今日は、本当の信心で前進をするための話をしたい。



勤行というのは命に直接関係がある。

命に関係あるものに3つある。先ず食べる事と寝る事だ。栄養を撮らなければならないし、寝なければならない。この2つは誰でもよく分かるし皆やっている。あの人が気にくわないから、今日は食べる事はやめたとか、もう寝るのを止めるなんて事はしない。ところが、勤行については、ちょっと何かあるとやめてしまう人がある。これは勤行や題目が自身の命に直接関係あることを知らないからだ。


題目をあげれば自分の運命を良くする。あげなければ、どんどん悪くなる。やらなければ、自分の本来の運命が念仏の運命や真言の運命の方へ向いて行ってしまう。また本来の胃腸が弱いというような病気の運命、貧乏の運命の方へ引きずられてしまうのだ。

 


喜びの題目



こうしたことは目に見えない。だから日々の勤行や唱題を怠けてしまうのだ。恐ろしい事だ。

 「一切衆生、南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり」とあるが、本当にそう思って勤行しているかどうかだ。

勤行しながら「足が痛いなぁ」とか「一体誰がこんな長い勤行を決めたのだ、もっと短く出来ないのか」と思ってる様ではいけない。勤行・唱題が出来る事が、何にもまして最高に楽しいというのでなければダメだ。


「所詮、南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」とある。

 結婚することは嬉しいことだろう、しかし南無妙法蓮華経は、それ以上に嬉しいのだ。何億のお金が貯まったということも嬉しいだろう、しかし、それ以上に嬉しいのだ。また永年の宿願でもあった家をやっと新築する事が出来た。それも嬉しいだろうが、南無妙法蓮華経はそれ以上だ。なかなか出来なかった子供がやっと生まれた。これも嬉しい事だろう。しかし南無妙法蓮華経は、もっともっと嬉しいのだ。


このように思って感謝して題目をあげているか自分の心に問いなさい。御本尊からすれば出してあげたい功徳の100%を頂いているかどうか、おそらく皆はその10%から20%で終わっているのではないかと思う。そんな状態では、大きな宿命に負けてしまう。


何故、御本尊に題目をあげれば功徳があるのか、また題目をあげる、その題目が、病気のためにあげたなら、その病気にしか効かない。また、商売のためにあげたなら、その商売だけにしか効かない。そんなことはない。御本尊は私と同じ生命にしてあげようとおっしゃっている。

 


胸中の御本尊


「我が如く等しくして異ならしむること無けん・・・如我等無異」とある。

「御本尊様、あなたと同じ命を私にも顕わせて頂けるのですか」と感謝して題目をあげていくべきだ。題目をあげていけば、我が身、南無妙法蓮華経になるのだ。

 

「皆成仏道の法華経と久遠實成の釈尊と我等衆生、全く差別なしと悟りて南無妙法蓮華経と唱うるところを生死一大事の血脈とは言うなり」とあるではないか。それを本当かなと思ったり疑えば、自分と御本尊は、もう離れている。差別ありとしているから血脈がうすい。したがって功徳も少なくなるのだ。

 

「此の御本尊全くよそに求むることなかれ、只我等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におわしますなり」

と、我々自身の中に南無妙法蓮華経があるのだ。

しかし、その南無妙法蓮華経は、なかなか出てこない。出せない。出せないから凡夫というのだ。


では、どうすれば出るのか、それは声で出すのだ。

桜の花を見て「綺麗だなあ」、

月を見て、「いい月だなあ」

またゴキブリを見て「いやだなあ」と思うのも目で見る事によって、そうした生命が出るし、感じるのだ。

いい音楽を聞いて「ああいいなあ」。

また会長のテープを聞いて感激し決意する。

これは耳を通してそうなるのだ。 


御本尊に対しては、声で関係するのです。即ち南無妙法蓮華経と声を出して唱える事によって、我が身の仏性が涌現するのだ。


「声仏事を為す」とある。題目をあげていけば仏性が涌現するのだ。爆発するのだ。

詐欺や泥棒に会えば、この野郎という命が爆発する。悩みの命が爆発すれば、自殺もする。

仏の生命や貧乏の悩み等、全て解決するのだ。

何故なら「いかなる病、障りをなすべきや」とあるではないか。貧乏は「幸を万里の外より集むべし」とある。「自我得仏来」だ。そのためには、いい加減な題目ではダメだ。誰かが与えてくれるだろうと思うのは間違いだ。それなら「他我得仏来」になる。そんなものではない。

 


失明の体験



福井県大野市へ指導に行った時、川井さんという家が拠点になっていたので訪問した。

2月6日か7日のことだった。

この人は三才の時、はしかに罹り、それがもとで以来、盲目になってしまった。51才の人だ。私は言ってあげました。


目の玉があるんだろう、目の玉があるんだったら目は開くよ。何故なら、この御本尊は開目抄の御本尊だ。「開目抄」とは目を開かせる教えだ、目が開くとあるではないか。

それなのに、あなたの目が見えないというのは、よほど御本尊の教えに対し反対の事をやったからだ。経文にもある。

「汝は、・・・空しく生々に眼なかるべし」

過去世に誰よりも謗法していたのだ。


どうか、私の謗法を許して下さい。会い難き御本尊にお会いできて、私は本当に嬉しい、広宣流布に命を捧げますから、どうか御本尊のお顔を見させて下さい。家族の者の顔を見せて下さい。そして広宣流布の闘いをしていく為に、この社会を見させて下さい。と祈っていきなさい、と指導しました。


そしたら3月の初めに報告があって、50年ぶりに目が見えました。と言ってきた。

 

