体験

(岸本加世子さん) 
皆さん!こんばんは。 
あの普通、学会の会合と言うと御本尊様があって畳の上と言うノリなんですけど。今日は歌番組やそういった感じで少し寂しく距離感があるんですけど、私、久しぶりの静岡でワクワクしております。今日は静岡の文化祭のビデオを見させて戴いたのですけど、今、全国各地で学会は素晴らしい文化祭を行ってます。その中で誰1人として仕方なくとか義理で出ているとかいった方が1人も居ないでしょ?隅々に至るまで画面に映ってない人まで歓喜の涙で参加してるのが見えて、私はしがない東京で、ドラマとかいろいろとやらせていただいておりますけど、悲劇のヒロイン役とか、悲しい本とか読んでも、最近は歓喜の涙っていうのを流した事が無いのです。でもこうして学会のビデオを見ているとこうむしょうに泣けてきてしまうのです。小さな例が先日、私の周りであったので発表したく思うのですが、泉ピン子さんって女優さん居ますよね?「おしん」のお母さん役を演じた。泉ピン子さんとは、姉妹のちぎりを交わしていて、とっても仲がいいのです。彼女は、昭和30年代の入信で、もう創価学会の為に、その頃、キャバレーとかをウクレ漫談で廻ってまして、1日食べるお金が50円しかなかった。その50円のパン代を総本山の御開扉の供養にあてたという、もの凄い闘争で学会で頑張った人なんです。泉ピン子さんは、旅から旅へせこいキャバレーを廻っている間に、大晦日になると丑寅勤行で御本尊様に紙に書いて貼って祈ったというのです。 
「日劇」でワンマンショーが出来ますように! 
「マンション」が買えますように! 
「主役」が出来ますように!ベンツに乗れますように!と・・。 
その頃から考えたら私が大統領になれますように!みたいな、とんでもないお願いなんですよね。 

書いて念じて、毎日唱題したって言うんです。そしてものの見事に全部かなった!と涙ながらに言うんです。ところが、いっぱい売れて来て、忙しくなってくると・・どうしても御本尊様を忘れがちになると言うんです。苦しい時は、求める気持ちがあっても、幸せになっちゃうと、忘れちゃうと言うのです。それで池田先生が勇退された事がショックで、ついこの間まで信心眠っていたんです。そんな時、ピン子さんが私の所へ来て、もう学会を沢山したんです。ピン子さんが、自分の家で唱題してると、もう嬉しくて感謝の題目で、涙が止まらない・・と言うのです。そしてピン子さんが翌日に、いのちの収録(NHK大河ドラマ)が始まったばかりの日だったのですが、朝まで題目をしてしまって、もう寝不足でスタジオに行ったんです。そしたら一緒にやっている三田佳子さんが「ピン子さん?なんか今日は素敵な顔をしてる!輝いている!なんかいい事あったんでしょ?男でしょ?」(笑)ホントに題目を唱えていったら、みんな言われたって言うんです。だから先ほどのビデオで見た、皆さんが生き生きして素晴らしく写っているのは、化粧とか顔立ちとかじゃなくて、命で歓喜してしていると、ああなれるのですねぇ! 
そして2日程前の夜中にピン子さんから電話があって「加世子?題目あげようよ?」って言うので2人で題目してたんですね。 
そんな時、私が思い出したのは、今度「火曜サスペンス」ってドラマで生放送でやるんです。ソコで打ち合わせも兼ねて、日本テレビでも名プロデューサーで名監督の石橋冠って言う人の家へピン子さんと2人で遊びに行ったんです。2人ともパジャマ姿で。そして、ずぅーっと話してたら朝方になってしまって、突然、私が仏法対話を始めたんです。 
「創価学会って素晴らしんですよ!冠さん!」「冠さんが私の芝居をほめてくれますが、何処から来るんだと思います?私は、別に、女優として学校に通ったりとかしているわけでは無いのです。妙法を持ってるから光るのです!と言いきりました。朝方にも関わらずピン子さんも乗ってきて、2人で、もう投げる様にブゥァア~っと祈伏しましたね、石橋冠さんを。そしたら、彼も神様ってのが居るのではないか?と思い、困った時など、トランプのカードのキング王様を見て祈ってるって言うんです。私達は、もうソコでそういう間違った事をしてるから駄目なんだ!と朝方2人で怒ってやりましたけどね。そしたら、その名プロデューサーの石橋冠さんが、「この話をしてる時の2人さんは、綺麗だね」って言うんです。 


