◇黎明
p3
戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない。だが、その戦争は、まだつづいていた。愚かな、指導者たちに、ひきいられた国民ほど、あわれなものはない。

p10
彼は、なによりもまず、復讐の念に燃えていた。軍部政府に対して、政治的な報復を企てたのではない。老齢の恩師牧口会長を獄において、死に至らしめ、彼自身を二か年あまり、牢獄で呻吟せしめ、彼の肉親をかくも苦しめ、また幾千万の民衆にとたんの苦しみを与えた、目に見えない敵に対して、その復讐を、心に堅く誓っていたのである。仏法は勝負である。正しいものが、絶対に栄えるということを実証するためにも──。

p24
教育の目的は、機械を作ることではなく、にんげんをつくるにあるといった、思想家がいた。人間形成の最大事は、なんといっても教育にある。教育は技術である。その教育法の根本は、教育者が、いかなる教育理念を持っているかによって、決定されてしまう。まことに偉大な教育者によって、認識の訓練を受け、人格の完成へ、はぐくまれゆく人は、幸福者といわねばならない。

p27
よき種は、よき苗となり、よき花が咲こう。よき少年は、よき青年となる。よき青年は、よき社会の指導者と育とう。

p34
いかなる家庭にも、大なり小なり不幸はあるものだ。一生には、雨の日もあり、風の日もある。悲しい日もあり、嬉しい日もある。生涯「安穏」に「和楽」に、暮らしてゆくことは、実に大変なことだ。家庭の平和は、千金に勝る。一国の指導者というものは、家庭の幸福を築き、与えてゆくものでなくては、その資格はない。

◇再建
p47
一切の事業を推進するのは、所詮、すべて人である。その成否の鍵は、人間革命につきる。事業に左右されるか、事業を左右するかによって、事業の未来の運命は決まる。

p80
いつの時代でも、いかなる国でも、年配者が、真に平等に、子供等の成長と、幸福を願ったなら、戦争なぞ起こる道理がない。最も単純にして、しかも偉大な哲学といえる。この社会、この世界は、決して、大人だけのものではない。次にゆずるべき少年、青年達の、社会であり、世界であることを真摯に自覚すべきである。

◇終戦前後
p102
一国は滅亡してしまった。建設は、血と汗の貴重なる民族の結晶が積み重なって出来上がるものだ。それに反し、破壊は、一瞬にして灰と化してしまうものだ。ここに、日本の三千年に亘る歴史は崩壊したのである。あまりにも、厳しく、日蓮大聖人の御予言が的中したのである。吾等は、そして社会の指導者たちは未来、ふたたび同じ悲惨を繰り返さぬため、御聖訓を、断腸の思いで拝してゆくべきである。──小さな感情や、偏狭な心や、高慢な態度を捨て去って。

p107
──何んであろうと、信じたものが間違っていた場合、人は極端に不幸になる。いや、人ばかりでは決してない。集団も、社会も、国家も変わりはない。この世で、最も忌むべきことは、誤ったものを正しいと、信ずることだ。自己が、たとえどんな善意に満ちていたとしても、また、どれ程努力を尽くしたとしても、そんなことは関係ない。信じたものが非科学的であり、、誤っている場合、人は不幸を招かざるを得ない。これは疑いようのない事実である。

p108
信仰とは、遠くにあるものではない。特殊な人間がすることでもない。要は、信ずるということに対する慈覚の浅深によるだけだ。世の人々は、信じているものの本質が、あらゆる視点からみて、絶対に誤りのないものであるか、どうかを、疑おうとしないだけである。正・不正、正・邪も不問に附して平然としている。ここに、救い難い不幸の根源があるのだ。

p109
一人の新たなる真の同士をつくる。それから一人、また一人とつくってゆく。これがとりもなおさず、時を作ることになる。いま、一人の真の同士をつくることの困難は、やがて時来たり、百万の同士を育てることよりも難しいかも知れない。焦ってはならぬ。

p118
戸田城聖は、生涯の師、牧口に会う以前、城外と名乗った。城の外にあって野人の如く振る舞い、永遠に尽くしゆく師を求めて生き抜いたのである。今、恩師なきあと、その志を継ぐため、小さな職場にあっても、ゆうゆうたる姿の中に、学会復興の決意に燃えていた。彼は広布の総大将と自覚して、名を城聖と改めることを決心していた。

