馬鹿と言われたことに、父親として、心から反省しました、「いやいや」「わんわん」は妻が聞いた言葉で、私が初めて聞いたのが「ばかばか」だったのです。私は心の片隅に、何かと妻の所為にしていたことに、気が付いていたのですが、なかなかその悪い命のクセをあらためることができなかったのです。自分より、他人を責める命があることが原因でした。

【手紙途中で終わり】

とにかく、こういう子供が本当に一週間でドンドン智慧が出てくる、馬鹿につける薬って…分かるでしょ?知恵遅れが知恵が出てくる…題目とは智慧なり、

その智慧の光は無量である。えぇこうしょうしょうむりょう。経文にある。

御本尊の智慧の光は宇宙大である、自分がお題目で身体を洗っている、また脳みそを洗っていくからドンドン御仏知が湧いてくる、題目とは智慧なりと言うんですから大人だって同じです、子供に限ってではありません。考えただけでも、お題目をあげるということはすごいことだな…と思います。


経済革命

それから経済の事は主人の題目です。

磁石ですから。呼ぶのです福運を。経済で上手くいかないといって指導受けに来る人はみんな御主人がお題目いい加減なお題目なんです。御主人が、主師親の主の徳、食わせる力、食わせる人、主人の題目で、商売が違ってくる。「俺の題目で福運を呼ぶよ」「心配するな見てろ」と言って奥さんや子供を安心させて、南無妙法蓮華経と。御本尊様をこっちに湧かしていけば磁石になっちゃう。欲しいなっと思うものが「スイィィスイィィ」と入ってきちゃう。一遍 南無妙法蓮華経と唱えるたびに、一万円札が「ヒラリィィヒラリィィ」と出てくるよりも、もっともっと凄いのです。決して大げさに言っているのではありません。御本尊様はどんなに褒めても褒めても褒め足りない。牧口先生は御本尊は宇宙大だから褒めすぎることはないと、おっしゃっていた。だから一遍、南無妙法蓮華経と言うと一万円札が「ヒラリィィヒラリィィ」と出てくると思ったら、夢中になって拝むでしょう?。


四月の二十日に仙台に行った。

家具屋さんです。この七カ月で1500万円赤字になっちゃった。やればやるほど赤字で嫌になっちゃう。でもやめると、従業員みんな学会員。従業員がかわいそうだっ。やっていれば、私がかわいそうだっ。ほんとに困っちゃって今まで功徳でない功徳でないと言いながらやってきたのに、ここで倒産するわけにもいかない。でもやればやるほど赤字になっちゃう。もう困りぬいて、私にそっと指導受けに来ました。「主人の題目だョ」「主人が惰性の題目だ」「貧乏性があるから出てきたのだ!」「過去の謗法が、お金に来ているんだ」あっ私の貧乏性です。だけれどもこのまま貧乏性で赤字になったら七カ月で1500万と言えば、一か月で200万円以上ですから、従業員もかわいそうだから「決してエゴに使いません」「贅沢に使いません」「広宣流布に使うから、商売を繁盛させてください」「どうか赤字を黒字に変えてください」とお願いしてみろって。一か月私の言うとおりにやってみろって。それでどれだけ違ってくるか…それでも変わらなければ、同じように200万円の赤字が出たら、もう一回考えてみましょう。だけどそんなことないよ。「御主人の題目だョ」「一遍、南無妙法蓮華経と言うと一万円札が「ヒラリィィヒラリィィ」と凄いんだよ。そう思って御主人拝みなさい。それが四月の二十日ですから、四月はあと十日しかない。それでどうなったかと言うとその十日間に、初めて50万円だけれど黒字になった。四月の売上が。で五月の十日に仙台行ったら、奥さんが飛行場に飛んできて、「ありがたく、指導受けてから10日間だけれど、四月は黒字になりました、50万円だけれども黒字になりました」で、50万円と言うことは、実は250万円だろ?だって毎月200万円の赤字だったんだから50万円とは何事か。250万円じゃあないかってね。感謝しろってね。なぜそういう風になったか、考えてみろ!どこが変わったんだ?家具屋さんやめたのか?そうじゃあないんだって、お得意さんがそんなに変わるわけないでしょ?御本尊様が変わったのか?そんなわけないんです。五座・三座のやり方変えたのか?そんなわけない。じゃあ何が変わったのか。ご主人の心の中が変わっただけじゃあないか。それで、ガァァァンと吸いつける磁石になったんだ。