私は今、都内のマンションに実家の静岡県島田市の親戚の子と一緒に住んでいます。たまに芸能界の友人も遊びに来るのですが、この芸能界って言う処は、本当にどうしよもない世界で、とても厳しい処なんです。恩師の久世光彦(くぜ てるひこ)という「ムー族」とか「時間ですよ」とか番組を作った人に私は育てられたんですけれど、どんな事を教わるのかと言いますと、女優や役者ってのは、不幸でいなければいけない!ノホホンとしてる奴に絶対に「いい芝居」は出来ない!って言うのです。 
幸せな家庭や家族を持ってたとしても、スタジオでカチンコが鳴り、悲劇のヒロイン役とか・・他人の心を打つ芝居が出来るのか?って言ったら「嘘」になってしまうのです。いつ何処に居ても、隅でヒザを抱えて不幸な事を考えてろと言われたのです。 
私は福子として産まれ、最初から御本尊様があったのです。小さな頃から「南無妙法蓮華経」を親から教えられて来ておりましたが、今ひとつ御本尊様の有り難みが分かっていませんでした。 
ピン子さんも私も、不幸でなければならないと恩師から教えられつつも、創価学会で「信仰と私」とか「世界平和」とかで華やかに出ていたら役者として鈍るんじゃないか?とか切れ味の無い役者になってしまうのではないか?とかバカな私は思っちゃったんです。 
それでも学会も大好きだったし、御本尊様も大好きだったんですけれど、あまりキチンとはしてなかったんですね。 

ここから私の生い立ちになるのですが、何故、今こうして私が、幸せに見れる様になったのかですが・・・これから話す事はマスコミでは一切、語ってない事なんですが、学会においては、嘘なき、真実の話を身内の恥をさらすようですが、話をさせて頂きます。 

