今回、一般講義の第一回目を担当させて頂くことになりました。実は、今日を目指して一生懸命原稿を作り、また資料を読み込んで来たんですね。そしたら私をよく知っているある方が、「理事長!理事長には教学的な深い講義は誰も期待していません。理事長らしくやって下さい。」一瞬どういう意味かと思いましたけれども、まぁ色自分自身が学んだ、その内容を率直に皆さんに伝えさせて頂く事が大事だと思いましたので、まとまりがないかも知れませんが、率直に語らせて頂きたいと思います。
今回は、池田先生の『勝利の教典「御書」に学ぶ』の講義を基本に、仏法が説く、幸福論、師弟論を「崇峻天皇御書」の主な御文を中心に、学んでいきたいと思います。
「崇峻天皇御書」は、皆さんも、よくご存じの有名な御文「蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり」という御文を始め、御金言がちりばめられている至極の御文であり、御書である。こう言っても過言ではないかと思います。
今、私が申し上げた御書の御文。もうこれは皆さん、何回、何十回、何百回と、聞かれてきた御文だと思います。ただ、どうでしょう?此の御文について、本当に深くご自分が、思索をされたっていう経験がね、皆さん、おありかどうか。ただ何となく「心の財」が大事だ、というふうには思っているんだけれども、じゃあ「心の財」って何なんですか?とこう聞かれたときにね、一言でスパッと答えが出てくる人って案外少ないんですよ。
例えば、我々が信心をして功徳を頂いたっていう場合ね、皆さん。この蔵と、身と、心のうち何を思い浮かべています?
今日は本音で語り合いましょう(笑)ここでね「はい心です。」なんてね。心にもない事いったりして(笑)
たいがいね。給料が上がったとか。家が建ったとか。病気直ったとか。会社でこういう立場になったとかね。どちらからというと、蔵と身の方を向いている訳ですね。大聖人は「心が第一、心の財が第一だ」と言われているのに、私たちは、一生懸命、蔵と身に向かって信心をしている。確かに蔵や身の財っていうのは解りやすいし、手応えもありますよね。
ある同志の方が、言っていました。
「明日の福運よりも、今日の現金です」(笑)
「どうしても私達は、そうなっちゃいますよね。」て言ってました。
しかし大聖人は、この御文の後に「此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給うべし。」こう仰っていますよね。
最高の宝、最高の幸福とは「心の財」だとこう言われている。ところが、その「心の財」が一体何を意味するのか解らないで信心をしている。というのは、これはある意味で「一生懸命、私は歩いていますけれどもどこへ向かって歩いているんですか」そういう状態になってしまいます。その意味で、これから私が様々なお話しをさせて頂きますが、皆さんに一つ、お願いがあります。
今から私が、皆さんに一つの質問をします。心の中で答えて下さい。実際、手を挙げたりしなくいいですよ。その問題意識を持ってね。これからの話を聞いて頂きたいです。難しい質問じゃありません。それは「あなたは今、幸せですか?」こう私が聞いた時に、さあ皆さん、心の中でね「はい私、幸せですよ!」と自身を持って手を挙げられる自分なのか「私が、幸せな訳ないでしょ。病気もあるし、経済的にも大変だし、家族の事や、子供の事で悩んでます。こんな私が幸せな訳ないでしょ」と思う自分自身なのか。どちらでしょうか?
私たちは日々、勤行唱題を実践して、学会活動に励んでいます。それは何のためなのか?とこう問われれば、誰しも幸せになるため、っていうふうに答えます。では、あなたの言う幸せとは一体どういう状態、どういう境涯になることですか?と聞かれるとね、その途端に答えはまちまちになってくるんですね。もしこの幸福、幸せという信心の目指す根本目標を間違って捉えてしまえば、とんでもない方向に行ってしまう事になります。その意味で、この「崇峻天皇御書」は、大聖人様がその点に関して、我々に深い示唆を与えて下さるものであり、今回はその幸福論という観点から学んでいきたいと思います。
「崇峻天皇御書」別名「三種財宝御書」は、建治3年(1277年)9月に著されたお手紙です。本抄を頂く3年前に、四条金吾は主君の江間氏を折伏を致しました。それをきっかけとして、主君の江間氏が金吾を遠ざけるようになってしまうわけです。以来、同僚達から讒言(ざんげん)や、また悪口などが相次いで最後は命まで狙われる。そのような状況におかれました。そして領地替えの内命が下る等、家臣としては大変不遇な状況が続きましたけれども、金吾は師匠である大聖人の細やかな指導を守って、粘り強く信心を貫いて参りました。ところが建治3年(1277年)6月、桑ヶ谷で行われた法論の場で、それを金吾が妨害したという全く事実無根の冤罪によって所領を没収される。そういう危機に至ります。主君から「法華経を捨てよ。さもないと所領を没収する」と、せまられました。しかし金吾は迷うことなく信心を選び取りました。大聖人から、あの有名な「一生はゆめの上明日をごせず
