随筆, 人間世紀の光

短期決戦はスピードで勝て!
偉大な「民衆の力」を天下に示しゆけ

将軍ナポレオンは叫んだ。 

「私は、二時間でできることに、二日もかけるようなことはしない!」 
「どんなに大きな仕事でも、それが成功するかどうかは、間一髪の差である」 

私の胸に去来する五十年前の夏、十日間で歴史は動いた。 それは「札幌・夏の陣」と語り継がれる、昭和三十年の歴史的な闘争であった。 八月十六日から、十日間の勝負だった。 短期決戦である。 私は、夏季指導の北海道派遣隊の責任者として、三百八十八世帯という「日本一の折伏」を成し遂げた。 戸田先生は笑みを湛えながら、「大作、またやったな。日本一の大法戦の歴史を飾り残したな」と言われた。 私は嬉しかった。 
     
◇ 

短期決戦の第一の要諦は、「団結」である。
 戦いが短ければ、短いほど、気を引き締め、結束しゆくことだ。 私と北海道の同志は、断じて戸田先生の悲願である「七十五万世帯」を達成してみせるとの「弟子の強き一念」で、尊く固く結ばれていた。 

広宣流布の戦いで「勝負」を決するのは人数の大小ではない。誓願を共にした「異体同心の団結」である。 
「日蓮が一類は異体同心なれば人人すくなく候へども大事を成じて・一定法華経ひろまりなんと覚へ候」(御書一四六三ページ) 

暴虐の限りを尽くした「殷の紂王」の軍勢七十万騎は、八百人の諸侯が結束した「周の武王」の軍に敗れた。 悪辣な紂王に無理やり駆り出された殷の兵士は戦意がなく、武器を逆さまに持ち、周の軍勢に道を開けたという。 ともあれ、周の武王の大勝利は、団結と勢いの勝利であった。 

◇ 

第二の要諦は「スタートダッシュ」である。 

陸上のトラック競技は、短距離になるほど、スタートが重要になる。 百メートル競走も、号砲が鳴る、ぴんと張りつめた瞬間に、勝敗の分かれ目がある。 五十年前、札幌駅に降り立った瞬間から、私の闘魂は燃えたぎっていた。 「戦いは、勝ったよ!」 
出迎えてくださった方々への、私の第一声だった。 
初日からフル回転である。 戦いの拠点となる宿舎に到着した時には、成果を書きこむ「棒グラフ」まで用意できていた。準備万端である。 

「先んずれば人を制す」だ。 

後手に回った場合、負担も。手間も二倍になる。先制攻撃の場合、手間は半分、効果は二倍である。 
戸田先生も、よくおっしゃっていた。 
「いくら大艦隊であっても、戦場への到着が遅ければ、スピードが勝る精鋭には、絶対に勝てない」 
短期決戦であるほど、戦いは「先手必勝」である。 
敵だって苦しい。時間がない条件は同じだ。 先に手を打った方が、必ず勝つ。相手も準備は不十分であり、ここに大きなチャンスがあるからだ。 機先を制した方が、一切の主導権を握り、庶民の心をつかみ、嵐のような喝采に包まれるものだ。 

◇ 

第三に、短期決戦は、中心者の「鋭き一念」で決まる。 
私は「札幌・夏の陣」を前に、ひたすら祈り、智慧を絞り抜いた。 具体的な作戦に墓づき、矢継ぎ早に手を打った。 当時は通信手段も限られ、連絡の大半が手紙である。 私は、東京での闘争と同時並行で、寸暇を惜しんで筆を執った。 時間との競争にしのぎを削り、全精魂を傾けて、北海道の友に手紙を書き続けた。 同志の必死の奮闘の一切を勝利に直結させるとの一念で、万全の準備を進めて、札幌に向かった。 戦いの勝利の方程式は、「忍耐」と「執念」である。 
「つねに気落ちを知らず、断固たる、戦いをやめぬ人間の魂」――大詩人ホイットマンが歌い上げた、この不屈の闘魂こそ、我らの闘争精神である。 絶対に勝つという一念を燃え上がらせることである。 