私の父が静岡県島田市に住んでいる頃、もの凄い酒乱で、母は、生まれながらの重度の身体障害者でした。父は焼津港でマグロ船に乗っていて、一航海3ヶ月間はいないのです。それで母と私は、その間、待ち続けているのですが、父が港に到着すると、お給料を全て焼津港付近の酒場で使ってしまうのです。母と私は、お金が無くては生活が出来ません。でも何とか食べていかなくてはなりません。それで母が、ポーラ化粧品のセールスをしてたのです。母は脚は片ちんばだし、洋服は臭いそうな服で、「ポーラレディですけど・・」と言っても門前払いをされるのが当たり前です。でもポーラ化粧品の営業所の方々が言うのです・・母は営業所の成績こそはゼロだったんですが、営業所のアチコチを掃除して綺麗にしてくれたと、ソレでソコにおいてもらったというわけです。それで、私はあるとき、なんで母ちゃんは入信したんだ?って聞いてみたんです。代々、私達一家は真言宗でしたから、そしたら、母が言うのです。父が生活費を出してくれない時に、父ともめて、父が酒乱で怒り狂い包丁を持って暴れだしたんです。その包丁が母の首に来たので、母が避けようと腕で押さえてるとその包丁が母の腕を斬り、血がブワッっと流れだしたんです。でも病院へ行くお金もありません。ソコで母が木綿糸を焼き「せいのっ!」ってんで母が自分の腕を2針縫ったんです。でも血がなかなか止まらないってんで台所へ行き、うどん粉で流れ出す血を止めたって言うのです。それでも父に「この片ちんば!片わもん!」と言われて、母は思ったそうです。どうして私だけが、こんなに不幸なの?腕の痛みとで本当に死にたくなっちゃった、って言うんです。障害者でありながら、生活もくるしい。そして毎日、父からは暴行を受ける。その時に近所の学会員さんが、「あなたが、貧乏な家に障害者として生まれ、酒乱な父と一緒になり、暴行を受けてしまっている。それはあなたの宿命だ!」と言うのでした。 
その近所の学会員は更に「あなた自身の宿業をまっすぐに素直に、逃げずに、見つめなさい!そして、この宿業を素直に見つめ、この宿業を転換できる幸せな境涯に出来る、この信心をやりなさい!」と言われたのでした。これを聞き、母は、父を怨まず憎まずに信心を始めたと聞いたのでした。それでも父の酒乱は治らずに、昭和41年、私が小学校1年生の時に学校から帰ってきたら母が隣りの家の塀に立っていて 
「加世子・・東京へ行くよ!」と言ったのです。母は、ふところに御本尊をおまきして、私を連れ、誰1人と知り合いも身よりもない東京へ行ったのです。住み込みで母は働き、私も大きくなったのですが、それで今の父と再婚し、間も無く弟も生まれたのでした。再婚すると言っても母は、父より年上で、子ずれの障害者の母ですから父に凄くハンディを持ってたのです。そんな父は、創価学会が大っ嫌いだったんです。私達が勤行をしようと鈴を鳴らすと、父の形相が変わる程、嫌いでした。それで今の父は土方の仕事です。 
1つ現場が終われば、家族全員で住む地域が転々と変わっていったのです。 
だから小さい頃は、いつも、みかん箱に聖教新聞を敷いて、その上で御飯なんかを食べていたのです。だから家具は、いつも小さくまとめておきました。 
小学校を6回も転校しており、長い所でも2年間しか居られませんでした。 
今でいう「いじめ」にもよく遭いました。私は自毛が金髪で目が大きく度々転校生をしてたもんですから。それに幼かった私は、いつまでココに居るのかな?と思って心を開いて話をした友達が1人もいませんでした。 

学会の方も、地域に馴染んだ頃には、また別の地域へ移動。そんな中、私が15歳の時に、スカウトされて芸能界に入りました。 
西城秀樹さんのコンサートへ行った時に、芸能界入りの話が出てきて、その時、母は震えて「とんでもございません!ウチはこの子を芸能人に仕立て上げる程のオカネは一切ありません!」と言ったのです。 
当然オカネはかかりませんでしたが、両親と弟と別れて芸映プロダクションの寮に入りました。寮は御本尊様も持ち込めず、近所には学会の同志も多くいらっしゃったに違いないのですが、この同志と馴染む事すら許さませんでした。それで、なんか命がショボンとなっちゃって。テレビで放映された「ム一族」って言う樹木希林さんや郷ひろみも出演された中で、私はラッキーガールとしてデビュー出来たのですが、そのドラマが終わったら、後に続かなくて仕事が無くなっちゃんです。 
ウチの事務所は、歌手の事務所でしたから、西城秀樹さんや、岩崎ひろみや河合奈保子や石川秀美とか、角川博・菊池桃子とか居て。その中で私だけ仕事が無いのです。赤字の芸能人を事務所が置いてくれてるワケにも行かず、電車を乗り継いで乗り継いで、行った先は、スーパーの魚屋の大売出しの前で歌を歌ったり、パチンコ屋の開店に「サイン会」だったりとか、そういうみじめな仕事しかなかったんです。あげくの果てには「日活」のロマンポルノが来たんです。 
それで私も、考えました。別に日活が悪いワケでは無いのですが、私の場合、別に豊満な胸があるわけでもないし、悩みました。それで私は、日活の仕事を断ったんですね。そしたら事務所側が私に対しての反発がありましてね。仕事の良し悪しを言える者か!お前は!って。 
そしてその頃のお給料が4万5千円で、 
そのウチの2万円は実家の母へ仕送りして、残りの2万5千円で生活してました。 
一応、芸能人ですから、通常、明かぬけた格好をするべきだったんですね。 
いつも取材で「何だ?また同じ服かよ?」とか言われて、事務所の先輩の服を戴いたりして、ブカブカだった事が多かったんですが「ハイ!ありがとうございます!」って言って着てたのです。2万円しかないから仕方がなかったんです。でもその頃、実家の御本尊様は、おずしだったんです。御本尊様がギリギリ入る小さな小さな仏壇だったんです。 