いかなる乞食にはなるとも法華経にきずをつけ給うべからず」とのご指導を頂きます。四条金吾の偉さは常に師匠、日蓮大聖人を求め師匠の教えのままに、まっすぐに進んだという点にありました。師弟不二の心で戦った故に四条金吾は大勝利をしたわけです。以上の背景を踏まえて御文を学んで参りたいと思います。
「返す返す今に忘れぬ事は 頚切れんとせし時 殿はともして馬の口に付きて なき かなしみ給いしをば いかなる世にか忘れなん、設い殿の罪ふかくして地獄に入り給はば 日蓮をいかに仏になれと釈迦仏こしらへさせ給うとも 用ひまいらせ候べからず同じく地獄なるべし、日蓮と殿と共に地獄に入るならば釈迦仏法華経も地獄にこそをはしまさずらめ」
(通解)
「何といっても、今でも忘れられないことは、私が頸を切られようとした時、あなたが、お供をして下さり、馬の口に、とり付いて、泣き悲しまれたことです。このことは、どのような世になっても、忘れることは出来ません。もし、あなたの罪が深くて、地獄に入ってしまわれるようなことがあれば、この日蓮に対して、釈迦仏が「仏に成りなさい。」と、どれほど導こうとされようとも、私は、したがう事はありません。あなたと同じく地獄へ入るでしょう。日蓮とあなたが、共に地獄に入るならば、釈迦仏も法華経も地獄にこそおられるに違いありません」
この御文では、師弟の原点が確認をされています。それは竜口の法難で、大聖人が処刑の場へ連行される際に、金吾が馬のくつわに取り付いて、殉教の覚悟で命懸けで大聖人を御守りしようとした出来事です。本当に師匠は、ありがたいものだなと感じます。あなたが地獄に行くならば私も行こう、と言われる大聖人のお心は深く私達の胸にせまってきます。此の御文には「地獄即寂光」の原理が述べられています。大聖人と金吾が共に地獄にあるならば、法華経、釈迦仏も地獄にある事は間違いない。というのは、どんな厳しい環境にあっても師弟の信心に立てば、そこを寂光の世界に変えていけるという大確信です。
・正しい信心とは?
ここで私は、本年が宗門問題が起きて、20年目という節目でもあり、宗門問題の視点から師弟について考えてみたいと思います。振り返って見れば、宗門問題が私達に提示した問題とは何であったのか?それは究極的には正しい信心とは何か。と言う点であったと思います。ある意味で学会の信心と、日顕宗の信心と、どこが違うのか?拝んでいる御本尊も同じです。唱えている勤行唱題も同じ。読んでいる御書も同じです。じゃどこが一体違うのか。私はこのように考えます。大聖人は御書の中で、ただ漫然と御本尊を拝み唱題をしていて、功徳があるとは決して仰ってはおられません。例えば、有名な御書の一節に「叶ひ叶はぬは御信心により候べし全く日蓮がとがにあらず」P1262
もう少し抱きかかえて頂けませんかと思うような(笑)そういう御書もありますね。祈る側の一念で決まる。と大聖人が明確に仰っています。そして「かかる日蓮を用いぬるとも
あしくうやまはば国亡ぶべし」P919こう仰っています。例え、日蓮大聖人を用いたとしても、敬い方が間違っていれば国は滅ぶであろう。つまり大聖人を尊敬する格好を見せていても大聖人のお心に背いていれば国は滅ぶ、と言われている訳です。御本尊は正しく拝してこそ功徳がある。題目も正しく唱えてこそ功徳がある訳です。御書も同じで、間違って御書を読んでいたんでは、御書を拝した事にはならないですね。正しく拝してこそ、初めて御書を読んだと言えるわけです。そこまで皆さんよろしいですよね。
師弟を求める意味
でも、ここで一つ問題が起きてきます。皆さんご自分一人で御書を読んで全部解るっていう方います?そう言う方がいたら今すぐ私と変わって頂きたい(笑)私達は意味を理解する前に字が分からない。この字何て読むんだって言ってる私達に御書が一人で正しく解釈する事ができません。じゃぁどうすれば正しく御書をはいし、読む事が出来るのか。その方法はたった一つなんです。何にも難しい事はありません。自分一人で御書を正しく解釈できないのだから、正しく解釈出来る人に教えてもらうしかありませんよね。ここに師匠のありがたさがある。そう思います。もちろん当然ながら、師匠は誰でも良いというわけではありません。一体誰が御書を実践し語れる人なのか。誰が真に師匠と呼ぶにふさわしい人なのか。またそれをいかなる基準で、この人は正しい人だと判断するのか。ここが大事ですよね。日顕のような師匠に値しないような、そんな人間を信じたら、これ程愚かな事はありません。で、この点に関して大聖人は御書の各所で正しい法華経の行者とは、どういう人なのかという事についてその基準を明確に述べられております。それを端的に述べられた御文の開目抄に「日蓮が法華経の智解は天台、伝教には千万が一にもおよぶ事はなけれども、難をしのび慈悲の優れたるはおそれをも抱くであろう」
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では、誰が本当に正しく御書を読んでいるのか。何をもって正しく読んでいるといえるのか。それは御書の通り現実に難にあい、広宣流布を進めた人こそ御書を正しく読んだ人であり、師匠に値する人であると断言できます。
