諫暁八幡抄  
弘安三年(1279年)十二月 
聖寿五十九歳御著作 


 馬というものは、一歳・二歳の時には、たとえ関節が伸びて、脛が細長く、腕が伸びていたとしても、病があるようには見えません。

 しかし、馬が七歳・八歳になって、身体も肥え、血管が太くなった頃に、上体が大きくても下体が小さい場合には、あたかも、小さな船に大きな石を積んだり、小さな木に大きな果実が実ったかのように、馬に多くの病が出来して、人の役にも立たず、力も弱く、寿命も短いものです。
 
 天神(諸天善神)等も、また、同様であります。

 成劫の始めには、前世からの優れた果報の衆生が生まれて来る上に、人間の悪事も少なかったため、天神の身も鮮やかに光り輝き、心も潔く清らかでした。

 そのため、天神は、太陽や月のように鮮かで、師子や象のように勇ましかったものです。

 ところが、次第に成劫を過ぎて、住劫になっていくと、前代からの天神等は年を重ねたため、満月から朔月へ推移する月のように、衰えていきました。そして、これから、生まれてくる天神は、そのほとんどが、果報の衰減した下劣な衆生として、出来してきます。

 それ故に、一天四海(全世界)で、三災や七難が段々と起こるようになり、一切衆生は、初めて、苦しみと楽しみを思い知ることになります。
 
 この時、釈尊が御出現なされて、仏教と云う良薬を、諸天と人間と神々に与えられました。

 その結果、まるで、灯に油を加えたり、老人に杖を与えたかのように、天神等は、仏教の力によって、再び、威光や勢力を増長しました。その様子は、まるで、成劫の時代に戻ったようでした。

 そもそも、仏教の経典は、乳味(華厳時)・酪味(阿含時)・生蘇味(方等時)・熟蘇味(般若時)・醍醐味(法華・涅槃時)という、五種類の味わいに分けられます。

 釈尊御在世当時の衆生は、成劫の時代ほどではなくとも、それほど果報が衰えていない衆生でありましたから、五味(乳味・酪味・生蘇味・熟蘇味・醍醐味)の中で、いずれの法味を舐めても、威光や勢力を増長したのであります。

しかし、釈尊御入滅の後、正法時代・像法時代の二千年が過ぎて、末法に入るようになると、元々の諸天も神々も阿修羅・大竜等も、年が重なっていくために、身体も疲れ、心も弱くなります。また、今、新しく生まれてきた天・人・修羅等は、小さな果報の者、あるいは、悪天・悪人等になります。

 これらの天・人・阿修羅等が、小乗・権大乗等の乳味・酪味・生蘇味・熟蘇味の経典を服用したとしても、あたかも、老人に粗末な食事を与えたり、身分の高い人に麦飯等を奉ずることのように、全く効果はありません。

 ところが、このことを弁えない当世の学者たちは、古来からの習わしによって、日本国の一切の諸神等の御前で、阿含経や方等時の経典や般若経や華厳経や大日経等を、法楽のために読誦しています。
 また、倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗・浄土宗・禅宗等の僧を、護持の僧(神々に祈祷する役目の僧)としています。

 これらの行為は、老人に粗末な食物を与えたり、幼児に固いご飯を食べさせるようなものであります。

 ましてや、現在の小乗経及び小乗経の宗派や、現在の大乗経及び大乗経の宗派は、古来からの小乗・大乗の経典や宗派ではありません。なぜなら、インドから中国へ仏法が渡来した時点で、小乗や大乗の経々には、釈尊がお説きになられた御金言に、翻訳者の私言が混じっていたからです。

 また、諸々の小乗経・大乗経の宗派も、同様であります。

 インドや中国の論師や人師どもが、或いは小乗を大乗と争ったり、或いは大乗を小乗と云ったり、或いは小乗の中へ大乗を書き加えたり、或いは大乗の中へ小乗を挿し入れたり、或いは先に説かれた経を後に説かれた経としたり、或いは後の経を先に置いたり、或いは先の経を後の経に付け加えたり、或いは顕経を密経と云ったり、或いは密経を顕経と云ったりしていました。

 このことを譬えてみれば、あたかも、乳の中に水を入れたり、薬に毒を加えるようなものです。

 涅槃経には、釈尊が未来のことを予言されて、「その時に、諸の賊(悪僧)が、醍醐味の中に、水を加えるであろう。ところが、水分が多すぎて、乳味でもなく、酪味でもなく、醍醐味でもなくなるであろう。」と、お説きになられています。

阿含・小乗経は、乳味の経典であります。

方等部の大集経・阿弥陀経・深密経・楞伽経・大日経等は、酪味の経典であります。

 般若経等は生蘇味の経典であり、華厳経等は熟蘇味の経典であり、法華経・涅槃経等は醍醐味の経典であります。

 たとえ、小乗経が乳味の経典であったとしても、仏説の如くであるならぱ、一分の薬効はあるはずです。
 ましてや、諸の大乗経や、最高の醍醐味である法華経が、優れた薬効を有することは、申し上げるまでもないことです。

 しかるに、インドから中国へ仏法を伝えた翻訳者は、百八十七人いました。けれども、その中で、羅什三蔵ただ一人を除いた、それ以外の百八十六人は、純粋な乳に水を加えたり、薬に毒を入れたような人々でありました。

 この道理を弁えない一切の人師や浅はかな学者どもは、たとえ一切経を読誦して、十二分経(一切経を十二種類に分類したもの)を胸に浮かべるほど記憶していたとしても、生死の迷いを離れることが難しいでしょう。

 また、わずかな効果があるようであっても、天地が認知するほどの祈りとはなりません。魔王や魔民等が守護を加えて、一時は、法の効験があるように見えたとしても、最終的には、祈りを修した僧の身も、その僧の檀那も、安穏とはなりません。

 そのことを譬えれば、邪法の旧医が、薬に毒を混ぜて放置しておいたものを、その弟子たちが盗み取ったり、或いは毒と知らずに取り出して、人の病を治療するようなものであります。

 このような有様で、どのようにして、安穏でいられましょうか。

 当世の日本国の真言宗等の七宗(華厳宗・法相宗・三論宗・倶舎宗・成実宗・律宗・真言宗)並びに、浄土宗・禅宗等の学者どもは、『法華経最第一』の醍醐味の中に、『法華経第二』『法華経第三』等の我見の水を、弘法・慈覚・智証等が加えたことを知らないの
です。

 仏説の如くであるならば、先ほど引用させていただいた涅槃経に、「その時に、諸の賊(悪僧)が、醍醐味の中に、水を加えるであろう。ところが、水分が多すぎて、乳味でもなく、酪味でもなく、醍醐味でもなくなるであろう。」と、仰せになられていた大きな過
ちを、脱れることは出来ません。

 そもそも、大日経は、法華経と比較すると、七重も劣る経典であります。

 にもかかわらず、心得違いを起こした弘法等が、大日経を最第一と定めて、日本国に弘通した行為は、法華経という一分の乳の中に、大日経という七分の水を加えたようなものであります。

 そのようなものは、水でもなければ、乳でもありません。
 大日経でもなければ、法華経でもないのです。
 しかも、法華経にも似ていれば、大日経にも似ているような、奇怪なものになってしまいました。