戸田先生も、「ケンカだって、一つでも多く石を投げた方が勝つよ」と、常に強気だった。 そして、最後は、智慧の戦いである。敵を倒すまで戦い抜く、猛烈なる執念である。 
「勝つべくして勝つ」ことが、学会の戦いであった。 
リーダーは、どこまでも同志を励ましながら、「勝利を決する厳然たる祈り」で、どこまでもどこまでも、断固として進みゆくことだ。 いずれにせよ、短期決戦は、ゴールまで全速力で走り抜く以外にない。百メートル競走なら、世界レベルの争いで約十秒。 脇目もふらず、力を出し切るしかない。周りの様子などに振り回されては、絶対に勝てるはずがない。 恐れることはない。戦いはやってみなければ分からない。五分と五分だ。勢いがある方が勝つ。強気で攻めた方が勝つ。 

中国革命の父・孫文は語った。 
「およそ、何事であれ、天の理に順い、人の情に応じ、世界の潮流に適い、社会の必要に合し、しかも、先知先覚者が志を決めて行なえば、断じて成就せぬものはない」 

◇ 

弘安二年、日興上人は、捕らえられた熱原の農民信徒の状況について、鎌倉から身延の日蓮大聖人へ、急報を伝えられた。 十月十五日の夕刻に使者に託された知らせは、十七日の酉時(午後六時頃)に届いた。 

大聖人は、即座に筆を執られた。 
「彼ら(熱原の門下)が御勘気を受けた時、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱えたとのこと、これは、全くただごとではない」(同一四五五ページ、通解) 

「必ず、わずかの間に、賞罰がはっきりするであろう」(同) 

今こそ変毒為薬の時と、弟子を最大に励まされている。 この御手紙が認められたのは「十月十七日戌時」。 日興上人の報告が届いてから二時間後の、午後八時頃である。 御手紙の最後では、重ねて、仰せである。 
「恐れてはならない。心を強くもっていけば、必ず現証があらわれる」(同) 

大聖人の電光石火の御振る舞いが、正義の反転攻勢へとつながったのである。 戦いは、厳しい局面になるほど、スピードが求められる。 素早く手を打つことで、魔を打ち破っていける。会員を守っていける。 スピードのない幹部は、無責任である。臆病である。無慈悲である。 いざという時の電光石火のスピードこそ、勝利の鉄則であるからだ。 

◇ 

かつて戸田先生は、朝鮮戦争(韓国戦争)の渦中、戦火に包まれた韓・朝鮮半島の人びとの苦悩を思いやられ、慈しみの念を抱かれながら、こう話しておられた。 
「『どっちの味方だ』と聞かれ、驚いた顔をして、『ごはんの味方で、家のあるほうへつきます』と、平気で答える人もいるのではなかろうか」 
どこまでも、我ら人間の幸福を第一に考え、その実現のために戦い抜かれた先生であられた。 いつの時代も、ともすればイデオロギー等が優先され、最も大事な人間の幸福は、ないがしろにされてきた。 

「国民大衆の幸福」こそ、政治の根本であるはずだ。これこそ、永遠に正しき普遍の政治の原理であらねばならない。今の時代は、その政治の根本を忘れている。 

蓮祖は「当世は世みだれて民の力よわ(弱)し」(同一五九五ページ)と仰せである。 ゆえに、わが学会は、「民の力」を強め、「民の力」を天下に示すために戦ってきたのだ。 

その闘争は、時には困難を極めることもあった。しかし困難に遭った時こそ、人間の真価がわかる。 「いざ鎌倉」の時に、本物の人物か否かが明確にわかるものなのである。

 私は「疾風知勁草」(疾風に勁草を知る)という言葉が、青春時代から好きであった。 激しい風に吹かれて初めて、強い草であるか否かを知ることができるというのだ。 この言葉は、後漢の光武帝が激闘した時に、他の兵士が皆、逃げ去るなか、ただ一人、王覇という一兵士が、最後まで残ったことに由来する格言である。 学会に臆病者はいらない!いかなる疾風にも、御本尊を抱きしめ、いかなる事態にあっても、恐れなく厳然と立ち向かっていくことだ。 強くまた強く、正しくまた正しく、そして朗らかな人生を進みゆくことだ。 君よ、痛快に、また愉快に、連戦連勝の指揮をとってくれ給え! 

