三沢抄

三沢抄 
建治四年(1278年)二月二十三日 
聖寿五十七歳御著作


柑子(ミカン科の果実)百個・昆布・海苔・おご海苔等の種々の品物を、遥々と、身延の山中へ、わざわざお送りいただきました。並びに、内房の尼御前から、御小袖を一着、受領致しました。そして、諸々と仰せになられた書面を、委しく拝見しました。

 「そもそも、仏教を学ぶ者は、大地微塵の数よりも多い。けれども、その中で、真に仏になる人は、爪の上に置いた土よりも少ない。」と、大覚世尊(釈尊)は、涅槃経において、確かに、お説きになられています。

 日蓮は、この経文を拝見して、「どうして、このように難しいのだろうか。」と考えるほどに、「なるほど、誠にもっともなことであるなぁ。」と、思うことがあります。

 仏法を学んだとしても、自分の心が愚かであったり、たとえ智慧があって、賢い人であったとしても、悪い師匠の影響によって、自分の心が曲がっていることには、氣が付かないものです。そのため、仏教を正しく習い得ることは、難しいのであります。

 たとえ、正しい師匠、並びに、実経(法華経)と会い奉って、正法を得た人であったとしても、生死の迷いを離れて仏になろうとする時には、必ず、影が身に沿うように、雨が降る時には雲があるように、『三障四魔』(注、煩悩障・業障・報障の三障、五陰魔・煩悩魔・死魔・天子魔の四魔。)という名の七つの大事が出現します。

 たとえ、辛うじて、『三障四魔』(注、煩悩障・業障・報障の三障、五陰魔・煩悩魔・死魔・天子魔の四魔)の六つを過ぎ去ることが出来たとしても、第七番目の魔に破られてしまえば、仏になることは出来ません。

 その六つの障魔につきましては、しばらく置いておきます。第七の大難とは、『天子魔』(注、他化自在天子魔のこと。他化自在天=第六天の魔王と、魔民等によって起こる魔。父母・妻子・権力者等のあらゆる姿に取り付いて、仏道修行を妨げる。)というものであります。

 たとえ、末代の凡夫が、釈尊御一代の聖教の御心を悟って、天台大師の摩訶止観と云う大事の御文の精神を心得て、仏になろうとしている時には、第六天の魔王が、この様子を見て、驚きながら、こう云うことでしょう。

 「なんと、浅ましいことか。この者が、この国に所在していれば、まず、彼自身が生死の迷いを離れる(成仏する)ことは、取りあえず置いておく。だが、そればかりか、多くの人々を仏道に導くだろう。また、この国土を押え取って、穢土を浄土にしてしまうだろう。」と。

 そして、第六天の魔王は、「どうすれば、よいだろうか。」と考えて、欲界・色界・無色界の三界の一切の眷属を集めた上で、命令を下して、こう云うことでしょう。

 「各々の能力に随って、彼の行者(仏道修行をする者)を悩ましてみよ。それが叶わない時には、彼の行者の弟子・檀那や、その国土の人々の心の内に入れ替わって、或いは諌めたり、或いは脅してみよ。 
 それでも叶わない場合には、我(第六天の魔王)自らが降り下って、国主の身心に入れ替って、彼の行者を脅してみれば、どうして、彼の行者の成仏を止められないことがあろうか。」と、第六天の魔王とその眷属は詮議をしました。

 日蓮は、以前から、このような事を見抜いて、「末代の凡夫が、今生において、仏になることは、容易ではない。」と、考えていました。

 釈尊が仏になられた御様子は、様々な経典に説かれています。しかし、釈尊が仏になられる事を妨げるために、第六天の魔王が起こした大難は、如何にしても、忍ぶことが出来ないだろうとも、見受けられました。釈尊に対して、提婆達多や阿闍世王が起こした悪事は、ひとえに、第六天の魔王の仕業であった、と、見ることが出来ます。

 まして、法華経法師品第十には、「如来現在 猶多怨嫉 況滅度後(如来の御在世ですら、なお、怨嫉が多い。況んや、如来の御入滅の後には、尚更である。)」と、お説きになられています。大覚世尊(釈尊)御在世の御時の御難でさえも、凡夫の身である日蓮のような者には、片時でさえも、一日でさえも、忍び難いことでしょう。

 まして、五十余年間(注、釈尊が三十歳で成道されてから、八十歳で御入滅されるまでの期間)の種々の大難につきましては、尚更忍び難いことでしょう。

 まして、末法の世には、釈尊がお受けになられた大難に対して、百千万億倍にも及ぶ大難が起こることを、如何にして忍ぶことが出来るであろうか、と、心の中で思っていました。

 けれども、「聖人は、未萌(未来の出来事)を知る。」と申して、過去・現在・未来の三世の中でも、未来の事を知る人を、真の聖人と言うのであります。
 
 しかるに、日蓮は聖人ではありませんが、日本国が今の代に当たって、亡国となっていくことを、兼ねてから知っていました。これこそ、釈尊が法華経法師品第十でお説きになられた、「況滅度後(況んや、如来の御入滅の後には、尚更である。)」の経文に該当しております。