 これらのことを、大覚世尊(釈尊)は、涅槃経において、このようにお記しになられています。

 「我が滅後において、(中略)正法がまさに滅び尽きようとする時に、多くの悪を行ずる比丘(僧)が現われるであろう。(中略)

 牛を飼っている女が乳を売って、多くの利益を貪ろうとする場合に、乳の中へ、二分の水を加える。(中略)この乳は、水分が多い。(中略)

 その時に、この経は、この閻浮提(世界)に、広く流布するであろう。

 一方、この時に、多くの悪比丘(悪僧)どもが、この経をかすめ取って、多くの部分に分断して、正法本来の色や香りや美味を滅してしまうであろう。

 また、これらの諸の悪人どもは、この経典を読誦したとしても、如来(仏)の深密な要義を滅除してしまうであろう。(中略)

 前の経文を抜き出して後に付けたり、後の経文を抜き出して前に付けたり、前と後の経文を中間に置いたり、中間の経文を前と後に置いたりするであろう。

 当に知るべきである。このような諸の悪比丘(悪僧)は、まさしく、魔の伴侶である。」と。

 今、日本国のことを案じてみると、既に、日本国の代が始まってから、久しく年月を経ています。従って、旧来からの守護の善神は、必ずや、福も尽き、寿命も減り、威光や勢力も衰えたことでしょう。

 正しい仏法の味を舐めてこそ、守護の善神の威光や勢力も、増長するのであります。

 けれども、日本国の人々は、皆、醍醐味である法華経に違背しています。そして、守護の善神は老いてしまいました。
 これでは、どのようにして、国の災難を払い、氏子(氏神を祀る人)を守護することが出来るのでしょうか。

 その上、日本国が謗法の国であるにもかかわらず、氏神であるからといって、氏子が犯した謗法の大罪を懲らしめることもなく、却って、氏子を守護するのであるならば、仏の御前で誓った、法華経の行者(日蓮大聖人)を守護する旨の起請(誓い)を破る神となり
ます。
  
 しかしながら、氏子のことでありますから、まるで、愛している子供が罪を犯しても、親が子供を見捨てないことのように、氏子は守護されています。

 そのために、法華経の行者(日蓮大聖人)を怨む国主や国人たちには、対治を加えられなかったのです。
 そして、八幡大菩薩等は、謗法の者どもを守護した過ちにより、大梵天王・帝釈天王等から罰せられたのでしょう。

 このことは、一大事であります。秘すべし、秘すべし。ある経典の中には、このような記述があります。

 「仏が、この娑婆世界と他方世界における、大梵天王・帝釈天王・大日天王・大月天王・四天王・竜神等を集めて、このように仰せになられた。

 正法・像法・末法時代の持戒・破戒・無戒の弟子たちを、第六天の魔王や悪鬼神等が、国王や人民の身に入って悩乱することを、見たり聞いたりしながらも、治罰することなく、少しの期間でも過ごすならぱ、必ずや、大梵天王・帝釈天王等が使者を遣わして、四天王に命じた上で治罰を加えるであろう。

 もし、氏神が治罰を加えないならば、大梵天王や帝釈天王や四天王等が、守護の氏神に処罰を加えるであろう。

 大梵天王や帝釈天王自身も、また、同様である。

 他方世界の大梵天王や帝釈天王等が、この娑婆世界の大梵天王・帝釈天王・大日天王・大月天王・四天王等の中で、治罰を怠っている者を、必ず処罰するであろう。

 もし、これに背くならば、三世の諸仏の出世にも出会えることがなく、永く大梵天王・帝釈天王等の位を失って、無間地獄に堕ちるであろう。」と。

 このように、釈迦如来・多宝如来・十方の諸仏の御前で、諸天や神々は、起請文を書き置かれたことが経典に記されています。

 今、このことをよく考えてみると、小国である日本の王となり、日本の神となったことは、小乗経では三賢の菩薩の位(五停心観・別相念処・総相念処)にあったからであり、大乗経では十信の菩薩の位(菩薩の五十二位の段階)にあったからであり、法華経では、
名字即(注、法華経の題名を聞いて信心を起こす位)の菩薩・五品(注、釈尊御入滅後における、随喜品・読誦品・説法品・兼行六度品・正行六度品と云う修行の段階)の菩薩の位にあったからであります。

 しかし、如何なる氏神が尽きることのない功徳を修行したとしても、法華経の名字を聞くことなく、一念三千の観法を守護しなければ、退位の菩薩(菩薩の位を退転した者)となって、永く無間地獄の大城に沈むことになります。

 故に、『扶桑略記』には、このような記載があります。

 「また、伝教大師が八幡大菩薩へ奉上するために、宇佐の神宮寺において、自ら法華経を講ぜられた。すると、八幡大菩薩が、その講を聞き終わってから、このように仰った。

 『私は、久しく、法音(法華経読誦の声)を聞くことが出来ずに、多くの歳月を経てしまった。

 しかし、幸いにも、和尚(伝教大師)に会って、如来の正教である法華経の教えを聞くことが出来た。 
 そればかりでなく、私のために、種々の功徳を修行してくれた。

誠に至って、随喜している。どのようにしても、この功徳を感謝するには、足りることがないであろう。

 そこで、兼ねてから、私が所持していた秘蔵の法衣がある。それを供養する。』と。すると、託宣を受けた神主が、自ら宝殿を開いて、紫の袈裟と紫の法衣を一つずつ捧げて、和尚(伝教大師)に奉上した。

 そして、『どうぞ、大慈悲の力を以って、宜しく、納受なさって下さい。』と、伝えた。この時に、禰宜・祝等の神官たちが、一同に驚いて、『元来、このような奇事は、これまでに見たこともなければ、聞いたこともない。』と、称歎した。

 この八幡大菩薩が供養された法衣は、今、比叡山の山王院にある。」と。

 今から振り返ってみると、八幡大菩薩は、人王第十六代・応神天皇になります。

 その当時、日本には、まだ、仏教が伝来されていませんでした。因って、応神天皇の時代に、袈裟・衣はあるはずがありません。

 八幡大菩薩は、人王第三十代・欽明天皇の御治世の三十二年目に、神となって顕われています。それ以来、弘仁五年(注、宇佐の神宮寺において、伝教大師が法華経を講ぜられた年。814年)までの間は、禰宜や祝等の神官たちが引き続いて、八幡大菩薩の御宝殿を守護されていました。

 従って、宇佐の神宮寺の神官たちは、「果たして、何れの天皇の時に、この袈裟・衣が納められたのであろうか。」と、不審に思っていました。

 そして、禰宜等は、「元来、このような袈裟・衣は、見たこともなければ、聞いたこともない。どのようにして、八幡大菩薩は、この袈裟・衣を所持されていたのであろうか。不思議なことである。不思議なことである。」と、云っていました。

 また、欽明天皇の御代から、嵯峨天皇の御代の弘仁五年(注、宇佐の神宮寺において、伝教大師が法華経を講ぜられた年。814年)に至るまでは、二十二代の天皇の御代を経ています。また、仏法が日本に渡来してから、二百六十余年を経ています。

 その間に、三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・華厳宗・律宗・禅宗等の六宗や七宗は、日本国に渡っていました。従って、八幡大菩薩の御宝前で、経を講じた人々は、数えきれないほどいます。