創立七十五周年の偉大にして意義ある歴史を、栄光と完勝で飾っていってくれ給え!世界的な広がりをもつ、我ら創価の「黄金時代」を謳歌しゆく大音楽を響かせていってくれ給え! 

2005年(平成17年)8月18日(木)掲載

随筆 人間世紀の光 No.196/7   (2009.8.6/7付 聖教新聞)

「師弟共戦」の8月㊤
壁を破れ! ナポレオンの如く

広宣流布は前進また前進
「電光石火の行動」と「異体同心の心」で!

君もまた
 広宣流布の
  ナポレオン
 断固 前進
  勝ちまくれ

この8月は、世界史の大英雄ナポレオンの生誕240周年に当たっている。「『前進!』──これは、わがナポレオン家の歴史と精神を表す言葉でもあります」
私が対談を進めるナポレオン家の当主シャルル・ナポレオン公は語られた。「人類は、弛みなく前進を続けていかなければなりません。歴史は前に向かってしか進まないのです」
 日々、前進だ!
 日々、決戦だ!
 日々、勝利だ!
広宣流布に生き抜く我らに停滞はない。
「進まざるは退転」だ。
前進してやまぬ生命それ自体が常に勝利者である。
対談で、私たちは、常勝将軍ナポレオンの強さについても語り合った。
結論は「スピード」──すなわち「即断即決」 「電光石火」の行動であった。ナポレオンいわく。
「戦術とは時と処とを活用する技術だ」
「迅速の進行」が「勝利を得る力を増加する」と、
確信していたのである。
時を逃すなI スピードが力だ。勢いで決まる。
仏法の諸天善神の一つ「韋駄天」は、早く走る象徴として知られる。もともとの呼び名は「スカンダ」である。これは、アレクサンドロス大王(ペルシャ語等でイスカンダル)の名前の転訛とする学説もある。古代の人びとが、疾風の如く駆け抜ける若き大王の姿に畏敬の念を抱いたのであろうか。ともあれ、ナポレオンが尊敬してやまなかったアレクサンドロス大王の強さも、“決断の勇気”であり“迅速の行動”にあった。失った過去は取り戻せない。だが、未来は誰人にも平等にやってくる。

「今」を価値的に
「未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」
(御書231㌻)と「心地観経」は説く。
今この時を、いかに戦うか。次の瞬間を、いかに動くか。そして今日の一日を、いかに価値的に使うか。その連続闘争の中に、勝利の因がある。これが、「法華経の兵法」の鉄則だ。

恐れるな
 前へ前へ
  悠々と
 そこに必ず
  勝利の旗が

英雄ナポレオンの光と影には、さまざまな評価がある。それはそれとして、そのリーダーシップからは、時代を超えて学ぶべき、勝利の「将軍学」があろう。時は1796年8月──26歳の若きナポレオンが、わずか5日間という「短期決戦」で、圧倒的勝利を収めた戦闘があった。
「カスティリオーネの戦い」である。
優秀な部隊を有するオーストリア軍5万人と、ナポレオンの率いる2万5千人のフランス軍が、イタリア北部の町カスティリオーネで対峙したのだ。
オーストリア軍は、大軍にまかせて勢いづいていた。ナポレオン軍の兵力は半分の劣勢である。加えて相次ぐ戦闘で、肉体的にも疲労の極みにあった。
だが、決戦に臨むナポレオンの表情は溌剌と輝き、意志は巌の如く揺るがなかった。自ら各部隊を励まし、将兵たちを鼓舞した。ただただ勝利のために一念を定め、目の前にある打てる手を、迅速に的確に打っていったのである。8月5日の夜明け。遂に決戦の火ぶたが切って落とされた。
先手を打ったのはナポレオン軍だ。夜のうちにオーストリア陣営の左翼の背後に進み、暁とともに襲いかかったのである。
この第一撃に驚き乱れた敵陣に対して、ナポレオン軍は追撃の手を緩めない。ナポレオン軍のあまりの勢いに、敵の大軍の士気は一気に下がった。ここに、勝敗は決したのだ。この時の攻撃のポイントは大きく二つ挙げられる。一つは、攻められる前にスピーディーに攻撃を加える「先手必勝の猛攻撃」。そして二つ目は、全軍が一枚岩となって、最後まで戦い抜く「固い団結」だ。
        ◇
「少軍で大軍に対抗しようとする時は」
──ナポレオンは、大軍を相手にする時の心構えを記している。それは「迅速に味方を集合し、あたかも雷の如く」突撃することであった。要は、いざという時、味方がすぐに一つにまとまることである。機先を制し、先手、また先手で、押し続けるのだ。

