願いが叶うためには??

指導の要点

自己の宿命を正しく見つめ、自身の変革が、全てを解決するカギであることを一念においた祈りが大事である。

今まで海外をあちこち回りましたが、どこの国へ行っても人は、みんな幸せになりたいと願っている。この願いは万国共通です。ところが、その幸せを獲得する仏法のことになると、言葉がわからないとか、難しいとか、教学の本がないからと言う人も多い。

その人にはこういうのです。私は日本語しかわかりません。砂糖の事をドイツ語や、フランス語で、何と言うのかわからない。知らないけれども、どこの国の砂糖も甘いという事はわかった(笑)

名前(言葉)が分かったから甘かったというのではない。名前(言葉)が分かろうが分かるまいが、どこの国の砂糖も甘いのです。それと同じように、言葉はわからなくても、御本尊に功徳があると言う事は、万国共通なのです。


ある国へ指導で行った時のことです。ヘソクリを夫に見つけられたことから、大喧嘩をしている夫婦に会いました。これまであまり信心していなかった非常に気の強い婦人で、そのために1年間も夫と口をきかない。洗濯もしない、食事も作らないと徹底している(笑)

そして、その婦人が〝何とか夫と別れたい〟の一念で百万遍のお題目をあげて願いをかけたと言うのです(笑)

その百万遍のお題目を唱えきった翌日、私と会ったわけですが「願いとして叶わざるは無し、と聞いていましたがサッパリ叶わないのはどういうわけですか?」と質問してきたわけです(笑)

その時、私は人が幸せになる願いは叶うが、不幸になる願いは叶わない。なんでもかんでも願いが叶ったら大変なことになる。

逆に私は聞きました。

「主人と別れるように百万遍あげたと言いますが、主人が信心できるようにと、何遍題目をあげたんですか?」と。

ところが、別れるように百万遍あげても主人が信心するようには一遍もあげていなかったというのです。

主人が悪いから苦労するのか?そうではない。主人で苦労する宿業があるから苦しむのです。主人が悪い事は分かっていても、自分が良い妻ではなかったことにはなかなか気付かない。


日蓮大聖人御在世当時の池上兄弟も同じです。信心に反対する父は確かに悪い父かもしれない。だが、なぜ反対されなければならないかと言えば、実は善知識なのです。主人が悪い、親が悪いということがわかっても、自分の過去世の謗法の罪が、まだまだ大きいという事は分からないから、自分の懺悔もしないで相手ばかり恨んでいるのです。こういうことをコンコンと話して『今までのことをすっかりお詫びして、御本尊様にご主人がしっかり信心できるように祈念しなさい』と指導しました。 

あくる日、私が飛行場へ行きましたら、その婦人が車で駆けつけてきた。

『昨夜は大変にありがとうございました。家に帰って御本尊様の前に座って唱題したところ涙がとめどなく出てきました』と言うのです。そこで私は『今まであなたは主人から見れば悪い妻、子供には悪い母だった。しっかり信じすれば、良い母、いい妻、広布にプラスになる人材となるのです。帰ったら、子供さんにも謝りなさい』と話しました。ところが、その婦人は『子供にも謝るんですか?』と困り果てたように3回も聞いてきた(笑)

いくら親だって子供の足を踏んだらごめんなさいと言うのは親でしょう。「この子は私が産んだのだから謝る必要はない』と言うわけにはいかない(笑)と言うと「子供には謝りにくいですね」と言っていた。

しかし、御本尊に題目を唱えでお詫びし、本当に悪い母であったことがわかれば、自然とごめんなさいと言う言葉でになって出てくるのです。その婦人曰く『必ず人間革命して報告出来るようになります』と。

その後、その婦人から手紙が来ました。飛行場から帰って、さっそく食事を用意しテーブルに置いたが主人は食べなかったとのこと。「ごめんなさい」と謝らないでただ作っておいたらしいのです。何も言わないでおいたのでは食べるわけがない(笑)

子供にもいまだ謝っていないが、指導の内容をそのまま話したところ、子供も180度変わったとのことです。手紙を読んで信心のやり直しをするんだと言う婦人のなみなみならぬ決意を実感しました。


この例からも分りますように、自己の宿命を正しく見つめ、自身の変革がすべての解決するカギであることを一念においた祈りが大事になってくるのです。


指導の泉 和泉覚 17p-21p 

聖教新聞社 1979年発行 


悩みの解決のためには??