つまり創価学会の三代の会長、なかんずく池田先生以外には断じていないと思いますが、皆さんいかがでしょうか。
池田先生が御書をどのように拝し実践をされているか。それを学ばずして正しい仏法の実践はありません。だから学会は師弟を大事にします。いや仏法を正しく実践する要諦は正しい師匠の元で、師弟の道を歩む以外にない。こう申し上げたいと思います。結論として学会の信心と日顕宗の信心との違いとは何なのか。それは学会には三代の会長という正しい師匠がいらっしゃる。日顕宗には、その師匠がいない。こう訴えたいと思います。勝利の教典「御書」に学ぶの講義で、池田先生は次のように述べておられます。「勝利への要諦は、どこまでも法を体現し弘通する師匠の心と我が心を合致させる事です。師匠の指導ををないがしろにして、揺れ動く自分の心を基準にすれば、険しい仏道修行を成就する事は出来ないからです。『心の師とはなるとも心を師とせざれ』(兄弟抄1088)です。師弟の心を忘れてしまえば、我が一生成仏はありません。」とこう述べられています。池田先生こそ大聖人に連なる法を体現し、弘通する師匠です。この偉大な師匠と共に戦える。これ程の幸せはありません。私どもは、どこまでも池田先生の弟子である誇りを胸に進んで参りたいと思います。それでは次の御文にいきます。
人生の価値
「人身は受けがたし爪の上の土 人身は持ちがたし草の上の露、百二十まで持ちて名をくたして死せんよりは生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ」
(通解)
「人間として生を受けることは希であり、爪の上にのった土のように、極、少ない。人間として命を持ち続ける事は難しく、草の上の露のようにはかない。百二十まで生きて、名を汚して死ぬよりは生きて一日でも名をあげる事こそ大切です」
池田先生は、やはり講義の中で次のように述べられています。
「『百二十まで生きて名を汚して死ぬよりは、生きて一日でも名をあげる事が大切である』との仰せは人生の価値は、何によって決まるのかを、教えられています。人生の目的を何に定め、それに向かってどのように前進したのか。そこから人間として生きる価値が生まれます。」人生の価値、と先生が言われている事は人生における幸福と言ってもいいと思います。もちろん一日でも長寿である事は大事な事です。しかし、もっと重要な事は、人生の目的を何に定めて、それに向かってどのように前進したのか。この生きた内容、価値だと、こう言われている訳です
。この人生の目的こそ私は「心の財」に生きる人生だと思います。
内勲外護
いよいよ、その御文を拝していきたい思いますが、その前に「心の財」真の幸福を考えるうえで、仏法の大事な法理である「内薫外護」について、ふれさせて頂きます。今回の御文の範囲ではありませんが同じ「崇峻天皇御書」で次のように述べられています。
「仏法の中に内薫外護と申す大なる大事ありて宗論にて候、法華経には「我深く汝等を敬う」涅槃経には「一切衆生悉く仏性有り」馬鳴菩薩の起信論には「真如の法常に薫習するを以ての故に妄心即滅して法身顕現す」弥勒菩薩の瑜伽論には見えたり、かくれたる事のあらはれたる徳となり候なり」(1170)
(通解)
「仏法の中に内薫外護という。大変に大事な法門があって、それは仏法の要です。法華経には「私は深く、あなた方を敬います」涅槃経には「ありとあらゆる人々には悉く仏性が有る」馬鳴菩薩の起信論には「真如の法が常に薫習する故に、妄心が即ち滅して法身が顕現するのである」と説かれ、弥勒菩薩の瑜伽論にも説かれております。目に見えない徳が、はっきりとあらわれた徳となるのです。」
大聖人は四条金吾が護られたのは、仏法の内薫外護の原理による、と言われています。ここで引用されている法華経、涅槃経、大乗起信論の文は全て一切衆生に仏性があるという事を、それぞれの観点から述べた一節です。この点について先生は講義で次のように述べております。
「すなわち、あらゆる人々が、仏の性分をそなえているが故に、一念を定めて祈る事で、仏の生命が、呼び呼ばれて現れる。自身が仏界を薫発しているからこそ外に守護が現れるのであり、全ては自身の一念によって決まるのです。」とこう述べておられます。重要な事は何よりも先ず、自分自身の中にある仏性が薫発される事によって、初めて「外護」外からの護りがあるという事です。自分が変わるという「内薫」がなくして「外護」だけをいくら求めても、その外からの護りというのは無いんだ。よく私達は、あらゆる環境も含めて一切が自分自身の宿命だと。こう捉えて、自分が変わる以外にないんだっていうふうに指導を受けます。また指導、そういう事を同志に語ります。それは正に、この内薫外護の原理に基づいている訳です。まさに内薫外護の内薫こそ「心の財」の基本と根本となります。講義で池田先生は「日蓮大聖人は、本抄の後半で「心の財第一」と教えられています。真の人生の勝利のためには、妙法への信心による仏性の内薫こそが最高の財宝である。この事を絶対に見失ってはならない。という重大なご指導と拝されます。そして、此の御書の「かくれたる事のあらはれたる徳となり候なり」とは我が生命に薫発された仏性、すなわち仏の生命は必ず人の振る舞いとなって現れる。」とこう仰せです。この点については大変に重要ですので、後ほどふれさせて頂きます。