 また、法華経を読誦した人も、必ずや、いたことでありましょう。また、八幡大菩薩の御宝殿の傍(かたわ)らには、神宮寺と号した、法華経等の一切経
を講ずる堂(寺院)が、伝教大師以前から存在していたのであります。

 その時以来、八幡大菩薩は、必ずや、仏法を聴聞されていたことでありましょう。

 にもかかわらず、何故に、今になってから始めて、「私は、久しく、法音(法華経読誦の声)を聞くことが出来ずに、多くの歳月を経てしまった。」等と、八幡大菩薩は託宣されたのでしょうか。

 また、多くの人々が、法華経や一切経を講じられたにもかかわらず、なぜ、この御袈裟・御衣を進上されなかったのでしょうか。

 その理由を、当に知るべきであります。伝教大師以前には、法華経の文字だけは読まれていましたけれども、真の法華経の法義は、未だに顕われていなかった、ということを。

 去る延暦二十年(801年)十一月中旬の頃、伝教大師は、比叡山において、南都七大寺の六宗の碩徳(碩学の僧侶)十余人を招いた上で、法華経を講ぜられました。

 その際に、桓武天皇の臣下であった、和氣弘世と和氣真綱という二人の兄弟が、伝教大師の講を聴聞した後に、「法華経の一仏乗の教義が弘まらなかったことは、残念なことである。また、法華経の空・仮・中の三諦の法理が顕われなかったことは、悲しいことであ
る。」と、嘆きました。

 また、和氣弘世と和氣真綱は、「この世の人々は、年長の者も年少の者も、三界(欲界・色界・無色界)の煩悩に対する結びつきを打ち破ろうとしている。にもかかわらず、なお、未だに、方便の教えである歴劫修行の形態を改めることが出来ない。」とも、云って
いました。

 その後、延暦二十一年(802年)一月十九日には、桓武天皇が高雄寺に行幸なされて、南都六宗の碩徳(碩学の僧侶)と伝教大師を召し合わされました。

 桓武天皇は、その際に、各々の宗旨の勝劣について、お聞きになられました。しかし、南都六宗の十四人の碩徳(碩学の僧侶)は、皆、返答することが出来ずに、まるで、鼻のように口を閉じてしまいました。

 その後に、改めて、南都六宗の碩徳(碩学の僧侶)は、伝教大師への帰伏状を奉りました。

 その帰伏状には、「聖徳太子の弘教・化導以来、今に至るまでの二百余年の間に、講じられた経文や論書の数は多い。しかし、相手方の理と自らの理を争っている内容に、止まっている。そのため、経文や論書の勝劣に関する疑いは、未だに解けていない。しかも、
この最も優れた法華経の円宗(天台宗)の教えは、なお、未だに宣揚されていない。」等と、記されています。

 これらのことから考えてみると、伝教大師以前に、法華経の御心(法義)は、未だに、顕われていなかったことになります。

 八幡大菩薩が「見たこともなければ、聞いたこともない。」と御託宣されたことは、まさしく、このことを指すのであります。まさしく、このことは、明白であります。

 法華経の第四の巻の法師品第十には、このように、仰せになられています。

 「我が滅度の後に、よく、竊(ひそ)かに、一人のためにも、法華経を説く者があるならば、当に、知るべきである。この人は、如来の使いであることを。 (中略) 如来は、衣を以って、この人を覆われるであろう。」と。

 未来の世にお出ましになられる弥勒仏は、法華経を説かれることになります。故に、釈迦仏(釈尊)は、大迦葉尊者を御使いとして、衣をお送りになられたのであります。

 そのことと同様に、伝教大師は、釈迦仏の御使いとして、法華経を説かれたのであります。
 故に、釈迦仏(釈尊)は、八幡大菩薩を御使いとして、衣をお送りになられたのでしょう。
 
 また、この八幡大菩薩は、伝教大師御在世以前には、加水(乳に水を加えた)の法華経の法味を服していました。

 けれども、前世からの善根によって、応神天皇としてお生まれになりました。その善根の余慶(おかげ)で、神(八幡大菩薩)としてお顕れになって、この日本国を守護して来られたのであります。

 しかし、今では、前世からの福の余慶も、尽きてしまいました。また、正法の法味も、失われてしまいました。そして、謗法の者どもが国中に充満してから、長い年月を経ております。

 けれども、八幡大菩薩は、日本国の衆生に、久しい間、神と仰がれてきたために、氏子が謗法の大罪を犯していても、あたかも、年老いた親が不孝の子を見捨てることが出来ないことのように、謗法の者どもをかばい続けてきました。

 そのために、天の責めを受けられて、八幡大菩薩の御宝殿を焼かれることになったのでしょう。

 また、この袈裟は、「法華経最第一」と説く人だけが、掛けることの出来るものです。

 伝教大師の後を継がれた、比叡山第一の座主の義真和尚は、「法華最第一」と説かれた人でありました。
故に、この袈裟を掛ける資格があると云えます。

比叡山第二の座主の円澄大師は、伝教大師の御弟子でありました。けれども、また、弘法大師の弟子でもあった人です。従って、少し謗法の者に似ていましたから、この袈裟を掛ける資格はありません。

 また、比叡山第三の座主の慈覚大師・円仁は、名だけは伝教大師の御弟子でありました。けれども、心は、弘法大師の弟子でありました。

 加えて、慈覚大師は、「大日経第一、法華経第二」と、主張した人でありました。故に、この袈裟を掛ける資格は、全くありません。たとえ、この袈裟を掛けたとしても、法華経の行者ではありません。

 その上、また、当世の天台宗の座主は、すべて、真言の流れを汲む座主であります。また、当世の八幡大菩薩の別当も、園城寺の長吏(寺院の首長となる僧侶)や東寺(京都の真言宗の寺院)の末流であります。

 故に、これらの者どもは、遠くは、釈迦如来・多宝如来・十方の諸仏の大怨敵であり、近くは、伝教大師の讐敵(しゅうてき)であります。

 譬えて云えば、提婆達多が、大覚世尊(釈尊)の袈裟を掛けたようなものであります。また、猟師が仏衣を着て、師子の皮を剥ぐようなものであります。

 当世の比叡山の座主は、八幡大菩薩から、伝教大師が賜った袈裟を掛けておきながら、法華経の所領を奪い取って、真言の領地としてしまった者どもであります。譬えて云えば、阿闍世王が、提婆達多を師匠としたようものです。

 にもかかわらず、これらの謗法の者どもから、袈裟を剥ぎ返さないことは、八幡大菩薩の第一の大罪になります。

 この八幡大菩薩は、法華経の御座にして、法華経の行者を守護すべき旨の起請文を書いておきながら、この数年の間、法華経の大怨敵を治罰されないのは、誠に不思議なことであります。

 その上、たまたま、法華経の行者(日蓮大聖人)が出現した所に到来しておきながら、八幡大菩薩は、全く守護を為しておりません。

 八幡大菩薩の眼の前で、国主等が法華経の行者(日蓮大聖人)に怨嫉を加えることは、あたかも、犬が猿を噛んだり、蛇が蛙を呑んだり、鷹が雉を殺したり、師子王がウサギを殺すようなものであります。にもかかわらず、八幡大菩薩は、一度も戒めていません。