指導の要点

諸々の問題で悩む自身の宿命を転換する以外にないと、信力、行力を奮い起こす所に解決がある。

例えば今、主人で悩んでいる、子供で悩んでいる、病気で悩んでいる、何か悩みがある。その悩みがなぜできたか、できた根本の因を直すのが信心です。なった結果だけ直そうとしても、いつまでたっても治らない。

御書に『病の起こりを知らざる人の病を治せば弥よ病は倍増すべし』P921 とあります。

どんな問題でも、出てきた結果があるからには、必ず原因があり、縁がある。因だけでは結果は生じない。縁だけでも結果は起きない。タネという因があって、水をかけるという縁がなければ芽は出ない。どんなに水をかけてもタネ(因)がなければ芽は出ない。悩みというものも、悩みという結果が出たのだから因と縁があるはずです。自分の因を忘れて相手の縁だけを責める人がいる。


いかに主人や子供が悪くとも、一体何が悪くさせたのかといえば、間違った宗教の影響です。そこで、なぜ夫婦となり親子となったかの問題です。なぜ、主人で悩まなくてはならないのか?子供で悩まなくてはならないのか?という宿命がわからない。だから仏法がわからない。


今世で悩まなくてはならないのは前世の因があるからだ。主人を悩ました、子供悩ませてきたという原因があるから、逆に悩ませられるという果を今感じている。そこに気がつかなくてはいけない。


戸田第二代会長の指導にもあった。

子供が小児マヒだ。だから親が苦労する。子供で苦労する宿命があるから、そこに小児マヒの子供がいるんです。辛いのは自分だもの。助けてほしいのは自分なんだ。子供で悩む宿命を転換する以外にないと信力、行力を奮い起こしていけば、その悩みは解決するのです。

ある婦人が指導を受けに来ました。主人がガンとだという。その婦人は、ご主人のガンが治ることをだけを一生懸命お願いしているがなかなか結果が出ないとのこと。


私はその婦人に言った。

ご主人はあまり信心していないんでしょう?信心していないご主人の病気を治してくれと願うのは、食事をしない人を満腹にしてくれというのと同じです。信心しなくてもご利益があるのなら、信心は誰かに頼んでおけば良い。誰も信心なんかしませんよ。ガンの病気を契機に、なんとか広布流布に役立つ主人にして欲しい、しっかり信心する主人にして欲しい!!という願いが本当の願いでしょう。


今までのお詫びをしっかりして、今からしっかり頑張っていく誓い、御祈念をしていくのが、本当の信心の姿です、と指導をしました。

その奥さんは家に帰って、信心の姿勢を心から反省して祈念しました。


ご主人の病状がだんだんよくなって、1ヵ月したら土曜、日曜日は外泊を許されるようになった。そして土曜、日曜日に家に帰ってくるというと、医者がびっくりするほど、目に見えて良くなっている。題目をあげていることを知らないからお医者さんは『家でどんな栄養をとってくるんですか?』と言われたとのこと(笑)

結局は自分自身の宿命転換に解決のポイントがあるのです。


指導の泉 和泉覚 22p-24p 

聖教新聞社 1979年発行 


相手を変えるためには??

指導の要点

全ての問題は、自分自身に悩まなければならない因があるのであって、周りは縁である。周りを変えるには自身を変えることが先決である。

指導を受けに来る人に、よくこういう人がいます。 

「主人が悪い」「姑が悪い」

「子供が悪い」 「幹部が悪い」

「あれが悪い、これが悪い」 

「悪くないのは自分だけ」と思っている(笑) 


私が悪いために苦しんでいる、といってくる人はひとりもいない。みんな、ほかが悪いということになっている。今日も自分は悪くない人ばっかりが集まっている(笑) 

どんな問題でも結果が生じるには、必ず因と縁があります。因としての種がある。それに縁という水を全然やらなければ育たない。また、いくら水をやっても種がなければ芽も出ない。 

 ここに水があります。沈殿物があれば、かき混ぜると水がにごる。かき混ぜるというのは縁。沈殿物はにごる因です。 

 夫婦喧嘩ばっかやって相手が悪いといっている人は 

「あんたがかき混ぜたからにごった」 

といってるのと同じですね。いくらかき回したって、沈殿物がなければにごらないんですよ。沈殿物があったことに気づかないで、人ばかりうらんでいる場合が多いのです。自分自身に因があって、それが縁によって生じているということに気づかない。 