◇占領

p130
マッカーサーは、九月二日、ミズーリ号上で降伏調印式が終わった時、次のように声明した。
「新しい時代は、われらの上にある・・科学的発明の進歩にともなう戦争の破壊力は、今日、戦争に関する従来の概念を修正せしめるところまで、実際において発達した。人びとは、開闢以来、平和を求めてきた。各時代を通じて、あらゆる方法で、国家間の紛争を阻止し、解決するための国際的手段を案出しようと試みた。個々の市民に関する限り、有効な手段は、早くから発見されていたが、より大きな国際的機構の上に立つ手段はまだ成功していない。軍事同盟、勢力均衡政策、国際連盟などは、戦争という試練の唯一の道を残して、いずれも失敗に終わった。けれども戦争の徹底的破壊力は、今や人類をこの地上より抹殺せんとしている。われらは最後の機会にあるのだ。もしわれらが肉体を救おうと欲するならば、それは精神的のものでなければならない。・・・・・・」

p132
マッカーサーという人物は何者であろうか。この仏法定理からみれば、梵天の働きをなす人、これがマッカーサーにあてはまる。
「ああ、梵天君がマッカーサーにあてはまるな」と、彼はうなずいた。

p133
この時、すでに戸田は、日本人の誰よりも、マッカーサーという人物の本質を根本的に見抜いていた。以来、六年間に亘る、占領政策は、さまざまな是非はあった。しかし、彼は、歴史上類例のないほど、ともかく成功といってよい実績を残した。それは、南北朝鮮の占領政策と思い合わせてみても、首肯できる。しかも、なお、アメリカの日本以外の他の諸国における戦後政策が、ほとんど失敗に帰しているのに相対して、日本においてのみ成功したことは注目に値するといえよう。

p139
「困難というものは、自分が作るものだ。それを乗り越えて行くのも、ほかならぬ自分だ。困難を避ける弱虫に何が出来る! そんな弱虫は、此とだの正学館にはいないはずだ。一切の責任は私にある。自行がうまくいかなくなって、君達を責めたことが、一度でもあるか。奥村君、いままでいちどでもあったかい」

p140
「みんなの心が、一つになれば、必ず事は成就する。計画したことが全部は出来なかったとしても、必ず思いもかけぬ新しい道が、そこに開かれていくものだ。大聖人様の仏法を信ずる者の強さであり、ありがたさだ。心配ない。断固としてやろうじゃないか」

p155
戸田城聖が、マッカーサーと会見する機会などは、偶然にしろ、さらになかった。また、マッカーサーも、当時、戸田城聖の名すら聞かなかったに違いない。
けれども、戸田の心に影をおとしたダグラス・マッカーサーは、不思議な親近感をおぼえさせるものがあった。それは、仏法の原理から見た、正確な、歴史的映像であったと考えられるのである。が、それは当時、戸田を除いて、誰一人として気づいたものはいなかった。
日本は、占領されてしまった。これ以上の悲劇はない。──人間の生命も、修羅や、畜生界に占領されきっている場合がある。社会や、国家が、悪魔の思想に、占領されている場合もある。いずれも、これほど不幸な事はない。
仏法に、無意義な事は絶対無い。この大悪起きて、大善来るの法則からみて、やがて、日本が仏界におおわれてゆく日も、そう遠くないであろう。これこそ正法を護持した、一国の変毒為薬である。

◇一人立つ

p166
「ふーむ・・・・・・」
戸田は、折々、ため息にも似た声をもらした。そして、涙ながらに語る人の顔を、悲しげに見つめた。ことに、戦災で御本尊を焼亡してしまった人々は、手のつけようのないほど、ひどい境遇に落ちていた。厳しい因果の実装をあらためて見せつけられた思いである。まさしく罰であった。これらの人々に、戦前だったならば、指導の通例にならって、罰だと、厳しく悟らせたに違いない。今、目前にする、これらの訪問者は、それも憚るほどの悲惨な状態であった。彼等もまた、曖昧ながらも、その罰を感じていたはずである。戸田は、口の先まで出かかっている罰論を、ぐっと呑み込むのだった。そして、笑みをたたえながら、じゅんじゅんと指導していった。まず、大御本尊の無量の御力を説いていったのである。真の功徳は、どのように偉大な冥益となって現れるか、利益論を真っ向に振りかざして、激励するのだった。

p167
──そうだ、毒を薬に変える力が、御本尊様にはある。なにを、くよくよすることがあるものか。信心さえたしかなら・・・・・。
「大聖人様の教えには、絶対に間違いはない。大聖人様は、難に逢われた時、こうおっしゃている。
──我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし──
どんな目に遭っても、御本尊様を疑ってはいけない。疑わず、信心さえあれば、その儘だまっていても、自然に、仏の境界に到達できるのだ。絶対の幸福生活が出来ると仰せなのだ。みんな、今はつらかろうが、ちゃんと疑わず、信心さえ貫けばいいのだ。それによって、損するか得するか、一生の勝負が決まってしまう。どうだ、忍耐強くやれるかね?」