 たとえ、戒めたようであっても、わざと手ぬるい対応を取ったために、大梵天王・帝釈天王・大日天王・大月天王・四天王等からの責めを、八幡大菩薩は受けられたのであります。

 例えば、欽明天皇・敏達天皇・用明天皇、以上の三代の天皇は、物部大連と守屋等の大臣の勧めに依って、宣旨を下して、金銅の釈尊像を焼き奉ってしまいました。そして、御堂(寺院)に火を放って、僧や尼を責めたために、天より火が下って、内裏を焼かれることになりました。

 その上、日本国中の万民が、何の罪もないのに、悪瘡(悪性のできもの)を病んで、大半の者が死んでしまいました。
 結局は、上記の三代の天皇と、二人の大臣と、その他多くの皇太子や公卿等が、或いは悪瘡のため、或いは合戦のために、滅びたのであります。

 また、その時、日本国の百八十の神々が栖んでいた宝殿は、皆、焼失してしまいました。これらは、釈迦仏に敵対した者を守護したことによる、大罪であります。
 
 また、園城寺は、比叡山の開基以前から、存在していた寺であります。けれども、比叡山の智証大師が、園城寺に真言を伝えてから、今に至るまで、園城寺の
寺主のことを、長吏(寺院の長となる僧侶の職名)と呼んでいます。因って、園城寺が比叡山の末寺であることは、疑いありません。

 にもかかわらず、比叡山の得分であった大乗戒壇を奪い取って、園城寺に建立してしまいました。
 その上、園城寺は、「比叡山には随わない。」と、云っています。譬えて云えば、臣下が大王に敵対したり、子供が親不孝をするようなものです。

 このような悪逆の寺を、新羅大明神(園城寺の新羅善神堂の明神)が、妄りに守護したために、度々、山門(比叡山)の攻撃を受けて、新羅大明神の宝殿を焼かれたのでありま
す。
  
今、八幡大菩薩は、法華経の大怨敵を守護したために、天火に宝殿を焼かれたのであります。

同様の事例を提示します。

秦(中国)の始皇帝の先祖である嚢王が、後に蛇神となって、始皇帝を守護されていました。

 しかし、秦の始皇帝が大いに慢心を起こして、三皇五帝の墳典(注、伏羲・神農・黄帝の三皇の書、及び、少昊・センギョク・高辛・唐堯・虞舜の五帝の書)を焼いたり、三聖の孝経(注、孔子・老子・顔回の書)等を、灰にしてしまいました。

そのため、漢の沛公と云う人が、利剣を以って、始皇帝の氏神であった大蛇を切り殺しました。
それから間もなく、秦の世は、滅びてしまいました。

我が国にも、同様の事例があります。

安芸の国の厳島大明神は、平家の氏神でありました。

しかし、厳島大明神は、あまりにも平家を驕らせた過失によって、伊勢大神宮や八幡大菩薩から、神打(注、神が神を罰すること)に打たれて、焼失してしまいました。それから間もなく、平家は、滅びてしまいました。今、鶴岡八幡宮の宝殿が焼けたことも、また、これと同じ理由によるのであります。

法華経の第四の巻の見宝塔品第十一には、「仏の滅後に、よく、法華経の義を解する者があれば、その者は、諸の天・人・世間の眼である。」と、お説きになられています。

 法華経の肝心である題目を、日蓮が日本国に弘通していることは、まさしく、「諸の天・世間の眼」以外の何物でもありません。

 そもそも、眼には、『肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼』の五種類があります。この五種類の眼は、いずれも、法華経から出生したものであります。

 故に、法華経の結経である普賢経には、「この方等経は、諸仏の眼である。諸仏は、この方等経によって、五眼を具えることが得られた。」等と、お説きになられています。

 上記の普賢経の経文に、「この方等経」と説かれているのは、法華経のことであります。

 また、普賢経には、「法身・報身・応身の三種の仏は、人・天にとっての福田(福徳を生ずる田)であり、応供(人・天から供養を受ける資格のある存在)の中でも、最上になる。」等と、お説きになられています。

 これらの経文によれば、妙法蓮華経は、人・天の眼であり、二乗(声聞・縁覚)や菩薩の眼であり、十方の諸仏の御眼であります。

 故に、法華経の行者を怨む人は、人・天の眼を損なう者であります。にもかかわらず、その人を罰しようとしない守護神は、一切の人・天の眼を損なう者に
加担する神であります。

 しかるに、弘法・慈覚・智証等は、正式な書を作って、「法華経は、迷いの辺域の経典であり、悟りの分位には入っていない。法華経は、後の大日経に比べれば、戯論に過ぎない。法華経の教主釈尊は、力者(駕籠を担ぐ人)にも及ばない。また、草履取りにも足り
ない。」と、書きつけています。

 そして、それ以来、四百余年が経過しています。

 その間、日本国の上一人(天皇)から下万民に至るまで、法華経を侮るままにさせておいて、一切衆生の眼を損なう者を守護してきたことは、まさしく、八幡大菩薩が謗法に加担した所為であります。

私(日蓮大聖人)は、去る弘長元年(1261年)五月十二日、伊豆に流罪させられまし
た。

 また、文永八年(1271年)九月十二日の龍口法難の際には、日蓮には全く過失がなかったにもかかわらず、南無妙法蓮華經と唱えることを、大罪に処されてしまいました。

 それだけでなく、国主の処置として、八幡大菩薩の御前を引き廻されて、国中の謗法の者どもに、私(日蓮大聖人)を嘲笑させたことは、まさしく、八幡大菩薩の大罪ではありませんか。

 その戒めと思われることは、ただ、北条一門に、同士打ち(二月騒動)をさせただけに過ぎません。

 元来、八幡大菩薩は、日本国の賢王(応神天皇)であった上に、日本国でも第一・第二を争うほどの御神であります。従って、八幡大菩薩に勝る神は、断じてありません。

 また、「八幡大菩薩は、『正直』を旨とする神でありますから、決して、偏頗(不公平)なことはあるはずがない。」と、思われます。けれども、一切経並びに法華経の掟から申し上げると、八幡大菩薩は、大罪を犯した神になります。

 日本国内の六十六箇国に、壱岐・対馬の二島を加えた六十八箇国において、国内の一万一千三十七箇寺に御安置されている仏は、或いは画像の仏、或いは木像の仏であります。或いは、真言宗が伝来する以前からの寺もあり、或いは、真言宗が伝来した以後の寺も
あります。

これらの仏は、皆、法華経から出生しています。
故に、法華経を以って、眼とするべきであります。

そのことは、普賢経に、「この方等経(法華経)は、諸仏の眼である。」等と、お説きになられている通りです。

 妙楽大師は、『法華文句記』に、「しかも、この法華経は、仏性の常住を咽喉としている。一乗の法華経の妙行を眼目としている。仏種が腐敗した二乗(声聞・縁覚)の再生を心臓としている。久遠の仏の本地を顕わすことを命としている。」等と、お記しになられています。

にもかかわらず、日本国の習いとして、真言師だけに限らず、諸宗一同に、真言宗の仏眼の印を以って、開眼しています。また、大日如来の真言を以って、五智(注、大日如来の智を五つに分けたもの、法界体・性知・大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智)を具足させています。

 これらは、法華経によって成仏出来る衆生を、真言の権教で供養していることになります。そのことにより、還って、仏を殺し、眼を損ない、寿命を断って、喉を裂く人々になっています。