 夫婦喧嘩をやっているのは、主人からいえば「家内が悪い」奥さんは「主人が悪い」という。「私が悪い」といって喧嘩している人は一人もいない。 

戸田第二代会長が市ケ谷の事務所で個人指導されていたとき、ある婦人が「うちの姑は、根性曲がりで、意地わるで、いくらいってもかなわない」と姑の悪口をいっぱい並べた。

戸田第二代会長は「若いあなただってなかなか自分の根性が直らないじゃないか。まして年とった姑さんの根性を直そうというあなたの根性がよくないよ」といわれた(笑) 

そしてコンコンと指導されて、その人が「本当にそうだ。おばあちゃんじゃない。私が悪かった」と気づいて家に帰ったところ、その姑さんも変わっていたそうです。ほかの問題も同じです。相手じゃない。子供じゃない。親じゃない。

自分自身の宿命の転換が信心なんです。

 

「主人が、主人が・・・・・・」「子供が、子供が・・・・・」

 といっている間は、いつまでたっても解決しない。 なぜ主人や子供で苦労しなければならないのか・・・。 それを考えなければならないのです。 

例えば、子供のことで悩む。それは自分自身が間違った宗教をやってきた害毒で子供で苦労する宿命を持ったことと、それに気づかず相手が悪いとうらんでいたことの現在の信心の姿勢に因がある。子供で苦労しなければならない自分の宿命を転換すれば子供が変わるのです。子供で苦労している人は、大抵、子供が悪い、子供が悪いという。私から見れば、子供より、その親のほうがよっぽど悪い(笑)  

大事なことは、自己の宿命を見つめて、その転換を祈っていくことです。 

御書のP.930を見てごらんなさい。 

「小罪なれども懺悔せざれば悪道をまぬがれず、大逆なれども懺悔すれば罪きへぬ」と。亜闍世王のような大逆罪のような人であっても、心の底から懺悔すれば罪が消えていく。しかし、懺悔がなければ、小さい罪さえも消えない。本当に自分の宿命を見つめて、過去、現在の謗法をおわびし、題目を唱え抜いていけば、転換できない罪業などないのです。 

身近な例でいうと、100万円払わなければならないのに、3万円、5万円で軽くすましてもらう。これが転重軽受です。借りたものは返さなければならない。自分が作った因は、自分が受けなければならない。しかし信心の功徳で思い罪業も、全部驚くほど軽く受けながら、最高に幸せな境涯になっていくのです。 


指導の泉 和泉覚 25p-28p 

聖教新聞社 1979年発行 



願いのかけ方は??

指導の要点

正しい願いは広布流布を願い、自己の幸福をも願う自他共の幸福を願っていくことである。

人間には、だれにも悩みがあります。みなさん方にも何かしら悩みがあると思います。それも、願いが叶わないところに悩みが生ずるんではないでしょうか。願いが叶った時に〝よかったな〟叶わなかった時に〝困ったな〟と感ずる。

ある人が「御本尊にお願いする時は、自分のことなんかお願いしてはダメよ。広布流布のことをお願いしなければダメよ。」と指導した。その人は私に「本当にそういうもんでしょうか?」と聞きに来たことがあります。

私は思うんですが、自分のことばかり願っている人には「自分のことばかりではなく、広布流布のことも願いましょう」と指導してあげることも大事なことです。ところが、広布流布のことを願っているのだから、そのうち自分の生活もよくなっていくだろう、と現実生活に対して安易に考えている人がいます。こういう人は、やがて「広布流布のことを願っているのに、生活はさっぱり良くならない」との疑問が出てくるものです。


戸田第二代会長は「釜の中にお米を入れて、水を入れて、いくら拝んでもご飯にならないよ」(笑)

とよく指導した事がありました。わかりやすく言えば、題目をあげなさいというのです。そうすればやがて〝やっぱりそうだ、火をつけなければならないんだ〟という知恵が出てくる。また、硬すぎた、柔らかすぎた、水加減、火加減という知恵が出てくるわけです。


結局、広布流布のことを真剣に願うことは大事なことですが、それによって、自己の生活が自然によくなるであろう、という安易な姿勢では、いつまでもよくならないということです。