それでタンスの上に御安置してましたから、タンスを開けたり閉めたりするのに、御本尊様がガタガタ揺れるのです。それで、いつも母が頭痛だ!って言って絶えなかったんですね。 
私はハッ!と思い、仕事も上手く行ってないけど、何を思ったのかたった2万円の手持ち金で実家に、こんな大きな仏壇を買ったんです。それも月々千円・2千円の支払いで。でも母と私は、「今まで狭い所に安置してしまい、すみませんでした。」と涙を流しながらの題目でした。 
その功徳で事務所の寮が出来て家族と一緒に同居する事が出来たのです。 
それでも一生懸命に題目をして、その年デビューして「アカデミー賞」の授賞式があって、私なんか、かすりもしないのに、この年のデビューって言ったらの頭数をそろえる為に参加させて頂きました。 
それで忘れもしないです「主演女優賞」が倍賞千恵子さんでした。その時の報道陣が駆けつけて倍賞千恵子さんを撮ろうとカメラマン達がブゥオ~ッっと入って来た時に私が座っていた椅子を蹴飛ばしたんです。魚屋さんの前で歌を歌った時やパチンコ屋の前で歌を歌った時なんかよりも屈辱で、私は一応女優としてこの場に来ているんだ!なんで同じ女優が別の女優のリアクションの為に蹴飛ばされなきゃいけないんだ!本当に悔しくて悔しくて・・涙が出てきちゃったんです。「この野郎ッ・・いつか・・見てろよ!ってもうムラムラと燃え上がってしまって、御本尊様に決意したんです。動機は不純ですけどね?いつか誰かの椅子を蹴飛ばさしてやる!とね? 

ただただ文句を言わずに真剣に唱題したんです。そうしていたら、私の恩師でもある向田邦子先生が、私を抜擢して下さいまして、NHKテレビドラマの「あ・うん」とか富士フィルムのCM「それなりに」を戴いたりとか、歯磨き粉のCMを戴いたりして、一応、主役女優の地位は獲得出来たのです。そして、この年に戴ける賞があるのです。 
「アカデミー賞」「ブルーリボン賞」「テレビ大賞」とか、この年のキャリアで戴ける女優の賞は全て戴く事が出来たのです。私は心の中で「ヤッター!」と思ったんです・・でも・・そうしたら三障四魔がやってきたのです。 