島根県行った。印刷屋さんで、にっちもさっちも行かなくなって、商売が駄目になる。夜逃げでもしたいくらいだと。「私の貧乏性」身体の中に来る代わりに外に来ているのです。お金に来ているのです。良くわかりました…どうか御本尊様、もしお金が貯まったら広宣流布に使います。どうか女房や子供がが安心して暮らせるだけの商売を繁盛させてください。エゴでも贅沢でもない、広宣流布に使いますから泥棒して暮らすわけにはいきません。と言えっ!御本尊にお願いしてみろ。南無妙法蓮華経と中に湧かしてみろ!磁石になって、スィィツスィィッと入ってくるんだ。必ず変わるよ。

その人はもう翌日、報告が来ました。ものすごいお得意さんにぶつかり、当分食うに困らない注文を頂いたそうです。長い長い約束です。とっても良い人が、お得意さんで出来ちゃった。翌日の報告ですよ。心が変わると巡りが途端に変わってくるんです。


仙台に行ったときに石巻と言うところがあります。その石巻では、今年のお米の出来が20%から40%です。冷害で特に悪い。ところが高木留子さんと言う人は、B担ですけれども、その家の田んぼだけ例年通りの豊作です。巡りは全部、全滅に近いのにその家の田んぼだけ、フサフサと実っているんです。本当にありがたい。そのB担さんの一枚の田んぼの中で、半分、ご主人が植えた。半分は奥さんが植えた。奥さんの方は豊作です。(笑)

ご主人の方は60%ぐらいだそうです。で平均すると、例年通りの豊作だそうです。奥さんが言うのに「私が苗を植えるときには、一本一本にお題目をあげた」土の中まで南無妙法蓮華経、土の中まで南無妙法蓮華経と。そうしたら豊作だって。ご主人は三遍ぐらいしかお題目あげないから、同じ田んぼで、半分は豊作、半分はダメで全然違うんですね。ご主人と奥さんの違いがはっきりわかっちゃう。そうして奥さんが、体験発表して、「半分、主人に任せたのが失敗でした」(笑)。まあ、私は米とか稲とか麦とか、こういう作物まで、口を利かないものまで、南無妙法蓮華経をもっているんですね。全部感応するんです。これを「法、妙がなるゆえに人尊ぶ、人尊きがゆえに処尊き」という、南無妙法蓮華経を唱えている人は尊くなっちゃうんです。南無妙法蓮華経になっちゃうんです。その仏と同じ命がある、住んでいるところが尊きになっちゃうんです。それを依正不二というのです。もうこんなにはっきりしている事はない。全部私が植えればよかった。主人に半分任せたのが失敗でした。で、ご主人が11月の初めに初登山だって。昭和49年に信心して6年間、お山に行ってないんだから、だいたい信心が分かるでしょ?(笑)だけど、よその田んぼと比べたら全然違うんですよ。これくらいはっきりしたことはないですね。現証だね。で、何をやるんだってお題目ですよ。心をこめて広宣流布の為にって命で、やったら、必ず商売繁盛するし病気が治るのです。だから確実に題目をあげることです。

早く題目を上げれば良いってものじゃあないですよ。「ナンメイゲキョ、ナンメイゲキョ、」「1万遍あげたぞ!」って、そういうおっちょこちょいの題目なんてね「ホウレンゲキョウ」がないわけですから。女子部なんてとっても早いですから。聞いていると「ナンダ、バカモノ、ナンダ、コンナモノ」って聞こえるよ(笑)「ナンダ、コンナモノ」って聞こえるよって…いったら「そんなこと言ってません」「南無妙法蓮華経」って言ってますっていったって、けれどもダメ。「我もいたし、人も教化そうらえ」自分でも南無妙法蓮華経、と聞こえなければダメ。人にもそういう風に聞こえなければ広宣流布になんない。だからゆっくりでも良いから確実にあげること。これが大事ですよ。だって身体が南無妙法蓮華経になるんだから、身体にグルグル、身体が南無妙法蓮華経になるのだから、確実にあげなければダメです。何時まで上げようとか、何千遍あげようなんて早く唱えたってね、お茶漬けかけこむようなお題目、ダメです。心で味わうような題目でなければいけません。南無妙法蓮華経は法華の醍醐味って言うんですから。最高の味だから。あぁっ南無妙法蓮華経、脳みその中まであらわれていくんだなぁあって血管まできれいになっていくんだなぁって。骨の髄まで南無妙法蓮華経になっていくんだなぁあって、御本尊様と同じになっていくんだなぁあって、御本尊様ありがとうございます、ありがとうございます。って味わいながら、感謝してゆっくりゆっくり、10遍ぐらいあげても頭がスゥゥッと澄んでいくんですよ。霧が晴れていくように。でお題目あげていると「あぁぁっ良い気持ちだなぁ」って、スカッとします。それをスカッとさわやかコカコーラってね。そういう風になれば良いんです。「ナンモーホーレンゲキョ」って聞こえる人がいます。幹部でも「ナンメーヘーレンゲキョ」って聞こえるのがいます。ダメですね。だれが聞いても「ナンミョウホウレンゲキョ」に聞こえるような題目でないといけない。