これらの行為は、提婆達多が教主釈尊の御身から血を出したり、阿闍世王が提婆達多を師匠として現罰を受けたことにも、全く劣らないことであります。

応神天皇の本地は、八幡大菩薩であります。そして、小国である日本国の王であります。一方、阿闍世王は、大国であるマカダ国の大王であります。

そのため、阿闍世王と八幡大菩薩の間には、「天と人・王と民」ほどの勝劣があります。しかしながら、大国の王である阿闍世王でさえ、釈迦仏(釈尊)に敵対する罪を犯したために、全身に悪瘡が発生する罰を受けています。

ましてや、小国の王である八幡大菩薩が、どのようにして、法華経の行者(日蓮大聖人)を守護されなかった罪を、脱れることが出来るのでしょうか。

 去る文永十一年に、大蒙古国の軍勢が攻め寄せてきた時には、日本国の多くの兵が殺傷されただけでなく、八幡大菩薩の宮殿(宇佐八幡宮)も焼かれています。

その時、なぜ、大蒙古国の兵士たちに、罰が現れなかったのでしょうか。

 当に知るべきであります。大蒙古国の大王の方が、日本国の神よりも勝れていたことは、明らかであることを。

秦の襄王と云う神は、中国第一の神(蛇神)でありました。けれども、漢の沛公の利剣によって、切り殺されています。また、以下の事例を以って、拝察するべきであります。

道鏡法師が、称徳天皇からの関心を寄せることによって、国王(天皇)になろうとした時に、和氣清丸が八幡大菩薩に祈請をしました。

 その時、八幡大菩薩は、「神には、大小や好悪がある。(中略)相手の勢力は多く、我が勢力は少ない。また、邪の勢力は強く、善の勢力は弱い。そのため、当に、仏力の御加護を仰ぐことによって、皇位の継承を隆盛にしなければならない。」と、御託宣されまし
た。

当に知るべきであります。八幡大菩薩は、法華経の正法を力として、王法を守護されたことを。にもかかわらず、承久の変において、朝廷方が、比叡山や園城寺等の真言の邪法を以って、権大夫殿(北条義時)を調伏するための祈祷を行ったために、却って、権大夫殿(北条義時)が勝って、隠岐の法皇(後鳥羽上皇)が負けたのであります。

法華経普門品第二十五に、「還著於本人」(注、還って本人に著きなん。還って、自分自身に、善悪の因果の報いを受けること。)と仰せになられているのは、まさしく、このことになります。

 今、また、日本国の一万一千三十七の寺、並びに、三千一百三十二杜の神は、国家安穏のために、崇められています。

 ところが、それらの寺々の別当や杜々の神主等は、皆々、彼等が崇めているところの本尊や神の御心に相違しています。それらの仏と神は、体が異なっていても、心は同じであり、一同に、法華経の守護神に
なります。

にもかかわらず、それらの寺々の別当や杜々の神主は、或いは真言師、或いは念仏者、或いは禅僧、或いは律僧が務めています。彼等は、皆、一同に、八幡大菩薩等の御敵になります。

 八幡大菩薩は、これらの謗法・不孝の者を守護しておきながら、正法の者(日蓮大聖人)を流罪や死罪等に遭わせた故に、天の責めを被って、宝殿を焼かれたのであります。

 私(日蓮大聖人)の弟子たちの中で、謗法のなごりが残っている者どもは、「この御房(日蓮大聖人)は、八幡大菩薩を敵としている。」と、云っています。

 しかし、これは、道理を有していても、未だに、法(祈願)が成就しない場合には、本尊を責める事の意義を知らない者が思うことであります。

付法蔵経と云う経典には、大迦葉尊者の因縁を、このようにお説きになられています。

 「ある時、マカダ国に、婆羅門がいた。尼倶律陀という名前であった。その婆羅門(尼倶律陀)は、過去の世において、長い間、多くの勝れた修行を積んだ功
徳によって、数え切れないほどの巨万の富を蔵していた。(中略)

 その富は、マカダ国の王に比較しても、千倍勝っていた。(中略)しかし、財宝は豊かであったけれども、子供が一人もいなかった。

 そのため、その婆羅門(尼倶律陀)は、『自分は年老いて、死の時が近づいてきた。しかし、蔵庫の諸の財宝を譲るべき子供がいない。』と、思っていた。

 その婆羅門(尼倶律陀)の家の側には、樹林神があった。そこで、その婆羅門(尼倶律陀)は、樹林神に出向いて、『子を授けたまえ。』と祈請した。

 しかし、それから、多くの歳月を経歴しても、全く効験がなかった。その時に、尼倶律陀は、大いに瞋忿(怒り)を生じて、樹林神に向かって、このように
語った。

 『私は、汝(樹林神)に仕えてから、既に、数年を経ている。けれども、全く、何の福報も見られない。
今から、当に七日間は、至心を込めて、汝(樹林神)に祈請を捧げる。しかし、それでも、また、何の効験もなければ、必ずや、汝(樹林神)の祠を焼き払う
であろう。』と。

明らかに、このことを聞き終わってから、樹林神は、強い恐怖を懐いた。そして、樹林神は、四天王に向かって、具体的に、このことを陳述した。更に、四天王は、帝釈天王の許を訪ねて、以上の内容を言上した。

 その後、帝釈天王は、閻浮提(世界中)の内を観察された。けれども、尼倶律陀の子とするに足るような、福徳を有した者がいなかった。

 そこで、帝釈天王は、大梵天王の許を詣でて、広く、上記の報告を述べられた。

 その時に、大梵天王が天眼を以って、閻浮提(世界)の中を観察すると、当に、一人の梵天が臨終を迎えようとしていた。

 そこで、大梵天王は、その梵天に向かって、『汝が、もし、天から下界に降臨するならば、ぜひ、閻浮提界の婆羅門の家に生まれなさい。』と、告げた。

 それに対して、梵天は、『婆羅門の法には、悪見や邪見が多い。従って、私は、そのような者の子となることは出来ない。』と、答えた。

 大梵天王は、再び、梵天に向かって、『尼倶律陀という婆羅門には、大威徳がある。故に、閻浮提中を捜しても、尼倶律陀の子とするに足るような者がいない。もし、汝が、尼倶律陀の家に生まれるならば、最後まで、私が汝を護って、邪見が入らないようにしよう。』と、言った。

 梵天は、『承諾致します。謹んで、仰せの通りに致しましょう。』と、答えた。

 この返答を得た大梵天王は、帝釈天王に、梵天が承諾したことを伝えた。
 そして、帝釈天王は、すぐに、樹林神に向かって、これまでの経緯を説いた。

 樹林神は歓喜した。
 それから、樹林神は、尼倶律陀という婆羅門の家に行った。

 そして、樹林神は、『今から、汝は、私を恨んではならない。これから七日後に、必ず、貴殿の願いは満たされるであろう。』と、尼倶律陀に語った。

 それから、七日を経て、尼倶律陀の妻が懐妊した。
 その後、尼倶律陀の妻は、十ヶ月を満了してから、一人の男児を生んだ。(中略)