したがって、広布流布のことを願うことも大事だし、それができるために自己の生活向上を願い、努力、工夫して前進を図ることも、これまた大事なことなのです。


要は、両方願っていくことが大事なのです。



信心したのに功徳がない

指導の要点

目に見えない小さな功徳(顕益)も大事だが、目に見えない大きな功徳(冥益)にこそ、めざめるべきである。

信心したのに功徳がないと言っている人を、私も見かけることがありますが、信心を真面目にやっておって、功徳が出ないという事は絶対にありません。
そういう人に対して、私は自分の浅はかな考えや目で、御本尊の力を判断しようとすべきではない、ということをまず申し上げておきたい。とにかく人間の目なんか、本当にあてにならないものですよ。笑
目はパッチリ開いていても、小さな功徳が見えるが、大きな功徳が見えないようにできているのだから。

例えば皆さん方は、自動車にはねられたけれども、怪我が軽く済んだと言う場合は御本尊様ありがとうございましたと感謝するでしょう。ところが、1日何もなく無事に帰宅すると今日は何もいいことがなかったと思う。(笑) これが凡夫の習いです。

また病気が治ったりすると〝功徳〟だと思う。
しかし五年、十年と病気しない場合は何とも思わない。そのことで御本尊に感謝することを忘れている人がいる。気がつかない人がいるのです。
つまり、我々は事故にあったり病気になってみなければ御本尊のありがたさがわからないという一面がある。しかし、ではどちらの功徳が大きいかといえば何もない方であることは言うまでもない。仏法では即座に見える小さな功徳のことを〝顕益〟、目に見えないのが大きな功徳のことを〝冥益〟と言っています。
すぐには目に見えない功徳とはどういうものか一つ例えをあげてみましょう。

私も幼少の頃は、これでも可愛い坊やでした。一晩寝て起きてみたら、いつも昨日と同じ目だった。そして毎日、昨日と同じ昨日と同じという状態を積み重ねて今日まで来てしまった。その間、一日として変わった日はなかったように思うけれど(頭を指して)今、厳然と変わっている(笑)
決してある朝、目が覚めてみたら頭髪が1本もなかった、というのではありません(笑)
冥益というものはこのように五年、十年、十五年と純粋に信心を持続していくことによって、知らずしらずのうちに考えてもみなかったような幸福境涯へと到達できるということです。

たとえ表面的には罰のような現象であっても、長い目で見れば大功徳であったということも少なくありません。本当の仏力、法力は絶対です。その力を引き出せるかどうかは、私たちの信力、行力によるのです。
どんなことがあっても御本尊様を疑わず、偉大な功力を確信して頑張るよう教えてあげてください。


大きな悩みを持った人に対する指導は

指導の要点

指導する側がまず「大悪をこれば大善来たる」の一説を、確信しきれるかどうかにある。

まず指導するあなた自身が「大悪をこれば大善きたる」御書P1300の妙法の方程式を確信し切ることです。どのようなことがあってもこの御書の一節を信じられるかどうか、それが問題なのです。
   あんまり大悪過ぎて、大善は来ないのではないかなどと疑うようでは、信じているとは言えない。御書には「ただし超大悪は、その限りにあらず」とは書いてありません(笑)

ですから、難問を抱えている地区員に対し、この御文を心から訴えることです。この御文を信じられるか信じられないか、そこにその人の岐路があるのです。信じられるならば大聖人の指導通り実践すればいいのです。どんなことがあっても、変毒為薬できないというような問題はありえない。事業に敗れても信心さえあれば必ず再び立ち上がれる。ところが事業に敗れると、信心まで敗れてしまうところに問題があるのです。
もう一つ大切なのは、何を根本にしているかです。難問題が起こるとすぐに動揺して何か頼りになるものを探してしまいがちです。先日のことですが、あるB担さんが「記念ブロック座談会が近づいているのに、B長さんが活動しない。毎日通っているのだけど、ちっとも動いてくれないです」と泣きそうな顔をして相談に来た。この人はB長を頼りにしているのです。御本尊が根本ではなくて、B長が根本になっている。