もうひとつは、楽しんであげなければだめです。もう1万遍!なんて言って、夜の11時、あと2000遍借金している。これから1 時半まで、やんなきゃなんてね。そうすると苦しいでしょ?早く寝たい、寝不足になっちゃうと困る。でも御本尊に約束したから…約束破るわけにいかないって。苦しい題目で「衆生所遊楽」ってね。それはおかしいですね。1万遍あげるときもありますし12000遍あげるときだってありますし、あぁぁっ御本尊様、ゆっくりと楽しませていただきました。これからしばらく、御本尊様感電させていただきました、ありがとうございます。電気みたいにね、ビリビリってね、身体の中、走っているように、良い気持ちだなぁあってゾクゾクするほどうれしくなければいけないって。しびれるような感激がなければいけません。私もそこまでは行きませんが、脚はしびれますけれど(笑)心がしびれるぐらいにならないと100%じゃあないけれどね。また参考にして、楽しい題目、確実な題目、幸せを呼ぶ題目、病気を追放する。これが鬼は外ですから。幸せを呼ぶ、これは福は内ですから、朝晩の勤行で、福は内と鬼は外をやっているのが妙法なのです。普段拝まなくって一年に一回豆まいてやろう…なんてダメなんだから…とんでもないんです。


どうかこれを参考にして、まず品川を仏国土にする。自分の中を広宣流布するんだって歓喜と確信の題目で、自分の中を広宣流布したら、一本一本の苗が豊作になるように、家はせまくっても幸せになります。それから家中そろってお題目をあげること、お父さんとあげるの嫌だぁ…なんてね、おばあちゃんとあげるのいやだなんてね。そういうエゴのお題目は、なぜ嫌だと言うと、早くあげられないからでしょ?だから年寄りにもあわせてゆっくり楽しくあげることが大事です。和合僧ですからね。1000遍あげても500遍あげても、功徳は同じですよ、30分のお題目だもの。だったらみんなで楽しくあげたほうが一家和楽の信心ですよ。自分で出せないんですね、だから外の御本尊様を拝んで、こっちに出してもらう。

向こうの御本尊を拝んで、こっちの南無妙法蓮華経がでる。これを「三因仏性」こっちが原因なんです。ご本尊は「縁」です。自分の命は形と心で両方で、色心、どっちも自分では観ることができない。形を観るんだったら、向こうに鏡をおけばいいのです。顔を見るための鏡ですよ。鏡から功徳くるかなぁ、なんてそんなのないんだから。上にお金を入れて下に切符が出るのを自動販売機と言います。中に切符がなかったら出ないでしょ?お金を入れたから切符が出た。お金は縁ですね。だから、あなたの中の南無妙法蓮華経を出してあげるから、南無妙法蓮華経でつかってこい!そしたら、あなたの中の仏を出してあげよう。出たら私と同じだよ。同じにしてあげたいんだ「我が如く等しくして異なることなし」私と同じにしたいんだ。親子だから。



私の財産を全部あげるんだよ。私の財産は宇宙大だよ、永遠なんだよ。如来の知見は広大じんもん。広大とは宇宙大、じんもんとは永遠、宇宙大の功徳を永遠に味わっていくのが信心なんです。そういう功徳は御本尊様以外に誰も出せない。花を見ていても楽しい、景色を見ていても楽しい、でも花を見ていて、綺麗だなぁっ思っても病気は治らない。だからどんな楽しいことがあっても、南無妙法蓮華経とは比べ物にならない。御本尊様が向こうにあると思ってあげていはダメだよ。この御本尊様と同じになっちゃう…こっちに湧かすんだぁぁって、この中に、私の胸の中に、肉体の中に御本尊が湧いてくるのと同じなんだ。私の中が南無妙法蓮華経になったら、御本尊様と同じだ。御本尊と同じ功徳になっちゃう。私は御本尊と同じにしてもらえるのですか。御本尊様もったいない、ありがとうござます、ありがとうござますって感謝感激で仏壇の御本尊をこっちに湧かす。

1244P

此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり


この御本尊、全く外にあるとおもうな。

以上で私の話は終わります。