御義口伝

P.701

南無妙法蓮華経について、日蓮大聖人の御義口伝には次のように仰せである。
 「南無」とは梵語であって、これを漢語に訳せば「帰命」という。その帰妙する対境・対象に「人」と「法」とがある。「人」とは文底の釈尊即人本尊たる日蓮大聖人である。「法」とは末法の法華経であり、法本尊であるところの南無妙法蓮華経である。すなわち人法一箇の大御本尊に帰命することが、真実の中の真実の帰命なのである。 
 また「帰」というのは、迹門不変真如の理に帰するのである。「命」とは本門隨縁真如の智に命くことなのである。南無妙法蓮華経は、宇宙本源の絶対真理である。ゆえに妙法と唱えることによって、宇宙の本源に合致できうるのである。したがって、不変真如の理に帰したことになる。そして、その偉大なる妙法の力がわが生命活動に、生活の上に、顕現してくるのである。これ隨縁真如の智に命いたことになるわけである。結局、帰命とは、南無妙法蓮華経のことになるのである。
 釈には「隨縁不変・一念寂照」とある。隨縁真如の智も、不変真如の理も、ともに実在しているのが、生命の実体であり、本質なのである。これを妙法というのである。これすなわち、三大秘法の南無妙法蓮華経である。この御本尊に帰依することによって、絶対的幸福境涯たる成仏がかなうのである。
 また「帰」とは、われわれの色法を意味する。「命」とは、われわれの心法を意味するのである。この色法すなわち肉体・物質と、心法すなわち精神・心の働きが不二であると説く、日蓮大聖人の色心不二の生命哲学こそ、最高唯一の哲学なのである。この日蓮大聖人の、大宗教に帰依することによって、成仏の境涯、すなわち、色心ともに、絶対の幸福確立をなすことができるのである。
 また、仰せには、南無妙法蓮華経の「南無」とは梵語であり、妙法蓮華経は漢語である。梵漢共時に南無妙法蓮華経というのである。また、妙法蓮華経とは、梵語の薩達磨・芬陀梨伽・蘇多覧(サダルマ・フンダリキャ・ソタラン)を翻訳したものである。薩は妙を意味し、達磨は法を意味し、芬陀梨伽は蓮華を意味し、蘇多覧は経を意味するこの薩達磨・芬陀梨伽・蘇多覧の九時は、八葉九尊を意味するのである。これを生命論に約していえば、九界即仏界を表しているところである。
 妙法を無明・法性に約して説けば、妙は法性であり悟りである。法は無明であり迷いを示す。したがって妙法とうとき、すでに無明法性一体であることがあらわされている。蓮華とは、因果の二法を示し、因果一体、すなわち因果俱時をあらわしている。
 経とは一切衆生の言語音声をいうのである。しかして、章安大師が「声仏事を為す之を名けて経と為す」といっているように、南無妙法蓮華経こそ、最高の経なのである。また、生命が、過去、現在、未来の三世にわたって、永遠に続いていくことを経というのである。所詮、大宇宙も、わが生命も、森羅万象ことごとく妙法であり、蓮華であり、経なのである。宇宙生命の根源のことを、妙法蓮華経というのである。この中で、蓮華とは、八葉九尊という形式で示されている。以上のことを、よくよく思索しなさい。