p169
一つの目的に進む時、これに生涯、心から続くものは稀なものだ。よく利用の心でついて来る人がいる。ただ、義理や利害で、ついて来る者もいる。護ってくれるから、可愛がってくれるからついてくる人もいる。所詮、その主義、主張や大目的のために、全生命を捧げきれる人こそ、真の同士といえるのだ。

p172
「経験したものでなけりゃ、わからんね。・・・・・いいじゃないか。どんな人間だって、結局は御本尊様によって救われる時が来るんだ。叛(そむ)こうが、従おうが、どうしようもない。最後はみんな救われていくんだ。これが大聖人様の甚深無量の御慈悲だよ。人が人を責めることなんか知れたものだ。御本尊様に裁かれることほど、この世で恐ろしいことはない。人間なんて始末のわるいものだ。厳しく裁かれて、初めて正気にかえることが出来るものだよ。御本尊様さえ、傷害離さなければ、それでいいんだ。──

p173
「広宣流布、広宣流布と、おうむのように観念的に言っても、しようがない。かえって、広宣流布はどんどん逃げていくだけだ。今、大事なことは、誰が広宣流布をやるかだ」

p180
恩師は逝きて薬王の
供養ささげてあるものを
俺は残りてなにものを
供上(ささげ)まつらん御仏に

まずしく残るは只一つ
清き命の華なるを
たおり捧げて身の誠
国と友とにむくいなん

吹くや嵐の時なるか
東亜の空のうすけむり
悪鬼はあらぶれ人嘆く
救わでおこうか同胞を

如意の宝珠を我もてり
これでみんなを救おうと
俺の心が叫んだら
恩師はニッコと微笑んだ

p193
牧口会長は、深く頭を垂れたが、日興上人の遺誡置文の厳しい一条を思い起こしていた。
──時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事。
彼は、顔を上げると、はっきりと、言い切った。
「神札は、絶対にうけません」
こうお答えし、沈痛な表情で下山した。これが彼の最後の登山であった。彼は帰る途途(みちみち)、押しつつんだ感情を激して、戸田に語った。
「わたしが嘆くのは、一宗が滅びることではない。一国が眼前でみすみす亡び去ることだ。宗祖大聖人の悲しみを、私はひたすら恐れるのだ。今こそ、国家諌暁の時ではないか。いったい何を恐れているのだろう? 戸田君、君はどう考える?」
戸田は即答する術を知らなかった。七十歳を越えた恩師の老躯を思いやったからだ。激昂した恩師の毅然たる心をいたわりたかった。彼はやさしい弟子であった。
「戸田君、君、どう思う?」
牧口は重ねて、戸田に呼びかけた。その声は、いつかやさしくなっていた。
戸田は、空を仰いだ。ギラギラと照りつける午後の太陽があった眼前には、富士が聳えていた。彼は我にかえったように静かに、力強く答えた。
「先生、戸田は命をかけて戦います。何がどうなろうと、戸田は、どこまでも先生のお伴をさせて頂きます」
牧口は一、二度うなずいて、はじめてニッコリと笑いかけた。そして首筋の汗をふいた。足を運べば、埃のたつ夏の日の路上であった。この日から、一か月たたぬうちに、二人は検挙されたのである──。

p201
「われわれの生命は、まちがいなく、永遠であり、無始無終であります。われわれは、末法に七文字の法華経を流布すべき大任をおびて、出現したことを自覚いたしました。この境智にまかせて、われわれの位を判ずるならば、所詮、われわれこそ、正しく本化地涌の菩薩であります。
四信五品抄には、
請う国中の諸人我が末弟等を軽ずる事勿れ進んで過去を尋ぬれば八十万億劫に供養せし大菩薩なり豈(あに)熈連(きれん)一恒(いちごう)の者に非ずや退いて未来を論ずれば八十年の布施に超過して五十の功徳を備う可し天子の襁褓(むつき)に纏(まとわ)れ大竜の始めて生ずるが如し蔑如すること勿れ云々
と説かれて居ります。
話に聞いた地涌の菩薩は、どこにいるのでもない、実に、われわれなのであります。私はこの自覚に立って、今はっきりと叫ぶものであります。──広宣流布は、誰がやらなくても、この戸田が必ずいたします。