 その男児が、現在の大迦葉尊者である。」と。

 また、付法蔵経には、「時に応じて、尼倶律陀という婆羅門は、大いに瞋忿(怒り)を生じた。」等と、仰せになられています。

 通常の場合であれば、氏神に向かって、大瞋恚(怒り)を発する者は、今生では身を亡
ぼし、後生では悪道に堕ちなければなりません。

 しかしながら、尼倶律陀という婆羅門の長者は、氏神に向かって、大悪口や大瞋恚(怒り)を発したことによって、大願を成就し、大迦葉尊者のような賢い子を授かったのであ
ります。

 因って、瞋恚(怒り)は、善・悪に通ずるものであることを、当に知るべきです。

 今、日蓮は、去る建長五年四月二十八日から、今年、弘安三年十二月に至るまでの二十八年の間、ただひたすらに、妙法蓮華経の題目の七字・五字を、日本国の一切衆生の口に入れようと、励むばかりの日々でした。
それ以外の他事は、全くありません。

 このことは、すなわち、母親が赤ん坊の口に乳を入れようと、励む慈悲と同様であります。
 また、このことは、まさしく、末法の今こそ『時』が到来していることを、意味しています。

 その理由は、既に、釈尊が広宣流布を予言された、後五百歳(末法の始め)の『時』に、当たっているからであります。

 天台大師や伝教大師の時代は、まだ、像法の時代でした。従って、法華経流布の『時』が、未だに、到来していませんでした。けれども、少しは法華経の機根があった故に、少々、法華経が流布しました。

 ましてや、現在は、既に、後五百歳(末法の始め)の『時』が到来しています。たとえ、末法の衆生には機根が欠落しているために、正法を弘通する者に対して、水と火の関係のように敵対してきたとしても、必ず、法華経(御本尊)を弘通しなければなりません。
 
 ただ、不軽菩薩のように、大難に値ったとしても、法華経が流布することは、疑いありません。

 にもかかわらず、真言宗や禅宗や念仏宗の者どもの讒言・讒秦によって、無智の国主が法華経の行者(日蓮大聖人)に留難を加えています。

 本来なら、これらの無智の者どもを治罰するべき氏神である八幡大菩薩が、彼等の大罪を治罰しないからこそ、日蓮が氏神を諌暁するのであります。

 これは、決して、道理に背くものではありません。
 あたかも、尼倶律陀という婆羅門の長者が、樹林神を諌めた行為と異なりません。

 蘇悉地経には、「本尊を治罰することは、鬼やお化けを対治するようにせよ。」等と、お説きになられています。

 この経文の心は、「経文の通りに、所願を成就するためには、数年の間、法を修行しても成就しなければ、本尊を縛ったり、打ったりして責めよ。」と、説かれていること
にあります。

 相応和尚(比叡山東塔の無動寺を創建した僧侶)が不動明王を縛った故事は、この蘇
悉地経の経文を見たことに拠るのでしょう。

 しかし、私(日蓮大聖人)が八幡大菩薩を諌めていることは、婆羅門の尼倶律陀や相応
和尚の事例とは、似ても似つかぬものです。

 その理由を、下記に申し上げます。

 日本国の一切の善人は、或いは戒律を持ったり、或いは布施を行ったり、或いは父母等
の孝養のために寺塔を建立したり、或いは成仏得道のために、妻子を養うべき財を止めて、
諸々の僧侶に供養をしています。

 けれども、これらの僧侶の正体は、謗法の者であります。
 あたかも、謀叛の者と知らずに宿を貸したり、親不孝の者と知らずに夫婦の契りを結ん
だようなものです。

 従って、今生においては災難を招き、後生においても悪道に堕ちてしまいます。
 私(日蓮大聖人)は、それらの災難や悪道から、日本国の一切の善人を救い出そうとし
ている身であります。

 にもかかわらず、日本国の守護の善神等は、謗法の僧侶どもに加担して、正法の敵とな
っています。
 故に、日本国の守護の善神等を責めることは、経文に合致する行為であります。また、
道理にも適っております。

 私(日蓮大聖人)の弟子たちの中には、下記のように、愚かな考えを持っている者がい
ます。

 「我が師(日蓮大聖人)が法華経を弘通していても、弘まらない上に、却って、大難が
到来しているのは、『真言は国を亡ぼす悪法である。念仏は無間地獄である。禅は天魔の
所為である。律僧は国賊である。』と、云っているからだ。
 例えてみると、道理が重要視される問注(裁判)において、悪口を混じえているような
ものだ。」と。

 そこで、日蓮は、我が弟子に対して、下記の如く、反対に詰問をしてみました。

 「汝よ。もし、そのような考えを持っているのであれば、私(日蓮大聖人)の質問に
答えなさい。

 まず、一切の真言師・一切の念仏者・一切の禅宗の者どもに向かって、『南無妙法蓮華
經と唱えなさい。』と、勧めてみなさい。

 そうすれば、彼等(一切の真言師)は、『我等が師匠である弘法大師は、『法華経は戯
論の法である。教主釈尊は迷いの分際である。駕籠かきや草履取りにも及ばない。』と、
説かれている。物の役に立たない法華経を読誦するよりも、その口で、真言の短い呪文を、
一遍でも誦してみた方がよい。」と、云うことでしょう。

 また、一切の在家の者(念仏者)は、このように云うでしょう。

 『善導和尚は、“法華経によって成仏する者は、千人の中に一人もいない。”と、説か
れている。
 法然上人は、“念仏以外の教えを、捨てよ、閉じよ、閣け、抛て。”と、説かれている。
 道緯禅師は、“念仏以外の教えで得道した者は、まだ、一人もいない。”と、定められ
ている。

 汝が勧めている南無妙法蓮華經は、我等が信仰している念仏の障りである。
 たとえ、我等は、悪を作ったとしても、絶対に、南無妙法蓮華經とは唱えない。』と。

 また、一切の禅宗の者は、このように云っています。
 
 『我が宗は、教外別伝と申して、一切経の外に覚りを伝えた、最上の法門である。

 禅は、月のようなものである。
 一切経は、その月を指している、指のようなものである。
 天台大師等の愚人は、指に固執して、月を見失っている。

 法華経は指であり、禅は月である。
 月を見た後に、指には、何の用があるのか。』と。
 
 その上で、私(日蓮大聖人)の弟子に対して、詰問します。

 『以上のように、一切の真言師・一切の念仏者・一切の禅宗の者どもが云っている場合、
どのようにすれば、南無妙法蓮華經の良薬を、彼等の口に入れることが出来るのであろう
か。」と。

 仏(釈尊)は、しばらくの間、阿含経をお説きになられた後に、二乗(声聞・縁覚)の
行者を法華経へ導き入れよう、と、お考えになられました。

 ところが、一切の二乗(声聞・縁覚)の行者たちは、あくまでも阿含経に執著して、法
華経の教えに入ろうとしませんでした。
 それを、仏(釈尊)は、どのように、お考えになられたのでしょうか。

 このことを、仏(釈尊)は、維摩経において、「たとえ、殺父・殺母・殺阿羅漢・破和
合僧・出仏身血という五逆罪を犯したとしても、また、五逆罪を犯した者を供養したとし
ても、また、罪が成仏の種子となるようなことがあったとしても、二乗(声聞・縁覚)の
善根が成仏の種子となることはない。」と、はっきりお説きになられています。