 これらのことを知った上で、あえて申し出すならば、その人こそ、釈尊が法華経で予見された、未来(末法)の法華経の行者(日蓮大聖人)であります。

 しかし、これらのことを知っていながら、それでも、言わなかったならば、世々生々と輪廻する間に、聾唖の身に生まれるような苦しみを受けます。そればかりか、教主釈尊の大怨敵や日本国の国主の大讐敵に、他人でなく、自分自身がなってしまいます。

 加えて、「後生に、無間地獄へ堕ちる人となるのは、まさしく、自分自身である。」と、考えてみました。或いは衣食が不足したり、或いは父母・兄弟・師匠・同僚に諌められたり、或いは国主・万民から脅されたりすることもあるでしょう。

 「そういう状況に陥ったとして、少しでも怯む心があるならば、最初から申し出すべきではない。」と、長い年来・常日頃に渡って、心を誡めて参りました。
 そもそも、過去遠々劫から今日に至るまで、必ずや、法華経にも出会い奉ったり、菩提心を起こしたこともあったのでしょう。

 しかしながら、たとえ、一難・二難ぐらいは忍ぶことが出来ても、次々と大難が続いて来たために、退転してしまったのでしょう。(注、この御記述は、日蓮大聖人の御謙遜である。)そのため、「今度は、如何なる大難を被ろうとも、退転をしない決心であるならば、申し出すことにしよう。」と覚悟した上で、私(日蓮大聖人)は、この法門を申し出しました。すると、経文に違うことなく、このような度々の大難に遭遇したのであります。

 「今は、ひたすらに、如何なる大難にも、堪えてみせよう。」と、我が身(日蓮大聖人の御身)に引き当てて、心中を推し量ってみても、不審がないために、この山林(身延)に栖んでいるのであります。

 各々方は、たとえ、信仰を捨てられたとしても、一日片時であったとしても、私(日蓮大聖人)の身命を助けて下さった方々でありますから、どうして、他人のように扱うことが出来ましょうか。

 もとより、私(日蓮大聖人)一人は、どうなっても構いません。たとえ、私(日蓮大聖人)がどうなろうとも、心に退転なくして仏に成るならば、必ず、貴殿たちを導かせていただこう、と、約束を申し上げたのであります。

 各々方は、日蓮ほど、仏法のことを御存知ない上に、俗(在家)でもあり、所領もあり、妻子もあり、家来もあります。故に、信仰を貫き通すことは、叶い難いことでしょう。
 「表面的には、御自分のことを偽り、愚かにしておきなさい。」と、以前に云ったこともありました。
因って、各々方に、何事があったとしても、見捨てることは致しません。夢々にも(断じて)、疎かには出来ません。

 また、法門の事につきましては、「私(日蓮大聖人)が佐渡の国へ流される以前の法門は、ただ、釈尊の爾前経(注、法華経をお説きになられる以前の経典)と、同様の存在である。」と、思ってください。

 この国の国主が、「我が治世を保たせたい。」と思うならば、私(日蓮大聖人)と真言師等を召し合せることになるでしょう。その時に、真の大事を申します。

 しかし、弟子たちにも、内々に申し聞かせるならば、この法門のことを披露されて、真言師等が知ることになるでしょう。「そうなれば、真言師等は、絶対に、私(日蓮大聖人)と会わないだろう。」と思ったために、今まで、各々方にも云わなかったのであります。

 しかしながら、去る文永八年九月十二日の夜、竜口にて頸を刎ねられようとした時から、「私(日蓮大聖人)に付いてきた弟子たちに、真の事(大事の法門)を云わなかったのは、不憫なことであった。」と、思うようになりました。

 それ故に、私(日蓮大聖人)が佐渡の国へ流された後には、弟子たちに対して、内々に申した法門があります。

 この法門は、釈尊の後に御出現された、迦葉・阿難・竜樹・天親・天台・妙楽・伝教・義真等の大論師や大人師は承知されていながらも、御心の中に秘して、口から外には出されなかったのであります。その理由は、「我が滅後において、末法に入ってからでなければ、この大法を云ってはならない。」と、釈尊が制止されたからであります。

 日蓮は、その御使いではありませんが、末法の時刻へ当たった上に、思いのほかにも、この法門を悟りました。因って、聖人がお出ましになられるまで、まず、序分として、概略を申しております。

 しかるに、太陽が出た後には、星の光が見えなくなったり、上手な匠の後に下手な技量の者を見れば、その稚拙さが知られたりするように、この法門が出現すれば、正法時代・像法時代において、論師・人師たちが主張した法門は、皆、消え失せてしまいます。

 末法の時になると、正法時代・像法時代の寺堂の仏像や僧侶たちの霊験は、皆、消え失せて、ただ、この大法だけが、一閻浮提(世界中)に流布されるものと、見受けられます。各々方は、このような尊き法門に縁のある人々ですから、とても頼もしいことである、と、思ってください。

 また、内房の尼御前は、高齢の御身で、身延までお来しになったのでありますから、氣の毒に思われました。けれども、内房の尼御前は、「氏神へ参詣したついでに、私(日蓮大聖人)の許を訪れた。」ということでしたので、見参(対面)しなかったのであります。かえって、私(日蓮大聖人)が、内房の尼御前に見参(対面)すれば、必ず、重大な罪を被らせることになってしまいます。