心の財を求める
それでは、いよいよ「心の財」についての御文を拝したいと思います。
「蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり、此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給うべし」
(通解)
「蔵の財よりも身の財がすぐれている。身の財よりも心の財が第一である。此の手紙を御覧になってからは、心の財をつんでいきなさい。」
先ほどから、私は「心の財」とは言い換えれば真の幸福だと、こう申し上げてきました。私が幸福について、考えるようになったのは、実はきっかけがありまして。本部職員にして頂いた直後にですね、ある先輩から、大事な指導を沢山して頂きましてね。その先輩が最後の方に、「もう一つ、おまえに大事な事を言っておくよ。いいか心して聞けよ。」こう言うですね。そこまで言うんだから、よっぽど大事な事言うと思うじゃないですか。言った一言がね、
今世は、カネには縁がないと思え(笑)さんざん期待させといて、言ったことがそれか?と思って驚きました。でもね、その時聞いた瞬間はね、当たり前じゃないかと。宗教革命に生きる職員として当然の事だ。それ位にしか聞いていなかったですよ。でもこれ皆さん、ご自分が同じ経験したらよく分かると思うんです。人から面と向かって「あんた今世カネには縁がないんだよ。」
なんて言われると妙に心に残るんですよ(笑)
実はね、学会活動を終えて夜道を歩いて家に帰ってくる。ふと、こう思い出すですよね。今世はカネには縁がない。思わず口ずさんでね。急に足取りが重くなっていく(笑)だけどね。宗教革命に生きるんだ、という思いで自分を鼓舞していたわけなんですね。しかしその後、学会の会合に出て、同志の信仰体験を聞くじゃないですか。で多くの体験がね、皆さんもご存じのとおり、貧乏だった我が家が、この信心のおかげで、今や、何不自由ない境涯にして頂きました。という体験、沢山ありますよね。私ね、いくつかそういう体験を聞くにつれて、一つの疑問が芽生えてきた。解りますよね?
どんなに祈ろうと、戦おうと、そうなれないと約束された私の人生(笑)このまま戦い続けて、墓場で休むしかないんだ。そういうホントに気持ちになってきましてね。こんな中途半端なモヤモヤした気分では駄目だと。じゃ自分自身にとっての幸せって何なんだ?仏法が説く真の幸福とは何なんだ?という、そういうことを自分に問いかけだした。ていうのが実は問題意識を持ったきっかけだったんですね。その後、私にとってこの「三種財宝御書」の「蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり」ていう御文は、きっと大聖人は、此の御文でね、真の幸福とは何か?と言う事を私達に教えて下さっている。ある意味で「心の財」という事についても同時に私は考え続けました。で、ここまではきてたんです。「心の財」っていうのは、これは真実の幸福である。とさっきから申し上げています。仏法では幸せになるっていう事を言い方を変えれば成仏する。仏の境涯と成る。こう説いている訳ですから、つまり幸せとは何か?つまり仏の境涯とは何なのか。それはそのまま「心の財」だ。こういう段階までは、きてたんですよね。
ただし、まだ仏とは「心の財」とは、ていうイメージが曖昧なまま、ずっとおりました。で忘れもしない、その私自身の疑問に、大きな光を先生から与えて頂いたのが、今から十六年前、東京牧口記念会館が開館した直後にですね。春期彼岸勤行大法要また東北栄光総会という会合が行われました。そこにおける先生のご指導が、私自身の信仰感を180度転換して頂く、そういう体験をさせて頂きました。先生は、スピーチの初めの方で、
「仏とは何か?釈尊は何故、仏になれたのか?その事について話をする」こう言われました。もう皆さん、おわかりですよね?その事を考え続けてきた私にとっては、いよいよ先生がその事を正面から語って下さる。もう万感の思いで聞きました。で実は三つ、先生は大事な視点を、その時私達に教えて下さいました。
第一番目は、
御書の「いきてをはしき時は生の仏今は死の仏 生死ともに仏なり」(1504)
此の御文を引かれて、こう言われました。「日蓮大聖人の仏法では、死んで仏に成るのではない。これが最も大事な点である。生きているうちに仏に成る。その一生成仏のための信心なのである。死後の幸福を強調する念仏などとは根本的に違う。」こう言われたんです。此の御文を皆さん、よくご存じですよね。
「いきてをはしき時は生の仏」で、今私が先生のご指導をこうやってお伝えしている間も皆さん頷いて聞いておられる。あぁその御書は何度も聞いたな。生きている間に仏に成る宗教、その通りだ。こう思って聞かれたでしょう。
私ね、その時、聞いた瞬間に自分に問いかけたんです。生きている間に仏に成る、俺は本当に信じているだろうか?って、こう自分に問いかけたんです。今日ね皆さんに同じ問いをはっしてみたいと。生きている間に仏に成る。本当に信じています?