 教法は、小乗・大乗と異なっていたとしても、同じく、仏説には違いありません。

 大乗が小乗を破して、小乗を大乗に入れようとすること。
 そして、その大乗の中でも、権大乗の爾前経を破して、実大乗の法華経に入れようとす
ること。 
 破折の対象において、小乗・大乗の相異はあったとしても、法華経へ導き入れようと思
う志は、ただ一つであります。

 そのため、法華経の序分である無量義経には、法華経以前に説かれた大乗経の経典のこ
とを、「未顕真実」(未だ真実を顕さず)と、仰せになられています。

 また、法華経方便品第二には、「法華経を説かないことは、疑いもなく、不可な行為で
ある。」等と、仰せになられています。

 仏(釈尊)は、自ら、「私は、この世に出でて、華厳経や般若経等の爾前経を説いただ
けで、法華経を説かずに、入滅して涅槃したならば、愛する子に財を譲ることを惜しんだ
り、病人に良薬を与えることなく、死に至らしめるようなものである。」と、仰せになら
れています。

 更に、仏(釈尊)は、自ら、「法華経を説かなかったことの罪によって、地獄に堕ちる
であろう。」と、お記しになられています。

 先程引用させて頂いた、法華経方便品第二の経文に、「法華経を説かないことは、不可
な行為である。」と、釈尊は仰せになられていました。

 その経文の中の『不可』と云うことは、地獄の異名であります。

 ましてや、法華経が説かれた後に、『未顕真実』の爾前経に執著して、法華経へ移って
こない者は、あたかも、民が大王の命令に従わないようなものであり、子供が親に仕えな
いようなものです。

 たとえ、直接、法華経を破らなくとも、爾前の経々を誉める者は、法華経を謗る行為に
該当しているのであります。

 妙楽大師は、『法華文句記』において、「もし、昔の経典(爾前経)を称歎するならば、
それは、まさしく、今の経典(法華経)を謗ることに他ならない。」と、記されています。

 また、『法華文句記』には、「発心しようと思ったとしても、偏教(偏った教え→爾前
経)と円教(円満な教え→法華経)の区別を選ぶことなく、また、釈尊の誓いの境地を理
解しようともしなければ、たとえ、未来に法を聞いたとしても、どのようにして、謗法を
免れることが出来るのであろうか。」等と、記されています。

 真言宗の善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証等は、たとえ、法華経を大日経に相
対させた上で、勝劣を論じることなく、ただ大日経だけを弘通したとしても、釈尊御入滅
後に生まれた三蔵の人師(経・律・論に通達した人師)でありますから、到底、謗法の罪
を免れることは出来ません。

 ましてや、善無畏・金剛智・不空の三人の三蔵は、「法華経は略説であり、大日経は広
説である。」と同格に扱った上で、法華経の行者を大日経へ騙し入れています。

 また、弘法・慈覚・智証の三大師は、法華経の名を書き上げて、『戯論』等と記してい
ます。

 にもかかわらず、彼等の謗法の大罪を明らかにしてこなかったため、この四百余年の間
に、一切衆生は、皆、謗法の者となってしまったのであります。

 例を挙げれば、大荘厳仏の時代の末に、苦岸・薩和多・将去・跋難陀という四人の比丘
(僧)が現れて、六百万億那由他という多数の人々を、皆、無間地獄に堕したこと。

 また、師子音王仏の末の世に現れた勝意比丘が、たいへん多くの僧・尼・男信徒・女信
徒等の持戒の者を、皆、阿鼻大城(無間地獄)に導いたこと。

 それと同様に、今、弘法・慈覚・智証の三大師の教化に随って、日本国の四百九十九万
四千八百二十八人〈行基が『日本紀』の著書で数えた折には、男・女合わせて四百五十八
万九千六百五十九人〉の一切衆生や、または、四百九十万人とも数えられるような多くの
人々が、この四百余年の間に死んでから、無間地獄に堕ちてしまいました。

 また、その後、他方世界から、この国土世間に生まれ変わってきた者も、また、死んで
から、無間地獄に堕ちてしまいました。

 このように、無間地獄に堕ちた者は、大地微塵の数よりも多いのです。
 これらは、皆、弘法・慈覚・智証の三大師の罪であります。

 このような状況を大いに見ておきながら、身を偽って、愚かにも、このことを言い出さ
なかったならば、私(日蓮大聖人)も共に堕地獄の者となって、一分の罪もなかった身が、
十方の大阿鼻(無間)地獄を経なくてはなりません。

 こう思えば、どうして、身命を捨てずに、黙っていられるのでしょうか。

 涅槃経には、「一切衆生が、各々の苦しみを受けていることは、悉(ことごと)く、是
れ、如来一人の苦しみである。」等と、仰せになられています。

 そこで、日蓮は、「一切衆生が、一同に苦しみを受けていることは、悉(ことごと)く、
是れ、日蓮一人の苦しみである。」と、申し上げます。

 第五十代平城天皇の御代に、八幡大菩薩は、「私は、日本国の鎮守の八幡大菩薩である。
私には、百代の天皇を守護する誓願がある。」等と、御託宣されています。

 ところが、今から振り返ってみると、第八十一代安徳天皇・第八十二代後鳥羽天皇・第
八十三代土御門天皇・第八十四代順徳天皇・第八十五代仲恭天皇の諸皇が、既に滅ぼされ
ています。
 そして、八幡大菩薩が宝殿を焼かれて、天へ昇られたために、今、百代の残りの二十余
代の天皇は、八幡大菩薩から見捨てられたのであります。

 前記の八幡大菩薩の誓願は、既に、破れてしまったようなものです。

 日蓮は、「百代の天皇を守護するということは、百人の『正直』の王を守護する、と、
お誓いになられたことである。」と、認識しております。

 なぜなら、八幡大菩薩の御誓願には、「『正直』の人の頭頂を、栖(すみか)とする。
邪(よこしま)に諂(へつら)う人の心に、亭(やど)ることはない。」等と、云われて
いるからです。

 そもそも、月というものは、清んだ水に、影を映します。
 しかし、月は、濁った水に、影を映すことはありません。

 また、王とは、『不妄語』の人のことを云います。

 そのように考えれば、右大将家・権大夫殿(北条義時)は、『不妄語』の人であり、『正
直』の頭頂を有しています。
 そして、右大将家・権大夫殿(北条義時)は、八幡大菩薩が栖(すみか)とする、百人
の『正直』の王の一人に該当しています。

 『正直』には、二種類あります。

 一つは、世間の『正直』であります。
 二つは、出世間(仏法)の『正直』であります。

 まず、第一に、世間の『正直』について、述べることにします。

 王という字は、「天と人と地の三つを、串(つらぬ)いていくのが、王である。」とい
う意味で、名付けられています。天と人と地の三つは、横の線であります。そして、真ん
中を貫いているのは、縦の線であります。

 また、王とは、黄帝のことであり、中央の名を意味します。
 故に、天の主・人の主・地の主を、王と云うのであります。

 ところが、隠岐の法皇(後鳥羽天皇)は、名は国王でありましたが、身は妄語の人であ
り、横しまな人でありました。

 一方、隠岐の法皇(後鳥羽天皇)を破った権大夫殿(北条義時)は、名は臣下でありま
したが、身は大王であり、不妄語の人でありました。

 従って、権大夫殿(北条義時)は、八幡大菩薩が守護をする旨の請願をなされた頭頂の
持ち主でした。

 第二に、出世間(仏法)の『正直』とは、「爾前経に基づいた七宗(華厳・法相・三論
・倶舎・成実・律・真言)の経・論・釈は妄語である。一方、法華経・天台宗は、『正直』
の経・釈である。」ということです。