そんな信心なんかやめちまえ!と言う魔が。主役を戴いたりとか、岸本加世子と名前を聞けば一応は皆さん知ってる方が多くなって来ると聖教新聞とか公明党の応援とかおおせつかるんですね。 
すごいありがたい使命なんです。 
「ヤッター!私も聖教新聞に出れるんだー!公明党の応援が出来るんだー!」と舞い上がって頑張っているとですね、私をスカウトして下さった事務所のマネージャーが、「お前、創価学会員だってな?・・とんでもない!今すぐやめろ!いいか?女優に、宗教色・政治色が付いたらおしまいだ!命取りだ!岸本加世子は公明党だ!創価学会員だ!」と問い詰まれました。それで当時は担当CMが2本ありました・・富士フィルムとライオンと・・こういうCMに、宗教色・政治色の強い女優が出たらスグに下ろされると言われたんです。それだけでは無く芸能界って所は、契約書に載っていて、何千万と言うオカネを払う、バックしなければならないのです。そういう事もあり、学会の本部へ行き、ワケを話し、これからは、御本尊様に対しての勤行はやり続けますが、活動はやめさせてもらいます・・と言いに行ったんです。そしたら本部の部長の方が、もう怒ってしまって、顔色を変えて「冗談じゃない!岸本君は、信心の確信が無さ過ぎる!CMを下ろされるかどうか題目をあげてみろ!」と言われ、そしたら、そばに居た山本リンダさんが、中に入って「部長っ!ごめんなさい!加世子ちゃんは、まだ信心の事を分かってないんです!」とリンダさんの目に涙があふれ流して私をかばってくれたんです。そういう時ってのは、本当に題目があがってない時で魔にかわいがられる時で・・来る仕事と言ったら「悪霊島」とか、お寺の巫女(みこ)さんの役とか、結婚式で教会の仕事とかで・・毎週ドラマの出演役で毎週:お寺の巫女(みこ)さんの役をやっちゃったりとか言う仕事が来ちゃったりして・・でも、私は信心における確信を持って学会活動に励んで行ったんです。・・・だから会社の事務所には内緒で聖教新聞に載ったりとか・・ある日、公明党の応援で遊説カーに乗って、白い手袋をして「公明党の誰々の応援で来ました!岸本加世子です!」って言って手を挙げて振ってる時、ちょうどたまたまウチのマネージャーがソレを見て・・もう失神しそうだったって言ってます。事務所側もあきらめたみたいなムードでした。そして松田聖子さんが全盛の頃、CMが6本だったんです。私は、今一流企業のCMが7本です。この信心のおかげで本当に素晴らしい学会活動と・・人生をおくらさせていただいてます。よく取材で「岸本加世子さんの健康法は何ですか?」と聞かれ「誰々さんは、朝のジョギングとか、誰々さんは、梅干を食べる事と言ってます」冗談じゃない?私は「創価学会です!朝晩の勤行・唱題です!」って言ってもマスコミの人は分からないんです。時間が迫った取材なんでしたが、私は「勤行は素晴らしいんです!命が輝くのです!」って言って、それでその取材の週刊誌を見てみると岸本加世子の健康法「お経」ってかいてあったんです(笑) 

そんな中で私の体験談を話させて戴きますと、今から4年前にウチの障害を持った母が脳溢血で倒れたんです。救急車で運ばれCTスキャンの脳断面が見れる病院へ運ばれ、多くの検査をしました。 
後に、私が呼ばれ「あなたの母さんは3日間の命です。会わせる人に会わしてあげて下さい」と言われました。 
多くの知人・友人に連絡し、事務所にも連絡した所、喪服を忍ばせ多くの方々が病院へ見えました。その時私は、死にもの狂いで題目をあげました。病院のベッドで横たわった母のそばで、題目をしていると、子供の頃の母との思い出が浮かんできたんです。よく学校で父兄参観日とか、学校でやる行事は何1つ来てくれた時が無いんです。私は金髪の転校生だったんで、母の様な障害者が父兄として学校へ行ったら、よけいお前がいじめられると言ってました。母は、障害者として生まれ、”ちんば”だ!”片輪者”だ!(昔、障害者の事を片輪者(かたわもの)って呼んでた)”だ!と本当に母は不幸な人でした、何1つ贅沢に温泉旅行だとかした事が無くて、このまま母を死なせるのは、本当に不憫(ふびん)だったんです。日蓮大聖人の御金言に「南無妙法蓮華経は師子吼の如し。いかなる病さはりをなすべきや。」とあります。 
「願いとして 叶わざるはなし」 
私は、真剣に題目をしました。もし母に使命があるならば、助けて下さい。この母が広宣流布のお役に立って行きます、と。真剣に死にもの狂いで題目をしていたら、何とか母の一命はとり止めました。 一命はとり止めたものの、意識が戻った母は、身体障害者である上に、左半身不随。目も寄っちゃって痴呆障害ですね。口もバブバブ位なんです。でも良かった、まだまだ良くなる。 
「絶対に・・南無妙法蓮華経って言える様になるよ!」 
でも母を前に言うのは照れくさくって。というか言って激励するのと同時に涙が出ちゃうって分かってたんで 
「絶対に大丈夫だよ!」位しか言えなかったんです。家の方では父と私は仕事で疲れ、弟は高校受験を控えた中学3年で、私がお弁当を作り、夕食は弟がしてくれました。いつも「冷ややっこ」や「雑炊」ばっかりでしたが、文句ひとつ言わずに、感謝して食べていましたが、もう支払い請求が来ても、出来ずにガスは止められたり、バタバタしてる中において飼ってる猫が子供を産んじゃって17匹に増えるわで、もう家の中がメチャクチャって感じでした。でも、そうした中でも、勤行は当然、欠かさずに心いくまでやらせて戴き、仕事中でも、心ある方は、食べ物をくれて「コレを明日の弟さんのお弁当にいれてやって下さい」とか、本当に感謝の日々でした。 
でも信心が無かったら、ただ嘆いて、ただ落ち込んで、もうどうする事も出来なかったと思います。家族の事も母の事も。そうして3ヶ月間が過ぎてました。 
母のリハビリは静岡県の修善寺にある中伊豆リハビリテーションセンターと言う大きな施設でした。 