今日は本音で語り合いましょう(笑)きれい事ではなくね。
じゃぁね、ここで一つ質問をさせて下さい。これはね手をあげて下さい。簡単な質問です。
「私は仏だ!という方」笑
遠慮無く。回りの評価はどうでもいいです。他人の評価、気にしていけません。(笑)あれ?いらっしゃらない。今、全国各地の会場でも、何人かの人が、きっと手を挙げておられる。皆さん遠慮深いのかも知れません。各会場で、こうやって質問すると、何人かの人が、手を挙げるんですね。横の人がね、ビックリした顔で見てるんです。だけどね皆さん。生きているうちに仏に成る宗教を信じて、何十年もやってきた訳でしょう。何でこの誰一人、仏になってないんです?(笑)
じゃぁね。質問変えます。
「私は凡夫ですよ。ただし私の地区にね、確か仏が3人いましたよ。あの地区幹事と、白ゆり長は仏ですよ。」
なんて思って見てます?やっぱり見てないよね。だって生きている間に仏に成る宗教だと、大聖人が仰っている訳でしょう?それを信じて何十年もやってきて、いまだに自分もなってなけりゃ、回りにもいない。これは一体どういう事でしょう(笑)
私はね、こう思うんですよ。それはね仏に成る、っていう事を勘違いしているじゃないかって。言い方を変えれば、幸せに成るっていう事を勘違いしているってことですよ。それがね仏の境涯とか真の幸福とかっていう事を、勘違いしちゃっているから、自分もなったとも思っていないし、回りにいるとも思っていない。
こう私は思うんです。
次の池田先生の言葉をね。この仏、幸せっていう私の考え方それまで漠然と抱いていたイメージ。おそらく皆さんも、同じだと思いますが、それをね根底から変えて頂きました。簡潔な言葉なんですが、こう先生は二番目に仰った。
「仏となっても悩みもあれば、苦しみもある。病気もする。魔の誘惑がある事にも、かわりはなかった。」
先生は、こう仰ったんですよ。この言葉は鮮烈でした。通常、私達は逆の事をイメージしていませんか。仏と成れば、悩みもなければ、苦しみもない。病気もしないで健康で、魔の誘惑に粉動される事はない。そういう境涯が仏の境涯だと。私達は考えがちです。でも決して先生は「そうではない。仏となっても、悩みもあれば苦しみもある。病気もする。魔の誘惑がある事にも、かわりはなかった。」こう仰ってるわけですよね。仏法が決して悩みや苦しみや困難がないことを幸せ、などとは言っていません。池田先生が、ハービー・ハンコックさんとウェイン・ショーターさんの、あの対談でこういう風に言われています。
「仏法は「煩悩即菩提」「生死即涅槃」です。悩みや苦しみがあるからこそ、成長できる。偉大な境涯を開ける。「苦楽ともに思い合せて」題目を唱え「歓喜の中の大歓喜」の人生を歩んでいけるのです。」と、こう仰っています。悩みや試練があるからこそ、人間革命、宿命転換、境涯革命が出来る。御書にも「病ある人、仏になるべきよし
とかれて候」(1480)とあります。むしろ病と戦う人こそ、より信心を深め、仏の境涯となる。と仰せです。何の悩みもない、苦労もない人生が、幸せなどではありません。もちろん信仰の深まりと共に、悩みの質は変わってきます。しかし悩みが無くなる事が、幸せであるとは、決して言っていないわけです。戸田先生が、やはり同じ趣旨の事を言われていました。
「信心も、平坦な道ばかりを、ゆっくりと歩いていては、何も変わらないよ。大きな苦難があるから、大きな宿命転換が出来る。人間革命が出来るのではないか。」こう戸田先生が仰っています。そして最後、3番目に先生はこう言われます。
「仏といっても、特別な存在ではない。戦い続ける心が仏。行動し続ける姿が仏である。魔と戦いきる人が仏なのである。そして総じては、仏道修行に励み、広宣流布へ真正面から戦っていく、その人の信心にこそ仏は現れてくる」
このご指導が、私の信仰感、幸福感を根本から変えて頂いたご指導です。皆さんは今、私がお伝えした、この先生のご指導をどのように受け止めるでしょうか?