いかなる戦いも「遅滞」「散漫」「後手」では、流れはできない。何よりも。そうした戦いの起点に、逡巡の気持ちがあれば、力を出し切れないものだ。
ナポレオンは、それを痛烈に訴えた。

「成功を確信する者は成功する。決して成功の如何を疑うことなく、必ず成功すべしと確信せよ」
迷うことなく突き進め!恐れなく前へ前ヘ!
そうすれば、結果は必ず、わが方についてくる。
本当の敗北は、環境や状況に左右され、
「勝つ!」と決められない一念の甘さ、弱さにこそある。その己心の一凶を破ることが、真の勇者の条件だ。

ナポレオンの深さは、自軍を知ると同時に、よく敵軍を知っていた点にある。「人は自己の艱難を見ることはあっても、敵の困難を見ることができない」と。
自分の心が臆すると、敵は実像よりも大きく見える。だが必ず勝機はある。最後の最後まで、粘り強く攻め切った方が勝つのだ。
御聖訓には、「かたきをしらねば・かたきにたぼら(誑)かされ候ぞ」(御書931㌻)と仰せである。我らには、妙法という最極の生命の明鏡がある。研ぎ澄まされた信心の眼《まなこ》で、一切の事象を鋭く見極めていくのだ。そして、時を逃さず、一気呵成に攻めるのである。不撓不屈で勝ち抜くのだ!

ナポレオンは力説した。
「目的を貫徹するのは、ただ堅忍と不撓とによる」

原爆より魂は強し
ところでナポレオンは、こう語ったという。

「世界には二つの力しかない、すなわち剣と精神とである」「ついには、剣は常に精神によって打ち破られる」
この言葉に鋭く反応し「精神」の勝利を叫び抜いたのが、非暴力の闘士マハトマ・ガンジーであった。

64年前、あの原爆の惨禍を直視しながら、なお「『魂の力』は原子爆弾よりも強い」と、彼の信念は揺るがなかった。
1993年(平成5年)の8月6日の「広島原爆の日」──私は長野研修道場で、インドの哲学者ラダクリシュナン博士と、このガンジーの信念を語り合った。
そして、その日、私は「平和ほど、尊きものはない。平和ほど、幸福なものはない」と、小説『新・人間革命』の冒頭を書き始めた。人類の平和へ、精神の勝利へ、新たなる言論闘争を開始したのである。
ガンジーの「行動」を「即戦即決でした」と讃えたのは、共戦の弟子であったネルー初代首相だ。
平和への戦いも、大事なのは勇気であり、果断であり、スピードである。

わが大阪・夏の陣

連戦と
 連勝 綴りし
  錦州城
 さらに勝ちゆけ
   常勝 舞いゆけ

炎暑の8月を迎えるたびに、私は、師と共に“連戦連勝”の金字塔を打ち立てた歴戦を思い出す。
毎年の「夏季地方指導」である。それは、常に2週間に満たない短期決戦であった。そこに凝結し抜いた勝利勝利の歴史を刻んだ。私が常勝関西の大城・大阪に第一歩を印したのも、夏季地方指導であった。