p203
(牧口会長一周忌の帰り道)
彼は歩みながら、自作の詩を、一人静かに歌い始めた。未来への、崇高な決意を心に秘めながら──。

我れ今仏の命を受け
妙法流布の大願を
高く掲げて一人立つ
味方は少なく敵多し

誰をか頼りに戦わん
丈夫の心 猛けれど
広き戦野は風叫ぶ
捨つるは己が命のみ

捨つる命は惜しまねど
旗持つ若人いずこにか
富士の高嶺を知らざるか
競うて来たれ すみやかに

p205
──獅子は伴侶を求めず
──これまで、彼を襲った異様な孤独感は、暗々裡に伴侶を求めていたことから来ている。彼の弱い心の仕業であったかも知れぬ。獅子は、伴侶を求めず、伴侶を心待ちにした時、百獣の王、獅子は失格する。獅子には、絶対、孤独感はない。伴侶は求めずして、ついて来るものだ。広宣流布の実践は、獅子の仕事である。自分が、獅子でなければならぬなら、伴侶は断じて求むべきではない。自分が真の獅子ならば、伴侶はみずから求めて、自分の後に蹤(つ)いて来るに違いない。要は、自分が真の獅子であるかどうかにかかっている。まことの地涌の菩薩であるか、否かだ。
──俺は、獅子でなければならない。獅子だ。百獣はいくらでもいる。

p207
シルレルは言った。
──一人立てる時に強きものは、
真正の勇者なり──と。

◇千里の道

p211
GHQは、占領の基本政策として、日本の民主化のために、神道の保護を断ち切ったが、神道こそ、敗戦の最高責任者であり、最大の戦争犯罪人であることは、知るよしもなかった。

p216
戸田は思った。
──国は、もはや滅び去った。この最悪の条件にみちた不幸なときに、妙法が広宣流布できないなら、真の宗教とはいえない。仏語が真実ならば、必ず広宣流布は成就し、祖国を、民衆を救うことが出来るはずだ。彼の体には、獄中で得た──あの不可思議な自覚が脈打っていた。彼は、それをその儘、なんとしても伝えねばならぬ使命を感じていた。
それには末法の御本仏、日蓮大聖人の教えに従って、彼と同じく人々もまた、妙法の五字、七字を読みきれば、それでいいのだ。一切の未来への活動の根源は、ここに滾滾(こんこん)と湧いていることに気付いた。なによりも、生命の尊厳を、仏法によって、本源的に知らしめねばならぬ。その一人一人の生命に、妙法の力によって、偉大な生命力を涌現させることだ。自我の開覚、真実の人間復活、人間革命をなしてゆくことだ。その上に、政治、教育、科学、文化等の華を咲かせていこう。これが、民衆の渇仰している真実の民主主義であり、次の時代の幸福生活への第一歩の方程式だ。仏法の根本は、慈悲である。すべての人を平等に、幸福にしきってこそ社会の繁栄があるのだ。王仏冥合は、一口にいえばこの慈悲を具現する政治──と言える。人間の生命ほど尊いものはない。だが、その尊貴をあらわすには、色心不二の生命哲学による以外に道がない。最も人間性を尊重し、平和で幸福な新社会建設を実現するのが、王仏冥合の思想であった。
彼の智慧、彼の勇気、彼の情熱は、宗教革命への青春の譜──そのものであった。

p219
真実の仏教は初めから政教分離であって、近代になって、あわてて政教分離を主張したのではない。しかも真実の宗教は、生命哲学を説き、人間革命を目指すものであり、個人の永遠の幸福を確立(かくりゅう)するものである。この幸福を確立しきった者が、優れた智恵と勇気を持って政治を行おうとするのである。

p221
広宣流布達成まで、それが千里の道のように見えようとも、一歩、一歩の前進を決して忘れてはならない。この一歩の前進なくして、千里の道が達せられることはないはずだ。彼は神道の国家的保護が、消滅したこの時、前進の一歩を、力強く踏みだしたのである。
千里ノ道モ一歩ヨリ──との大聖人の御精神を、胸に抱きしめながら──。

p224
忍耐が、大成への礎(いしずえ)であることを、戸田は胸に深く刻んでいたのである。

◇胎動

「大聖人様は、末法で南無妙法蓮華経と唱える者は、地涌の菩薩だとおっしゃている。『地涌の菩薩の出現に非ずんば、唱えがたき題目なり』とご決定になっている。ところが自分では、さっぱり自覚できないものだ。しかし御本尊様を受持し唱題していれば、まぎれもなく地涌の菩薩なんだ。人を救い、法を広めてゆく為には、たがいに大事な体だ。決して粗末にしてはいけない。
大聖人様の、御金言を、実践してゆく決意が大事なんだ。大聖人様のお言葉に、問題があるように思って、疑ったり、否定してみたり・・・・・・。全くご苦労なことだね、われわれ末法の凡夫は」