戦い続け、行動し続け、魔と戦い切る人が、仏だと言われる。「仏道修行に励み、広宣流布へ真正面から戦っていく、その人の信心にこそ仏は現れてくる。」この言葉を伺った瞬間の感動は、今でも鮮明に覚えています。
背中に電流が走る。ていう表現があるでしょ。まさにね、あれでした。本当に体が震えるような感動と、そして実を言うと涙がぽろぽろあふれてきた。そういう、感動を本当に味わいました。私は先生の言葉を、こう受け止めました。それまでは一生懸命勤行唱題し、学会活動に励んでいれば、そのうちいつかきっと幸せがやってくる。そう思っていた。もちろん、そう言う側面はある事は否定しないけれども、もっと深い本質があったんだ。それは「広宣流布へ真正面から戦いきっていく、その人の信心に仏が現れる。」これは、学会活動している瞬間こそが、最高の幸せではないか。こう先生は仰ったんだと。私はそう受け止めました。究極的には広宣流布という、人間として最高の目的、価値に生きている。人間として最も尊い行動をしている。つまり、学会活動をしているその瞬間こそ、最高に幸せな瞬間である。とこう仰ったんだ。と受け止めました。今まで、学会活動は、幸せになるための手段であるかのような、そう言う捉え方をしていました。しかし先生のこの指導は、そうではない。学会活動こそが最高の喜びであり、最高の幸せだ。とこう言われているのだと。こう感じました。そして実は、その瞬間、同時に考え続けてきた「心の財」の意味が、私の中で明確になりました。それは学会活動こそが、最高の喜びであり、最高の幸福だと、心の底から、思える人、その人こそ「心の財」を持った人なのだ、と。まさに、その人こそ仏の境涯の人なのだ。とこう思いました。ある意味で、いつか幸せに。という考え方というのは、蔵や身の財を、目的と捉えるから、起きてくる考え方です。「心の財」に生きるその人は、どんな悩みや試練をも、成長の因に出来ます。つまり宿命を使命に変える人であり、広布に戦う今この時こそ、最高の幸せだと、確信して生きる人です。いつか幸せになるんじゃない。悩みもある。病気とも闘っている。仕事、家族の事など、悩みは尽きない。しかし広布のお役に立つため、信心の実証を示すために、断じて負けない。この決意で戦っている。その瞬間こそが、もっとも充実した幸せな瞬間である。こう捉えれば、今が最高に幸福な瞬間です。
池田先生が、南米チリの一般紙に寄稿された「幸福とは何か」との随筆の中で、次のように記されております。
「幸せとは、過去にあるのでも、未来にあるのでもなく、日々の課題に、まっしぐらに挑戦する、現在の境涯の中にある。」という言葉です。皆さんに私は先ほど「今、あなたは幸せですか?」ってこう質問しました。その時にね「いいえ私なんか幸せじゃありません。」って思った方は、大変な事になりました(笑)幸せとは、未来にあるのでもなく、過去にあるのでもなく、今もない。(笑)どこにもない(笑)そうじゃないんですね。先生は「幸せっていうのは、今、此の瞬間にしかないんだよ。今この瞬間を充実して生きる事が、最高の幸せなんだよ。」こう、私は仰っているのだ思います。それは何度も繰り返しますが、決して、悩みや苦労が無くなる事ではない。
生きている限り、悩みがあり、試練があり、病気もします。しかし、どんな悩みや試練や病魔との戦いも、信心を根本に、断じて乗り越えてみせる。と戦い続けるその今が、まさに宿命転換の時であり、人間革命の時であり、境涯革命の時なんです。だから悩みもあるし、私は色んな試練にも出会うし、病気とも闘っています。でも負けませんよ。だから私は幸せです。とこう言える私達でありたいと思いますが、皆さんにいかがでございましょうか。
で、ここまでお話をしてきますと中に、「なんか、理事長の話を聞いていると、蔵の財や、身の財、もらっちゃいけないのか」こういう風に思った方がいらっしゃるといけませんので、注意事項を申し上げます。私は、蔵や身の財をもらってはいけない。そんなものは意味がない。と申し上げているんじゃありません。それを目的にしてはならない。こう申し上げている訳です。目的はあくまでも「心の財」を積み事が第一であって、蔵や身の財に執着して「心の財」を失うと一切が水泡に帰する、という事を申し上げた訳です。
池田先生が講義の中で、こう仰っています。
「心の財を根本とした時に、実は蔵の財も、身の財もその真実の価値を正しく発揮することができるのです。一言で言えば「心の財」を築くという人生の根本目的が大事です。この根本目的を喪失してしまえば、例え、蔵の財や身の財を持っていようとも、それらへの執着が生ずる。それは、失う事への不安ともなり、かえって苦しみの因となる。あくまで大事なのは「心の財」を積み上げいく事です。ここに正しい人生の目的感があります」このように語られているとおりです。