それは御本尊を頼りにしていなかったことを反省して、「御本尊様!B長、B担当員がそろっているブロックと同じようにすばらしいる記念ブロック座談会が開けますように」と祈ることを忘れている。
ここに問題の根本があるように感じられてなりませんでした。ともかく「困った、困った」という前に、何があってもどんなに苦しい状況になっても題目を唱え続けていく。そこに解決への道が開けてくる事を指導してあげてほしいと思います。


自分の力のなさに弱気になるが

指導の要点

どんな難問も避けずに受け止めて問題解決に尽力していくことが、自らの体験となり、確信ある指導の裏付けとなっていくのである。

どんなことも、最初は苦労がつきものです。いかなる道でも最初から達人になる人なんかいない。また暇があるから、年月が経たからといって〝力〟がつくものとも限らない。要は本人の〝やる気〟の問題です。やる気を起こして、信心指導の原理、基本をマスターしていくことです。

例えば、子供が学校に行かないと言って悩んでいる人の場合や、信心していない夫のことで悩む婦人の場合だって、指導の原理、方程式は皆同じなのです。それを体得すれば、どんな指導にも応用、展開もできる。指導することは、慈悲の行為であり、自分自身の人間練磨でもあるのです。

それに加えて大事な点は、人は決して指導受けただけでは、信心の成長を図れないということです。そのためには、体験を積んでいくことが大事です。例えば、自転車に初めて乗る人に、いくら理屈を説明し、それがわかったとしても乗れるようにはなりません。それよりも実際に乗せて後を押したり、何度か転んだりするうちに、体験的に運転の感覚をつかむものです。
ですから、どんな難問でも避けずに、受け止めて、その問題解決に尽力していった時、それが自らの体験となって、その後の指導に確信もってあたれるし、応用ができるのです。したがってこんな人がいるから苦労すると思ってはいけません。それが宿命転換の大事な善知識なのです。

また、大ブロック組織の構築についても、活動に参加する人が少ないと嘆く前に、今の活動している人をどう成長させていくかを考えていくことも大事です。例えば十人のブロック員がいて三人しか活動に出てこなくても、その三人が一人ずつ他のブロック員の面倒見るようにしていくのです。そうすれば、責任を持ったブロックにも張り合いが出てくるのです。たとえうまくいかなくても、今度は別のブロック員と交代するということも考えられる。あらゆる方法を駆使していくのです。ただ、あなたが退転状態のブロック員の指導が、うまくいかなくて、その気持ちのままで、次のブロック員のところへ行っても今度はどうかなと思うようでは相手の生命を揺さぶる指導はできません。たとえ、一人の指導がうまくいかなくても、次の家に行く時は〝よし今度こそ〟と言う信心で、それまでの気持ちを払拭して臨む姿勢が大事なのです。どんな人だって必ず、悩みはあるものです。それをどのようにつかみ、激励していくかが指導のコツです。

また、私の体験からいって、会合での指導だけで家庭指導に歩かない幹部は怨嫉されやすい。意思の疎通が欠けるからです。逆に、キメ細かく訪問指導し、面倒みの良い幹部はおのずと成長しています。ともかく、一人ひとりのブロック員が広布を目指して たくましく前進できるように祈ると共に精一杯の奮闘をしていこうではありませんか。



仲の良い大ブロックにするには

指導の要点

自分が中心になろうとするのではなくして、B長が活動しやすくなるよう守っていけばよいのである。

まず、それぞれのブロックはB長(担)を中心にブロック員が、まとまっていけるように心がけていくことが大切です。自分が中心になろうとするのではなくして、B長(担)が活動しやすいように守っていけばよい。そうすれば、たとえ年配者、年上のB長であっても、あなたを中心にまとまってくるようになります。

