葛飾文化 御書講義(四条金吾)

昭和57年11月30日

第六東京部長講義(当時)

四条金吾殿御返事(此経難持御書)P1136

強盛な信心と折伏精神を御書から学ぶ


今回の、中級試験「非常に厳しかった」という話があるんですけれど、厳しかったわけではないんですね。勉強していなかっただけの話なんです。やはり、教学を決して馬鹿にしてはいけない。簡単にチョロチョロと勉強して身に付くものでは絶対ないんです。

まして六巻抄は講義がなく試験だけということがあったんですから、条件は非常に悪かったんですけどね。やはり真剣に、もっともっと勉強しなくちゃいけない。そういう面で男子部がもっともっと大聖人の仏法というものを、身に付けていかなくちゃいけないと思うんですね。


池田先生は「学会の基盤は出来たんだ。大事なことは、強盛な信心と折伏精神だ」といわれた。

その強盛な信心と折伏精神というものをどこから学ぶかといえば、それは御書から学ぶしかないんです。その上で創価学会の実践の中で学ぶしかないんです。創価学会の歴史の中で、また現実の実践の中で学ぶしかないんです。

今、男子部にしても学会二世が増えてきている。

その中で大事なことは、「信心とは何か」という基本が非常にあいまいになってることだと思うんですね。

だから信心が「会合型信心」「活動型信心」になってるんですね。だから「会合」に出れば信心がある、あるいは、皆と動いていれば信心しているみたいな錯覚があると思うんです。

「会合」とか「活動」が要らないという意味ではなくて、信心の一つの場面ではあるけれど、信心の本質ではない。そうゆう面で「何の為に信仰する」のか、「信心てなんなのか」という、一番基本の部分をもう1回確認して、それを打ち込んでいかないと、特に男子部は強くならないと思うんです。


創価学会は指導主義


よく、組織を強くするという話がある。どうやったら組織が強くなるか、組織なんて言うものはどこにもないんです。組織というものは観念のものであって、人間と人間がつながっているものなんです。だから、組織を強くするということは、一人一人の信心を強くするしかないんです。その信心を強くするにはどうしたらいいのか?それには信心を教えて実践させて、結果を出させることです。それしかないと思うんです。

創価学会の中でよく言われていることは、

「指導」「教授」「訓練」「擁護」とあります。

「指導」とは「教え導く」こと「教授」は教えること

「訓練」はやらせること「擁護」とは守ってあげること

創価学会はあくまで「指導主義」なんです。戸田先生以来「指導主義」であって「教授主義」ではないんです。

信心は「理論」を教えられるけど、信心は根本的には「指導」なんです。


その上での「教授」「訓練」「擁護」はなければいけないけど、根本は「指導」なんです。その上で「教える」事もあれば、「やらせる」事もあれば「守ってあげる」事も必要なんです。根本は「指導」なんです。「指導」がなくて「教授」と「訓練」と「擁護」ばかりだと本当の成長はないんです。そういう面で「指導」「訓練」があれば必ず人は「育つ」んです。「教授」ではないんです。



指導とは決意させること

 

その「指導」とは何かというと、結局それは「御本尊」へ向かわせること。その人の「一念」を「御本尊」へ向かわせること。簡単に言えば「発心」させること「決意」させること。「指導」とは「決意」させること。「発心」させることと言っていいんですね。その上で、いろいろなことを「教えてあげる」あるいは「実践させる」あるいは「守ってあげる」事は必要です。根本はあくまで「指導」なんです。「指導が」下手をすると今、出来なくなってる。色々なことを教えたり、動かすこと、守ってあげることは出来るかもしれないが、根本の「指導」が出来ないと人は育たないんですね。だから下手をすると幹部が「運営上手」の「指導べた」になってしまう。

組織とか会合の「運営」はうまくなったけれども「指導」が出来ない。「決意」させる事が出来なくなっているんですね。これが一番恐いことだと思うんです。その「指導」というのは、結局「御本尊」を拝もうと「決意」させる事であり、その前提として、信心とは何なのか?何の為に信心するのか?

また、どうゆう風に信心すればいいのかが必要なんです。この信心の基本というものを「御書」から「学び」その原理を一人一人のなかに打ち込んで、訴えて「決意」させていくことですね。これが「指導」になるんです。


相手が「決意」して「実践」すれば必ず「成長」するし「後に結果が残る」。これが「指導」「訓練」なんです。



大事なことは「指導」することなんです。「指導」の原則というのがあるわけです。それは「御書」の中にあるし、また代々の会長の指導の中に全部含まれている。そうゆうものを本当に自分のものにして、今度は、それを「実感」をして訴えていかなければいけない。

「理論」として訴えてはいけない。「頭で分かった」ということと「出来る」ということは別問題です。

「やる」ということと「結果が出る」ということは別問題なんです。だから本当に「結果」の出たものだけがちゃんと「やった」ということになるのです。結果のでない活動をしてもしょうがないんです。そうゆう面で、折伏にしても、結集にしても、どう結果を出すかということが一番大事ですね。ではどうすれば「結果」が出るのかということです。