で、ついでながらですね、もう一つ注意事項を申し上げさせて頂きます。ある草創期の先輩がね。私にこう言ってました。
「理事長、蔵の財や、身の財には、特徴があるんですよ。追いかけたら逃げます。しかし脇目もふらずに広宣流布の戦いをしていると、向こうから、もらってくれってやってきますよ。」
そういう特徴があるという事を、注意事項として申し上げさせて頂きます。
本当に味わい深い言葉だなと思います。
それでは今回の範囲ではありませんが、本日の結論として、大変重要な御文ですので、読んで頂きます。
「一代の肝心は法華経法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしはいかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ、穴賢穴賢、賢きを人と云いはかなきを畜といふ。」(1174)
(通解)
「釈尊一代の肝心は法華経であり、法華経の修行の肝心は不軽品です。不軽菩薩が人を敬ったことには、どのような意味があるのでしょうか。教主釈尊の出世の本懐は、人の振舞を示す事にあったのです。呉々もよくお聞きなさい。賢きを人といい。愚かを畜生というのです。」
此の御文は、これまで述べてきました幸福論、師弟論の結論を申し上げるのに、どうしても、ふれておかなければならない重要な御文として取り上げさせて頂きました。此の御文は、「崇峻天皇御書」の結論であると同時に、釈尊がこの娑婆世界に出現した根本の目的、仏の出世の本懐、仏法の結論といっても過言ではありません。一切衆生に仏性があり、成仏の可能性がある。これが釈尊の教えの要諦であり、それが説かれた法華経こそ、まさに釈尊一代の肝要です。そして、その万人成仏の思想は、不軽菩薩の実践に体現されている。という訳です。
不軽菩薩は、
「我れは深く汝等を敬い、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆な菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし(私は深くあなたたちを敬い、決して軽んじない。なぜかといえば、あなたたちは皆菩薩の道を行じて成仏することができるからである)」この有名な「二十四文字の法華経」を万人に向かって、発しながら、全ての人を礼拝し続けました。
誰人たりとも、生命の次元から見れば、仏に他ならない、との真理を深く信じ、理解し如何なる迫害にあおうとも万人の生命に内在する仏性を礼拝し続けました。これこそ法華経の精神を体現する姿に他なりません。
池田先生の講義に、こうあります。
「人を敬う振る舞いに徹していくことこそ、宿命転換、六根清浄という生命変革をもたらす力です。この法華弘通の振る舞いを生涯貫く事によって、成仏という根本の勝利を成就できるのです。それは万人に仏性ありとの、哲学を信解し抜く、信念の実践です。そして難を越えて、信念を貫く事により、我が身に、その哲学を体現し、成仏を勝ち取る、成仏の修行でもあります。」こう述べられております。皆さん、私達にとって万人の仏性を信じて人を敬う振る舞いとは、具体的に何を差すのか、如何なる行動を意味するのか、もうもはやお解りだと思います。まさに人を敬う振る舞いとは、日々の学会活動そのものです。万人成仏の法華経たる日蓮大聖人の仏法を語り、広宣流布しゆく戦いこそ、人を敬う振る舞いです。
改めて16年前に、牧口記念会館での仏とは何か。との先生のスピーチの際に、私自身が確信した、日々の学会活動こそ最高の幸福。と言う事が間違いではなかったと。改めてこの御書を学んで、確信をしております。「心の財」とは「内薫外護」の原理によって、自身に生命に内在する仏性、仏の生命を、勤行唱題によって呼びあらわし、我が生命全体に薫発すること。その薫発された仏の生命に「心の財」は必ず万人の仏性を敬う。つまり人を敬う振る舞いとなって現れる。むしろ人の振る舞いとなって現れない限り、いくら仏性が内薫しているといっても、誰も信じられません。人を敬う振る舞いと現れているときこそ、仏性が内薫しているといえる訳です。まさに万人成仏の根本たる日蓮大聖人の仏法を広宣流布しゆく、日々の学会活動をしている瞬間こそが、我が生命に仏性が内薫している、そういえる瞬間である。こう思います。先生は、やはり講義の中で「困った人を見たら放っておけない。心配な人を見たら励まさずにはいられない。苦しんでいる人を見たら抱きかかえずにはおられない。相手の可能性を信じ、善の関わりを深めていく。『人を敬う振る舞い』において、わが学会員こそ、その体現者、体得者です。それはとりもなおさず、仏菩薩の生命が薫習している証です。これに勝る功徳はありません。そこに幸福の薫風が限りなく広がります。