この体験によって今、福井県中が沸き返っている。

たった一人の人の目が見えたという事で、地域がこんなにも変るのものかと驚いている。


しかし、このことを通して私の思うことは、どうしてもっと早く目が開かなかったのかということです。我家も拠点に提供している人ですから、信心もあるし、勤行も欠かさずやっている。では何故かそれは勤行、唱題がいい加減だったのです。信心が惰性になっていたのです。

 


妙法の当体


「一心欲見仏、不自惜身命」とあるように、真剣に祈らなければならない。この自分を御本尊と同じにしてくれるのか、本当に有り難いと思って題目をあげていけば、我が身が南無妙法蓮華経になるのだ。


仏に病気の仏や貧乏の仏などいない。

従って悩みは解決するのだ。だから人間革命できる。こうした事が出来るのは人間だけの特権だ。犬はワン、猫はニャン、豚はブーだ。犬や猫は、南無妙法蓮華経は唱えられない。ブーはどこまでもブーで、南無妙法蓮華経ではない。従ってニャンやブーでは成仏できない。仏性は出ないのだ。

 私達の体は、妙法の当体です。御義口伝にある。頭は妙なり、喉は法なり、であるに、頭が痛いというのは、それは妙法の頭ではなく邪宗の頭だから痛いのだ。腹が痛い、内臓が悪いというのは妙法の腹ではないからだ。邪宗の腹だから悪いのだ。また、足が動かないというのもそうだ。妙法の足なら動くのだ。それは邪宗の足だから動かないのだ。

 


車椅子の婦人


4月27日、中大阪県へ指導に行った時、関西本部副婦人部長が、車椅子に乗って指導を受けに来た。


この人は直腸ガンになり、その後、後遺症で足が動かなくなってしまった。本部副婦人部長にまでなった人だから、信心はある人です。勤行唱題も真面目にやっているでしょう。しかし下半身の麻痺が治らない。そこで、悩んで私の所に来たのです。私はその婦人に対して言ってあげました。

 

駆けずり回って広宣流布の為、闘いますのでこの足を治して下さい。椅子のままでは、一軒一軒、家庭訪問するのに狭い所まで入って行けません。ですから治して下さい。と祈っていきなさい。そして南無妙法蓮華経を噴水の様に湧き出させていくんだと。

 

私達は悲しい時は体中でその悲しみを表す。また暗い時は、体中で暗さを表し、嬉しい時は、体中でその喜びを表すではないか。時には飛び上がって喜ぶ時もある。同じように南無妙法蓮華経を噴水の様に我が生命に、そして、五体に涌き出だすようにして題目をあげていきなさい。そうすれば、必ず守られます。


御書にある

「諸天昼夜に法の為に衛護す」

「月々日々につより給え」とある様に強盛に祈っていきなさい。と、指導してあげました。


そしたら、3日目に足が動いた。

4日目に寝返りが出来るようになった。

5日目にお小水が倍も出るようになった。膀胱や全ての筋肉の活動が活発になってきたのでしょう。

 


難病の息子


5月23日、岡山文化会館に行った時、若い婦人が指導を受けに来た。2才半の男の子が、筋ジストロフィーという難病にかかり、悩んでいるという事だった。この病気は筋肉が縮んでいく原因不明の病気で、それが内臓まで達し、遂に死ぬという恐ろしい病気だ。

 

私は婦人に言いました。

子供で苦労する業だ。御本尊には大増長としたためられていらっしゃる。膨張して伸びていくのだ。それなのに縮むとは一体何事だ。これは、よほど御本尊に反対したのだ。親子で広宣流布するから治して下さいと、願いなさい。法華経とは伝染病だ。あの世まで伝染する、死んだ人まで成仏させる事が出来るのだ。

 貴方の子供は、まだ生きているではないか、生きている子供に法華経を伝染させる事が出来るのは当たり前だ。


「此の御本尊は、罪として滅せざることなし」だ。

貴方の悩みは、今の謗法の罪ではない。過去の謗法なら必ず滅することが出来ます。親子は一体だ。真剣に祈りなさいと指導しました。


この婦人はすこし愚痴っぽい人で初めのうちは、

「子供は先生に命名してもらい、福子とばかり思っていました」とか、何とか言っていた。私は、先生は申請があれば名前は付けてくれるよ。しかし、貴方の業までは取ってくれないよ。自分の業は自分で消すのだ。と指導しました。

 

そしたら報告の手紙が来ました。

「3日目に子供が走り出した。私はショックを受けた。御本尊はすごいなあ。本当に有り難いな。嬉しい事です。滑り台をすべれるようになった。正座できるようになった。それまでは、ちょっと走るとすぐ転び、その度に顔を打ちつけて、毎日鼻血を出し顔中傷だらけだったのです。」


こうして子供が治っていく姿を見て、婦人が常々、共に信心するようにと願っていた主人も、信心に目覚め、真剣にやるようになった。


この婦人にとってそれまでは、この子供の為に自分は、こんなに苦労をするのだと思っていたが、この事によって今度は、子供がいたからこそ、自分は真剣に信心できるのだ。お題目をあげる事が出来る。全て子供のおかげであると、愚痴の信心から感謝の信心に180度の転換をした。

そして自分の一切の願い事が、これを境に全部叶い、思いどうりになりましたとある。

 

こうした体験を聞くに付け、私は御本尊の偉大さをつくづく感じます。こうして、指導を受け功徳を受けられるのも全て、組織の有り難さです。結局、私達は先ず、御本尊に向かった時の姿勢がどうなのか、それが大切なのです。