昭和27年(1952年)の8月14日──師匠・戸田先生と初めてお会いした“師弟の日”から5年後のことである。 
特急「つばめ」が、あの関西の大動脈・淀川の鉄橋を渡りゆく折の命の鼓動が蘇る。いざや前進!と。

その夜、飛び込んだのは、文化の都・堺の座談会であった。わが同志は躍動し、7人の新来の友が入会を決意したと記憶する。私は、先師と恩師の願い通りに、創価教育の学園・大学を創立し、偉大な指導者を育成する構想も、この堺で語った。さらに大正区、東淀川区等の集いにも、勇んで参加したことが懐かしい。

その翌年も、翌々年も、8月に、戸田先生と私は大阪で折伏の波動を広げた。師弟して正義の師子吼を放った仏教大講演会で、69人もの方が一度に入会を申し出たこともあった。西成区にあった花園旅館などを拠点に、愛する大阪の庶民の街、人間の大地を、金の汗を流して走った歴史は、青春の誉れだ。
「大坂・夏の陣」で活躍した、奈良出身の有名な剣豪・柳生宗矩は、勝負において「油断」を厳しく戒めた。
「二重、三重、猶四重、五重も打つべき也」と。
ともあれ間髪入れずに、徹底して攻め抜く!
そこに、勝つための極意を定めていたのである。






「師弟共戦」の8月㊦

勇敢に「夏の陣」を勝ち抜け!
常勝不敗の「師子王の心」は わが胸に!

偉大なる
 門下の宝剣
   振り上げて
  師弟不二なる
    法戦 楽しや

札幌農学校に学んだ思想家・内村鑑三は綴った。
「臆せず、撓《たゆ》まず、悪と戦い、善と興《おこ》すべきなり」
「進め、どこまでも進め、前途を危懼せずして進め」
「明日は今日よりも完全なれ」
「正義は実《まこと》に誠《まこと》に最終の勝利者である」
広布史に「札幌・夏の陣」と謳われる夏季闘争が繰り広げられたのは、昭和30年の8月であった。
私が指揮する札幌班は、10日間で388世帯の弘教を成し遂げた。班としては、前人未到の「日本一」の拡大となった。真剣だった。一分一秒が惜しかった。スクーターの後ろに乗っての移動中も、“札幌の同志に勝利を!”と題目を唱え続けた。
短期決戦は、一日たりとも空費できない。一日一日が珠玉の時間である。一日一日が渾身の勝負だ。その一日の勝利は、“朝の勝利”から始まる。
私は札幌の地で、同志と共に、毎朝、真剣に祈り、御書を拝しながら闘争をスタートした。師匠・戸田先生が悠然と北海道に到着されたのは、8月18日──。
 師は、道内の各地で、大確信の仏法対話を広げられた。私は一人、分身として奮闘を重ね、最後に、札幌に師をお迎えした。そして、札幌の大勝利はもちろん、北海道全体で、実に1400世帯もの弘教が実ったのである。
「師弟相違せばなに事も成《なす》べからず」(御書900㌻)──「師弟共戦」に勝るものはない。

師弟共戦は、いかなる苦境をも勝ち越え、障魔をも打ち砕く。人智では計り知れない力を、信仰者の生命に呼び覚ますのだ。
 ◇
断固たる
 無敵の信仰
  勇み立ち
 この一生に
  無量の功徳が

「極楽百年の修行は穢土の一日の功徳に及ばず」(同329㌻)とは報恩抄の一節である。
苦難の時に、法のため、人のため、世のため、勇敢に戦い抜いた栄光と福徳は無量であり、永遠である。

戸田先生の膝下で、最後の夏季指導となったのは、昭和32年の荒川の夏季ブロック指導であった。

あの大阪事件の直後である。私は創価の巌窟王の心を燃え上がらせて臨んだ。わずか1週間で、当時の荒川区内の会員世帯の1割を超える、二百数十世帯の拡大が成し遂げられた。
その信念の対話の喜びは、荒川を発火点に庶民の王者・足立区へ、歓喜の都・北区へ飛び火した。そして全東京、広布の要・大関東へ拡大していったのだ。