それに、家庭指導には年配のB長、もしくは活動者とともに行くようにすれば良いと思います。むしろ大ブロックの中に年配者がいたほうが、活動はやりやすいのです。自分がどうしても指導に困った場合は、先輩の応援を頼んだり、先輩幹部とともに訪問指導をしてもらうことも考えられます。が、そればかりでは、あなた自身の成長のチャンスがなくなり、実力がつかない。この点もよく考えてもらいたい。ともかく〝自分には大ブロックを完璧に構築する責任があるのだ〟という自覚を忘れずに、B長(担)とともに一緒に勤行できない人は勤行出来るよう、座談会に出ない人は出られるように、怨嫉している人は反省出来るように指導していくという姿勢を堅持していきたいものです。
また、壮年の大B長であれば、各部の大B長と並列には論じられません。例えば、家庭における父親の存在と同じなのです。責任はずっと重いと言えましょう。であるが故に〝重鎮〟と言われるのです。そうかといって威張って良いものでは無い。学会は指導主義です。家庭でも、子供は父親の権力で服従させようとするとすぐ反発する。なぜかと言うと子供はむしろ父親に対して相談相手になってほしいと思っている、というのが教育専門家の意見です。それと同じように、大B長という権威でブロック員に対応するという姿勢は厳に慎まなければならない。たとえ、口ではそのような言語はしない人にしてもその生命があれば、態度に現れてくるのです。
たとえ、どんなブロック員がいたとしても、その人たちがいるから、自分が人間革命できるのだという考え方に立って粘り強く指導していくのです。よく相手の立場を考えてあげ、どうすればブロック員が活動できやすくなるかを思索し、的確にアドバイスしていってもらいたい。そうすれば、年配者との世代の断絶もなくなってくるでしょう。



離婚問題で悩んでいる人には

指導の要点

縁あって結ばれたものが、なぜ離婚しなければならないのか。その宿命転換の信心指導こそ最も重要である。

これは、信仰の姿勢の問題です。離婚したいと言うのは、たいてい相手が悪かったとか性格が合わない、理解がないのだと言う。これでは問題の解決はありません。それより以前の問題として、うまくいかなかった自分の宿業をどう転換していくかを考えなければならない。このへんの指導が大事なわけです。
皆、相手が悪いと言うのです。御書に出てくる池上兄弟の場合だって二十余年の間も父親が反対している。しかし、それはもう一歩掘り下げて考えたときに、自分が過去世に謗法した、その罪を消してくれる全知識であったわけです。この原理は、親子、夫婦の場合にも通ずるものです。祝福されて結婚し、御本尊の前で結ばれながら、なぜ離婚しなければならなかったのか、ここのところを深く見つめなければなりません。しかし地区員の中で離婚問題で悩んでいる人がいた場合、私たちは、なんとか元のサヤに納めようとしますが、それは当人たちの問題であって私たちが干渉すべき問題ではありません。私たちは、こうした問題に悩む人たちに、離婚をしたからといって宿命の転換ができるものでは無いことをよくわからせ、変毒為薬をするよう、相手を善知識とできるようにきちんとした信心指導していけばよいのです。一億人の男女がいて、その中で縁あって結ばれたものが、なぜ離婚しなければならないのか、その宿命転換への信心指導こそ最も重要であるのです。この点をよく肝に銘じておくことが大事でしょう。
相手が悪いという事=自分が良いということではない事が、分かるか分からないかです。万一、離婚した後でも自らの信心に気づいて結局、因は自らにあって、縁に紛動されていたんのだと気付けば、再婚しても幸福になれるものです。

活動に消極的な人への指導は

指導の要点

相手の弱い部分に共鳴して妥協するのではなく、相手の信力、行力を呼びさます指導が大事である。

ブロック員の中に、

「今、仕事が忙しいので余裕ができたら活動しましょう」という人がいます。そんな場合、つい「それもそうだ」と相手に同情してしまうことがありますが、それでは指導にならない。(笑)

その人の言い分は、まるで足の悪い人に「医者にいきなさい」といったら

「足が悪くて歩けません。歩けるようになったら医者に行きます」といっているのと同じです。歩けないから医者に行くんです。それと同じように経済的、時間的に活動出来ないからこそ、そうした状態から脱皮できるように強盛に祈り、少しでも活動するように努力していくことが大事なのです。

これも以前私が会った人ですが、奥さんは一生懸命に活動しているが、ご主人は宝石商で全く活動しない。毎晩9時、10時まで残業だという。そこで私は、その人に話しました。「あなたは忙しくて活動する時間がないという。しかし1ヶ月のうち1日くらいは休みの日があるでしょう。普段は忙しいあなたです。だからこそ、その月に一度の休みの日に一人前の充実した活動ができるように、と祈念し、実践する以外にないのではないか」と。

 つまり、指導する側が心したい点は、相手の弱い部分に共鳴して妥協するのではなく、相手の信力、行力を呼びさましていくことです。そのご主人も、そのように指摘されて自分の信仰姿勢の誤りに気が付いたようです。

 それからは短い時間でも活動に励むようになり、今では東京のある区の中心幹部となっています。