 八幡大菩薩の本地(注、仏や菩薩の本来の姿のこと。“垂迹”の反対語。)は、不妄語
の経典をお説きになられた、釈迦仏であります。
 その垂迹(仏や菩薩が衆生を教化するために、様々な姿で現れること。“本地”の反対
語。)として、釈迦仏は、不妄語を旨とされた八幡大菩薩の姿で御出現なされています。

 八葉の蓮華(曼荼羅を取り巻く八枚の蓮華の葉)は、八幡大菩薩であります。
 そして、その中台(曼荼羅の中央部の台)は、教主釈尊であります。

 教主釈尊も八幡大菩薩も、四月八日・寅の日の御誕生であり、その後八十年を経られて
から、二月十五日・申の日に御入滅なされています。
 まさしく、日本国に、教主釈尊が八幡大菩薩として、お生まれになられたのであります。

 大隅の正八幡宮の石碑の文には、「昔は霊鷲山に在って、妙法蓮華経を説き、今は正宮
の中に在って、大菩薩の姿を示現する。」等と、記されています。

 法華経譬喩品第三には、「今、此の三界は、皆、我が有するものである。」等と、お説
きになられています。

 また、法華経如来寿量品第十六には、「我は、常に霊鷲山に在る。」等と、お説きにな
られています。
 遠くは三千大千世界の一切衆生は釈迦如来の子なり。近くは日本国四十九億九万四千八
百二十八人は八幡大菩薩の子なり。
 
 故に、遠くは、三千大千世界の一切衆生は、釈迦如来の子であります。
 近くは、日本国の四百九十九万四千八百二十八人は、八幡大菩薩の子であります。

 にもかかわらず、今の日本国の一切衆生は、八幡大菩薩だけを崇め奉るようにもてなし
て、釈迦仏を捨て去っています。
 それは、あたかも、影だけを敬って本体を侮ったり、子供に向かって親を罵るような、
本末転倒の行為です。

 八幡大菩薩の本地(注、仏や菩薩の本来の姿のこと。“垂迹”の反対語。)は、釈迦如
来であります。

 月氏国(インド)に生まれては、『正直捨方便』の経典である法華経をお説きになられ
て、垂迹(仏や菩薩が衆生を教化するために、様々な姿で現れること。“本地”の反対語。)
としては、日本国に生まれて、『正直』の人の頭頂に住まわれるのです。

 諸の権化(注、仏や菩薩が、仮の姿を以って、種々の身に化現すること。)の人々の本
地(注、仏や菩薩の本来の姿のこと。“垂迹”の反対語。)は、法華経の一つの実相に集
約されます。
 けれども、垂迹(仏や菩薩が衆生を教化するために、様々な姿で現れること。“本地”
の反対語。)の姿を現ずる際には、無量の種類があります。

 つまり、髪倶羅尊者が過去・現在・未来の三世に渡って、不殺生戒の手本を示したり、
また、鴦掘摩羅が生まれ替わるたびに殺生を行ったり、舎利弗が外道の家に生まれたこと
等のように、各々、垂迹の修行の姿が異なっている、ということです。

 それは、元々、彼等が凡夫であった時に、初めて発心してから仏道に入り、修行を積ん
で仏になった後、化他門にお出ましになられる(注、衆生を教化されること)時に、自ら
が得道(成仏)した法門として、衆生に修行の姿を示すためであります。

 故に、妙楽大師は、『摩詞止観弘決』に、「もし、本地に従って説くならば、また、同
様のことである。昔、殺生等の悪事を犯した因縁により、却って、よく、生死の迷いを出
離する(注、覚りを得ること)ことになった。故に、垂迹の中においても、また、殺生の
悪事を因縁として、利他の法門(注、衆生を教え導く法門)とする。」等と、云われてい
ます。

 今の八幡大菩薩の本地は、釈尊であります。

 釈尊は、月支国(インド)において、不妄語の法華経をお説きになられています。

 また、日本国においては、垂迹の御姿として、八幡大菩薩の御姿でお出ましになられて
います。
 そして、八幡大菩薩は、法華経を『正直』の二字に収められた上で、「私は、賢人の頭
頂に宿るであろう。」等と、云われています。

 もし、そうであるならば、八幡大菩薩は、たとえ、宝殿を焼いて天に上られたとしても、
法華経の行者が日本国に有るならば、必ずや、法華経の行者の住処を栖(すみか)とされ
ることでしょう。

 法華経の第五巻の安楽行品第十四には、「諸天は、昼夜に、常に、法の為の故に、法華
経を行ずる者を衛護する。」と、お説きになられています。

 この経文に仰せの通りであるならば、南無妙法蓮華經と唱える人を、大梵天王・帝釈天
王・大日天王・大月天王・四天王等が昼夜に渡って守護されるように、見受けられます。

 また、法華経の第六巻の如来寿量品第十六には、「或いは己身(仏身)を説いたり、或
いは他身(仏界以外の九界の身)を説いたり、或いは己身(仏身)を示したり、或いは他
身(仏界以外の九界の身)を示したり、或いは己事(仏の事柄)を示したり、或いは他事
(仏界以外の九界の事柄)を示す。」と、お説きになられています。

 観世音菩薩でさえ、なお、三十三身を現じられています。
 妙音菩薩も、また、三十四身を現じられています。
 であるならば、教主釈尊が、何故に、八幡大菩薩として、姿を現じられないことがある
のでしょうか。

 天台大師は、『法華玄義』に、「即ち、これは、形を十界に示して、種々の像を現ずる。」
等と、仰せになられています。

 天竺国(インド)のことを、月氏国と申します。
 月は明らかな存在であるが故に、仏(釈尊)が御出現されるべき名前になります。

 一方、扶桑国(日本の古称)のことを、日本国と申します。
 であるならば、何故に、聖人が御出現されないことがあるのでしょうか。

 月は、西から東へ向かいます。
 それは、月氏(インド)の仏法が、東へ流布していく瑞相であります。

 太陽は、東から昇って来ます。
 それは、日本の仏法(日蓮大聖人の仏法)が、月氏(インド)ヘ還っていく瑞相であり
ます。

 月の光は、太陽ほど、明らかではありません。
 釈尊御在世の中で、法華経をお説きになられた期間は、ただ八ヶ年に過ぎませんでした。

 一方、太陽の光明は、月よりも勝れています。
 それは、日本の仏法(日蓮大聖人の仏法)が、五五百歳(末法)の長い闇を照らしてい
く瑞相になるからであります。

 仏(釈尊)は、法華経への謗法を犯した者を治されませんでした。
 なぜなら、仏(釈尊)の御在世には、謗法の者がいなかったからです。
 けれども、末法には、一仏乗の教えである法華経の強敵が、充満することでしょう。

 この時にこそ、不軽菩薩の如き、逆縁の折伏の利益が存在するのであります。
 各々、我が弟子たちは、励まなくてはなりません。励まなくてはなりません。