 その理由は、「神は所従(家来)であり、法華経は主君である。」からであります。「所従と会うついでに、主君へ見参(対面)する。」という行為は、世間法においても、恐れ多いことです。その上、尼の御身となられたからには、まず、仏を先とするべきであります。

 このような種々の過ちがあったために、見参(対面)しなかったのです。しかし、見参(対面)しなかったのは、内房の尼御前お一人に、限ったことではありません。その他の人々に対しても、「下部の温泉のついでに。」と言って、訪ねてきた者を、数多く追い返しています。

 内房の尼御前は、親のような御年齢でいらっしゃいます。そのような方が嘆いていることを、氣の毒に思いました。しかし、私(日蓮大聖人)が、内房の尼御前と見参(対面)しなかったのは、この法義を知って頂きたいがためであります。

 また、「貴殿(三沢小次郎殿)は、一昨年の見参(対面)の後に、御病氣になられた。」と、伺いました。真実でありましょうか。それとも、虚事でありましょうか。

 私(日蓮大聖人)は、「人を遣わして、三沢小次郎殿の御様子を聞こう。」と、言いました。ところが、この御房(日蓮大聖人の弟子)たちが申すには、「それは、もっともなことであります。しかし、人を遣わしても、かえって、不審に思われるかも知れません。」ということでした。「世間の習いは、そういうことであろう。」と、私(日蓮大聖人)も思いました。

 現に、貴殿は、御志が実直でありますから、「もし、御病氣ならば、御使いでもあるに違いない。」とも、思っていました。しかし、御使いもないので、わざと、覚束無く(疎遠に)していました。
 
無常は、世の常の習いであります。けれども、去年から今年にかけて(注、三沢小次郎殿の御病氣を、日蓮大聖人がお氣にかけられていた期間)は、世間法にも過ぎて(世間の習いを越えて)、貴殿とお目にかかりたい、と、思っていました。

 そのように、恋しく思っていたところ、貴殿から御音信をいただきました。たいへん嬉しいことであります。言葉もありません。内房の尼御前にも、この由を、詳細に語ってください。

 法門のことは、細々と書き伝えて、申し上げたいと思っています。けれども、事が大きくなりますので、筆を留めておきます。

 ただし、禅宗と念仏宗と律宗等の事は、少々、前にも申しておきました。しかしながら、特に、真言宗が、この日本国と唐土(中国)を亡ぼしたのであります。

 善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵・弘法大師・慈覚大師・智証大師、これらの六人は、大日三部経(大日経・金剛頂経・蘇悉地経)と法華経の優劣に対して、間違った考えを持ちました。それのみならず、善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵は、金剛界・胎蔵界の曼茶羅を、元から天竺(インド)に存在していたように作り出して、人々を惑わしました
 その後、弘法大師・慈覚大師・智証大師は、その邪義に心を打ち抜かれて、日本へ習い渡しました。そうして、弘法大師・慈覚大師・智証大師は、真言の邪義を、日本の国主や万民に伝えたのであります。

 中国の玄宗皇帝が治世を滅ぼしたのも、この真言の邪義を用いたためです。そして、日本国も次第に衰えて、八幡大菩薩が百代の王(天皇)を守護する誓いも、破れてしまいました。第八十二代の隠岐の法王(後鳥羽上皇)が、関東方(後の鎌倉幕府の武士たち)に治世を取られて、隠岐島に流されたことは、ひとえに、弘法大師・慈覚大師・智証大師等の大僧が、真言の祈祷を行ったからであります。

 その結果、法華経観世音菩薩普門品第二十五の経文通りに、『還著於本人(還って、その罪は、本人に著きなん。)』になってしまいました。

 関東方(後の鎌倉幕府の武士たち)は、この真言の悪法と悪人を対治したため、八幡大菩薩の誓い通りに、第八十二代の後鳥羽上皇の後に、十八代の天皇を受け継いで、百代の王(天皇)まで治世を送れるはずであったものを、再び、真言の悪法の者どもへ御帰依したために、日本国には、法の正邪を決判する国主がいなくなってしまいました。

 そのため、大梵天王・帝釈天王・大日天王・大月天王・四天王の御計らいにより、他国(蒙古国)に仰せつけて、日本国を脅かして御覧になられたのであります。

 また、鎌倉幕府には、法華経の行者を遣わして、御諫められたにもかかわらず(注、日蓮大聖人が三度の国家諫暁を行われたこと)、自らの過ちに疑問を持つこともなく、真言の法師等に心を合わせて、世間・出世(仏法)の政道を破り、法を逸脱してしまいました。

 因って、鎌倉幕府の面々は、法華経の御敵となってしまったのであります。既に、時が過ぎてしまったため、この日本国は亡びようとしています。現在、蔓延している疫病は、日本国が戦に敗れる先兆であります。浅ましいことであります。誠に、浅ましいことであります。


建治四年(1278年)二月二十三日

三沢小次郎殿