p279
人生の一寸先は闇といわれる。そこには、幾多の、生存の問題、生活の問題等が、更に蓄積されて待ちかまえている。大切なのは生命力である。
戸田の魅力が、彼等には日ましに輝いて感じられた。
この一人の人間の魅力的変化──不可解のようであるが、事実は事実なのである。その源泉が、仏法の真髄、日蓮大聖人の色心不二の生命哲理の実践にあった──と彼は言う。さらに彼は、正法を、真実に、勇敢に実践し、宿命打開してゆくことを、人間革命というのだと教えていった。
一人の人間の変革──一人の人間の尊厳、主体性の確立──一人の人間の大いなる生命力の涌現──これこそ一切の生活、文化、政治、科学、教育、社会を、大変革してゆく、最も近道の、しかも本源的な革命である、と彼は主張した。

p294
それから──彼は、正法の「行」すなわち、実践ということを説き、科学にまで話を進ませ、宗教と科学との研究対象の相違を明確にし、真の宗教は決して修養ではない。生命を対象とする学問であり、吾々の生命生活を、いかにすれば「幸福」になれるかを、研究し、実践するのが宗教である、と日常生活を例に引いて、説いていった。

p296
南無するとは、日本の言葉で、帰命という。ですから、南無するといえば、心も身も共に、信じて捧げることを意味します。その帰命する対象を本尊といい、これに“人(にん)”と“法”とがある。人とは御本仏日蓮大聖人に帰命することで、法とは、南無妙法蓮華経に帰命することであります。また帰とは、色法、即ち我等の肉体であり、命とは、心法、即ち吾々の心のことであります。大聖人は『色心不二なるを一極(いちごく)と云う』とおっしゃっております。吾々の肉体と、心は別々のものでは絶対ない。それが一致しているのが、真実の生命の極致(ごくち)である。

p300
法華経講義は、活気づいてきた。──蒲田の三人の同士も来る。日本正学館の編集部の三島、山平、会計主任の奥村まで参加した。第一回の講義とは、がらりと空気が変わった。戸田より若い人たちの集まりである。まじめに求める息吹があった。戸田の、まだよく知らぬ、牧口門下生が、集まって来たわけである。
戸田の、机の前には、清原が最先(さいさき)にすわっていた。嬉しいのだ。自分が、連絡して集めた人達でもある。
更に──新しい学会の、広布の師匠が出来たのだ。弟子らしく、振る舞えた自分が、頼もしくさえ思えた。

◇歯車

p304
「価値論は、正法に入る、序分としての、理論体系にすぎない。妙法を理解させる、梯子段だよ。妙法それ自体を体得し、理解できなければ、まったく意味がないのだ」
戸田は、子供をさとすように、続けて言うのであった。彼と、彼等とは、妙法の理解に関して、戦前戦後の違い以上の、大きな懸隔(けんかく)があることに気づいた。戸田は、法華経を、読みきることの必要を、さらに痛切に感じた。学会幹部が、価値論だけに囚われ、そのため、大哲理である大聖人の生命論を従としていることを、恐ろしいと思ったのである。
彼は言葉を継いだ。「大聖人様のおっしゃる通り、自行化他にわたる信心を、真面目に実践していけば、自然に、信ぜざるを得なくなる。誰にでも解ることだ。君達も、必ず解る時が来る。これが、生命の根本の法則なのだよ。

p310、311
「諸君、どうする?」
戸田は、沈黙を破って叫んだ。
人々は、その掛け声で、緊迫の空気から救われた。一斉に元気な声で、口々に言った。
「はい、やりますとも・・・・・・」
「先生、決して心配しないで下さい」
戸田は、ニッコリ笑った。
「とんとうか?」
「ほんとうです。安心してください」
「有難う。では、大いにやろう。なにが起きても、びくともしてはいかんぞ」
戸田は、いきなり上着を脱いだ。
そして片手を、高くかざして・・・・・・「同士の歌」を歌いだしたのである。目には、なにを思うか、涙が光っていた。

p317
批判は誰人も出来る。簡単なことだ。現実に、この民族の悲劇を根底より打開し、真の民主日本を築く人が、団体が、永遠の歴史の樹立者と賞賛されるであろう──。