三平師匠が入ってらした事もあり、紹介して頂きました。そして入院し、検査を受けた後に、院長先生に呼ばれてました。母の最高のゴールは 
「歩く事は120%無理。車椅子生活で下の世話も自分で出来る所です」と言われました。それでもお母さんには、歩ける様になる為に頑張って下さい!と言ってあげて下さいと言われ、ご自宅の方も、車椅子での生活が出来る様に改造してあげて下さい、と言わまささた。 
私は東京へ戻り仕事をしながら、手紙や電話で母と語り合うのが精一杯でした。でも信心があったからこそ乗り越えられたと思うのです。この時の“嘆き”とか“悲しみ”を全て、御本尊様にぶつけて祈ったんです。自宅の方も大工さんに入ってもらいリフォームして、いよいよ退院だなと思った時でした。題目と学会活動を頑張っている時、奇跡が起きました。母が歩行器も杖も何にも無しで歩ける様になったんです。 
今でも中伊豆リハビリテーションセンターでも驚くべき記録として残っているそうです。 
医学も、カルテも血も肉も全てを超越して御本尊様の力で治ったんです。 
家族も、ただ嘆き悲しむ事なく、御本尊様に祈りぶつけたら治ったんです。私達の先祖における邪宗の害毒とかが、全て母に現れてしまったんですが、とにかく御本尊様に感謝の題目でいっぱいです。 

そうしてたら、今度は弟です。弟は中学3年生で高校受験の事もいつが受験日とか願書受付も、全て1人でやっていました。 
でも模擬試験の結果では「志望校の再検討を」と書かれ良くありません。 
弟のまさのりに「まさのり、こうなったら祈りで合格しなさい!」 
学力よりも祈る方の受験戦争でした。 
そんな弟に私は、勉強の夜食も作ってあげるの事が出来ませんでした。 
受験の前日に池田先生から、かつお梅を戴きました。だから受験当日、弟の昼食のおむすびの中には、そのかつお梅の梅を入れて持たせました。 
弟には、何もしてあげられなかく、 
不憫に思ったんですが、ソコでもまた題目でした。何かあれば、題目の力に任したのです。そうしたら、弟は創価高校の合格を頂きまして、本当にありがとうございました。 
弟は、現在創価高校1年生でして、母も自分の足で学会活動が出来て、仏壇の鈴を鳴らすと形相が変わっていた父も鈴を鳴らした音を聞くとニコッとした顔になります。 
皆さんも、家族における事故や怪我は本当に嫌でたまりませんが、信心における確信を持って乗り越えて行って欲しいと思います。 
「三障四魔」は多く生活する中に潜んでいます。「恋人」が反対しているだとか「親」が嫌ってるとか、でもそういうのを克服してる方は多く居ます。だから是非とも「勇気」を持って「確信」を持って頑張っていただきたく思っております。 