学会員こそ、庶民の英雄なのです。偉大なる生命の王者なのです」こう述べられております。何度も繰り返し申し上げてきました。学会活動している瞬間こそ、まさに仏菩薩の生命が、薫習している瞬間であり、この瞬間こそ、これに勝る功徳はない、ありませんと最高に幸せな瞬間であると、言われています。「心の財」に生きる人とは、日々池田先生という正しい師匠と共に学会活動が出来る。それが私は一番幸せです。最高の喜びです。こう言える人ではないでしょうか。そして、そのように語る同志は、多宝会の皆さんを初めとして大勢いらっしゃいます。まさに、その方こそ仏である。と大聖人は仰っているのだと、こう確信を致します。で、これまでも私の話を聞かれて、皆さん、それも分かるけども、そんな境涯にはなかなかなれないよな。と、こう思われた方もいらっしゃるかも知れません。しかし、私は多くの学会の同志は、ご自身で気付かないまま、すでにそういう境涯になっておられると、こう思っています。若い日から、学会の会合で耳にする同志の体験。先ほど、ご紹介した貧乏だった我が家が、この信心のおかげで仕事も成功し、今や何不自由ない境涯となりました。家も建て拠点に使って頂いています。という体験、よく聞いていますよね。このような体験で大きい家が建って、楽に暮らせて楽しいです。なんて体験発表している人は誰もいません。そんな体験だったら、勝手に生きてろ!と(笑)
そんな体験は一つもありません。その多くが広宣流布の拠点に使って頂ける我が家を建てる事が出来ました。こう喜んでおられます。家を建てる事が、目的なのではない。広宣流布のお役に立つ、拠点をつくる。そのための手段として、家を建てる。むしろ家が立った事より、拠点が出来たっていう事を喜んでいらっしゃる。
創価学会では不思議な傾向があるんです。自分の家が建った方が住みにくくなるという(笑)毎日同志が、自由に出入りして、ご主人なんか自分の家に入るのに、すいませんなんて言う。笑
私は日頃、会場や拠点を提供して下さっている同志の皆様のご苦労に対して、心から感謝と御礼を申し上げたいと思います。使わせて頂いている私達は、心からの感謝の気持ちを持ち、大切に使わせて頂きたいと思います。そうした皆様の信心は拠点を提供する、広布のお役に立つという「心の財」こそが目的であり、家を建てる事、つまり蔵の財は、そのための手段なんです。このような境涯に生きておられる同志こそ、尊極の仏子である。私はそう思います。ここで2008年5月16日付けの「名字の言」をご紹介したいと思います。それは幸福とは何か。幸福感の転換について述べたものです。その「名字の言」でこう言っています。
「仏法の説く幸福観は、財産や地位を獲得したり、目的地にたどり着くといった固定的な発想ではない。困難に挑み乗り越える。励ましてくれた友に感謝する。そして人格を磨き、やがては友を励ませる自分へと、たくましく成長していく。そうした人生の王道を、笑顔で堂々と歩む“連続性”の中にこそ幸せはある」
こう「名字の言」に書いておりました。私はこの中の「人生の王道を、笑顔で堂々と歩む“連続性”の中にこそ幸せはある。」という言葉に、大変に感銘を受けました。更に池田先生がスピーチで引用されていた、幸福という事に関する、ゲーテと、トルストイの箴言を紹介をさせて頂きます。ゲーテの言葉は
「いつかは終局に達するというよう歩き方では不十分だ。その一歩一歩が終局であり、一歩としての価値がなくてはならない。」というものです。私はこう読み替えたいと思います。「いつか幸せになろうという生き方では不十分だ。今の一歩一歩が幸せであり、一歩としての幸せがなくてはならない」
次は、トルストイの言葉です。
「努力は幸福を手に入れる手段ではなく、努力そのものが幸福を与えてくれるのだ」というものです。こう読み替えたいと思います。
「学会活動は幸福を手に入れる手段ではなく、学会活動そのものが幸福を与えてくれるのだ。」
今、この瞬間にも病魔と闘っておられる同志がいらっしゃいます。経済苦と挌闘しておられる同志もいらっしゃる。仕事の事、家族の事で、悩んでおられる同志もいらっしゃいます。しかし、悩みがあるから不幸なのではありません。それに負けるから不幸なのです。でも勤行唱題によって、自らの仏性「心の財」を呼び出す。広宣流布のため、池田先生にお応えするために、断じて勝つのだと戦い抜いて下さい。そして日々の学会活動に励む、その人には必ず「内薫外護」の原理で、諸天善神は絶対に護ります。最後に、結論として申し上げます。
「希有の師匠である池田先生と共に、広宣流布という大目的に向かい、日々学会活動に励む、それ自体が『心の財』に生きる人生であり、最高の幸福である」
そう申し上げて本日の講義を終わります。皆さんご静聴、本当にありがとうございました。