この夏季指導は、恩師亡き後も、師弟共戦の魂の伝統として輝き続けた。昭和33年の夏には、私は大関西へ、師弟の縁深き信越へ、そして九州──福岡、鹿児島、宮崎へ飛んだ。佐賀、長崎、熊本、大分と一体で、広布の先陣を切る“先駆の大九州”の友の笑顔が光り輝いていた。

昭和34年──ちょうど50年前の夏には、“獅子の中国”、また“堅塁・中部”、さらに“不屈の東北”の勇者たちとも語らいの花を咲かせた。あの夏、誇り高き“正義の神奈川”の集いにも出席した。
そして迎えた9月、暑い夏を大勝利した、わが尼崎の同志と、嬉しき勝ち戦の握手を交わしたのである。

この兵庫・尼崎から関西指導がスタートした。
新たな常勝の熱き血潮は、関西の心臓部・尼崎から広がっていったのだ。
また、私が第3代会長に就任後、最初の夏季指導ともいうべき歴史が、昭和35年7月の平和の要塞・沖縄への初訪問であった。
 さらに夏といえば、「誓」の北陸の友との記念撮影も忘れられない(昭和42年8月、富山・高岡で)。

「情熱は必ず人を承服させる唯一の雄弁家である」とは、フランスの文人ラ・ロシュフーコーの言葉だ。たとえ短時間でも、大情熱の対話から共鳴が広がる。

あの歴史に燦然と輝く「山口闘争」も、短期決戦の連続であった。

私が山口の現地で指揮を執ったのは、わずか20日余。昭和31年10月から32年1月までの間の3回の訪問で、1回の滞在は10日以内だった。

短期間だからこそ、電話なども有効に活用し、連絡・連携を密にした。1回目の訪問より、2回目、そして3回目と、拡大の布陣が強固になるよう、猛然と祈り指揮を執った。

中国方面の拠点であった岡山にも足を運んだ。そして永遠の平和の都・広島を訪れ、深き祈りを捧げた。

波は一度では足りない。押しては引き、引いては押し、一波、ニ波さらに三波と波を起こしていくのだ。

「教主釈尊をうごかし奉れば・ゆるがぬ草木やあるべき・さわがぬ水やあるべき」(御書1187㌻)と仰せである。我らの強盛なる祈りは、諸天を揺り動かさずにはおかない。


勇敢に
 偉大な名誉を
  残しゆけ
 君の笑顔に
  君の心に

ともあれ、嬉しかったのは、全国の同志が、山口の広布開拓のために、馳せ参じてくれたことである。
蒲田、文京、足立、本郷、鶴見、志木、大宮、大阪、堺、梅田、船場、松島、仙台、八女、福岡、岡山、高知支部をはじめとした全国の永遠に忘れ得ぬ歴戦の勇士たちであった。九州からも、志の天地・四国からも、共戦の同志が勇んで集って来られた。
「私は、この地で広布の歴史を刻みます!」
 459世帯から4073世帯へと、未曾有の拡大を達成できた。全国の同志が、私と同じ心で決戦場に臨み、対話に邁進してくれたからであった。
これほど強く、これほど美しく、これほど尊い人間の結合が、一体、どこにあるだろうか。この究極の団結で、創価は勝つのだ。
 「私は思います」。ナポレオン公は、創価の師弟の平和運動の継承を賞讃してくださりながら語られた。