日本は宗教においては、無知で、芸能界なんて、もっともっと無知で、ピアスで耳に穴を空けるとツキが逃げるとか縁起を担ぐんですよ。耳に穴を空けて境涯が変わるってんなら私もブスブス穴を空けますよ。劇場には必ずと言っていいほど「キツネ」が飾られているでしょう?もう謗法(ほうぼう)の役が多くて。 
先日も来たんですよ。NHKから向田邦子先生の追悼番組で「男どき女どき」って言う番組が。その6割は「おびんさま」とか言って札所を廻って拝んでなきゃいけないんです。 
悩んでしまいまして、学会の本部へ行き、相談したんです。 
「私は、向田邦子先生の弟子でもあるし、この追悼番組は下りたくないのですが」って言い真剣になって聞き入ると、本部幹部の方がゲラゲラ笑っててね・・「一生懸命にやってきなさい!もう全国の学会の同志達が、驚く位に、岸本加世子は退転したんじゃないか?と思われる位に一生懸命に拝んで来い!間違っても嫌だな?って顔をせずに一生懸命に祈り拝んだ芝居をしなさいよ?」と言われたのです。 
でも「いつかコノ寺や神社や教会等にも御本尊様をまつってやるんだ!と言う生命力でやって来なさい! 
岸本君は女優なのだから、謗法(ほうぼう)では、ありません!この生命力で芝居をするんです!」と指導を受けたのでした。 
この間も森光子さんが座長で芸術座と言う所で森光子さんが主役の私が准(じゅん)主役と言う劇をやらせていただいたのです。初日の舞台では、出演者劇団関係者が揃ってオハライを受けるってんで、私は嫌だったんで遅れて行ったんです・・「すみません。道が混んじゃって」って言ったら「あんた、何かあったら困るでしょう?あんたは、准(じゅん)主役なんだから。お願いを言って待っててもらったから神主さんには・・」と言われちゃって(笑)それで仕方なくオハライを受ける事になってしまったんですが、よっぽど言ってやれば良かったと思ってます「私は、創価学会員です!」と。でも、その頃は、生命力も少なく、言えなかったんです。でも、これからは、どんどんと、学会に傷をつけない様に活動に出て、福運を付けて頑張って行こうと思うんです! 
芸能界って所では、華々しいし・・この身体がちょっと動いただけでもウン十万になるのです。下世話な話ですけれどもだから、周りが見えなくなっちゃうんですね。往年の大スターって言う人に今、会うと、ものすごく空しくて、ただ昔の虚栄にしがみついて全然幸せかじゃないんです。そういう人を見ると 
「本当に、今女優として主役とかをもらっているのは、この仏法の長い目から、永遠の生命から見れば、女優をやっている事なんて一瞬の事に過ぎないんだと思ったんです。だからどんな辛い事が一生のうちにあったとしても、無始無終の仏法では瞬間の事だろうと思うのです。芸能界でも、先程から言っている泉ピン子さんや山本リンダさんや、もう暇さえあれば、学会の方々と触れ合っているのですが、こうして今、私なんかが、偉そうに多くの諸先輩方を前にお話しをさせて戴いているのは、岸本加世子という小さな女優としての自信とかって言う、そんな事じゃないんです。 
女優として、一生懸命に頑張ってここまで来たから、一生懸命やらせて戴きますけど、でも女優が全てではありません。この信心が、私の本当の根本です! 
私には、信心しかありません。だから1女子部として皆様にお話しに伺ったわけで本当にこういう使命を戴いた事をうれしく思います。これからも、どんどん頑張ってまいります。テレビを見ていて、信心をしてると「やっぱ輝いてるねぇ?」と言われる様に、頑張って行きますので、今後とも、よろしくお願いします。失礼いたしました。