「道なき道を開いた『一人』の存在は偉大である。しかし、それ以上に、その険しき道に続き、さらに道を広げていく人の存在は、さらに偉大である」

わが創価の友は、崇高なる広宣流布の大道を歩みゆく最も大切な、最も高貴な一人ひとりだ!険しい道もある。烈風もある。しかし、だからこそ楽しい。勇気がわく。
 蓮祖大聖人は「立正安国」という大理想のために、命に及ぶ大難に遭われても、悠然と叫ばれた。
「強敵を伏して始《はじめ》て力士をしる、悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし」(同957㌻)
 難こそ正義であり、苦闘を突き抜けての勝利こそ、日蓮仏法の醍醐味だ。
 ◇
 戸田先生は、よく呵々大笑されながら言われた。
「我々の姿は時として、貧乏菩薩や病気菩薩のように見えるかもしれない。しかし、それは、人生の劇を演じているんだよ。生命の本地は、正真正銘の地涌の菩薩なんだ。人生の劇ならば、思い切って楽しく演じ、勝ちまくって、妙法の偉大さを証明していこうではないか」
 
さあ、わが本門の勇戦の弟子たちよ、打って出る時は来た。“いよいよ”の心意気で、愉快に、痛快に、仏縁を広げゆくのだ。今こそ、「師子王の心」を奮い起こして、声高らかに正義を叫び抜くのだ。
 「スピード」だ!
 「団結」だ!
 「情熱」だ!
 「共戦」だ!
 「師子吼」だ!
そして、「八の字」の如く大きく開けゆく、八月の青空に、誉れ高き「師弟完勝」の旗印を堂々と掲げようではないか!

晴れ晴れと
 勝利で この世を
  師弟して
 断じて残さむ
  偉大な歴史を

わずか10日間で日本一の弘教が実った、1955年(昭和30年)の「札幌・夏の陣」。

陣頭指揮を執っていた池田名誉会長は、友に電報を送った。「悔いなき闘争を祈るのみ 池田」

▼送り先は主に札幌市内。毎日のように顔を合わせる人も多くいた。〝なぜ、わざわざ電報を?〟と周囲の幹部は不思議がったが、電報を受け取った友の感激は想像以上だった。これを機に、札幌の友は大拡大を成し遂げた

▼当時を振り返り、名誉会長は戸田第2代会長の言葉を通して語っている。――あの人のために何をしてあげたらいいかと、常に心を砕きに砕く。ゆえに、誰もが気づかないところにも気づく、と。斬新な激励は、同志に尽くす深い祈りから生まれたものだった

▼「夏の陣」の終盤、ある友が「これ以上、弘教はできません」と言った。名誉会長は労をねぎらいつつ、「弘教は、相手への慈悲なのだから、〝もうできない〟ということは、ありえません。すべての人を幸福にしていこうではありませんか」と励ました

▼幸福の連帯を広げる前進に、行き詰まりはない。「あの人のため」と祈りに祈るなかに、知恵と慈悲は無限に湧く。いよいよ上半期の総仕上げ。われらの「夏の陣」を「悔いなき戦い」で飾りたい。

さあ、今年も「夏の陣」だ――

北海道の友は、夏が来るたびに決意する。
弘教に、友好対話の拡大に、大いに汗を流す夏にしようと心躍らせる

▼淵源は昭和30年8月、札幌で繰り広げられた弘教の大闘争。当時、現地の会員は約500世帯で、多くが入会1、2年。そのなかで「10日間で300世帯の弘教」を目標に挑戦が始まった。陣頭指揮をとったのは27歳の池田室長である

▼戦いの前、池田室長が札幌の同志に宛てた手紙が残っている。「私も歓喜と闘争力に漲って居ります」「緑の大地に羽搏く歓喜の気持で一杯です」「十日間を、何年にも越ゆる闘争と致し度く、心を躍らして居ります」――どの文面にも共通するのは“喜び勇んで”の心。目標は高い。環境も整っていない。しかし、だから歴史になる。「大闘争」ゆえに「大歓喜」。これが室長の心境だった

▼「賢者はよろこび愚者は退く」(御書1091ページ)。「難来るを以て安楽」(同750ページ)。日蓮大聖人の仏法は、苦難を歓喜へ百八十度、転換しゆく「賢者」の哲学だ

▼あの10日間、札幌は目標を大きく超える日本一の弘教を達成。「夏の陣」と後世の歴史に刻まれた。誰にでも目標があり、挑戦がある。さあ、わが自分史の「夏の陣」を悔いなく!