頑張ろう、これだけやらなくちゃならないということは沢山あるけれども、どうすればそれを実践して、そして「結果」を出せるかということが大事になってくるのですね。簡単に言うと「信心」しかないんです。


「信心」とは何か?「信心根本で頑張ろう」という話はみんなします。でも「信心根本とは何か?」という話はあまりしないんです。


一応「拝んで」「動いている」事が信心根本だと思ってね、その割に「結果」が出ないんです。そうゆうのを「信心ポンポン」というのです。信心がすっ飛んじゃっている場合があるんです。そうゆう面で「信心の基本」をもう一回我々が確認をして「実感し」「実践をして」それを訴えていくかということが大事なのです。

 

教学は信・行のあり方を学ぶ

 

池田先生の「伸一会」での指導、「観心本尊抄」に学ぶのなかに「教学の姿勢」については述べられています。

「信心というものは分かったと思ったら増上慢なんだ」

「御書が分かったといったら増上慢だ、わかんないと言ったら謗法だ」と戸田先生はいわれた。どっちでも駄目なんですね。分かろうとしていく中に信心がある。ということなんですね。


先生が「信心から昇華された本当の教学であるならば、自ずから悩める友、悲しむ友に正法を教えていこうという折伏を行じていくのが当然である。教学は、あくまでも正しい"信・行"のあり方を学び、実践するためであり、一生成仏、広宣流布の為にあるのです」と言われてます。だからいつもいうように「学」と言うのは「理論」のためではなく「信」「行」を学ぶためにあるんです。


信・行・学、とある。

「信」で大事なことは「何を」「なぜ」「どう信ずるか」と言うことです。


「行」で大事なことは、「何の為に」「どう実践するか」と言うことです。


だから、教学とは「信」「行」を学ぶとこう読むんです。


「学」と言うのは、「実践」の為なんです。「理論学習」ではなく「信心学習」なんです。その学んだことによって、それが「信」が深まりバネになっていかなければ学んだことにはならないんです。


例えば御書学習会をやります。

部員さんが、どうゆう風に感じて帰るかが大事なんですね。分かったかどうかではないんです。

「今日の話は良く分かった。早く帰って寝よう」と言うのが失敗なんですね。「話は良く分からないけれど、とにかく信心しなければ駄目だ、題目をあげなければ駄目だ、折伏しなければ駄目だ、」と「決意」して帰ったら大成功なんです。

そういう面では「会合」はあくまでも「発心」の場でなくてはならないんです。下手すると「発心」の場ではなくして「重荷」の場になんかにしちゃったりしてね。がっかりして帰ることが多いんですよね。これじゃ意味がない。


「教学」はあくまでも「信・行」を学び、その事が「一生成仏・広宣流布」

につながっていかなくてはならない。


「御書」を読むたびに、自分の信心を見つめて「これじゃいけない」と「発心・奮起」していかなかったら、「御書」を読まなかったと同じだと、先生は言われています。そういう決意で御書を拝読して参りましょう。

 

この御書は、文永12年の3月に日蓮大聖人が佐渡から帰られて身延に入られた翌年のお手紙です。

文永11年の9月、前年の9月に日蓮大聖人が佐渡から帰られて身延に入られた。

そのことから四条金吾が一大発心をして主君を折伏をします。主君の江間氏と言うのは念仏の強信者なんですね。

極楽寺良観の信者でもある主君を折伏して、そのことで、主君から疎まれる。

それから同僚が全部極楽寺良観の信者ですから、裏で策謀して、四条金吾に対する迫害が始まります。そうゆう事から四条金吾がおもわず、愚痴をこぼした。

「こんなはずじゃなかったのに」と愚痴をこぼした。その事を縁としてその報告を聞いた日蓮大聖人が、四条金吾を指導したのがこの御書なんですね。


本文

四条金吾殿御返事 

 

御書全集1136頁 文永12年3月 54歳御作

 

此経難持の事、抑弁阿闍梨が申し候は貴辺のかた(語)らせ給う様に持つらん者は現世安穏・後生善処と承って・すでに去年より今日まで・かたの如く信心をいたし申し候処にさにては無くして大難雨の如く来たり候と云々、


《講義》

 

悩み、問題が起きたときがチャンス

 鎌倉に日蓮大聖人がいないあとは、弁阿闍梨日昭が鎌倉の中心者です。

その日昭がいうには

「あなた、四条金吾は、「持つらん」「法華経を持つ者は現世安穏・後生善処と承って」と聞いていた。去年から

「かたの如く」いわれた通り信心をしてきた。ところが、「さにては無くして」現世安穏どころではなくて、「大難雨の如く来たりて候」かえって信心を頑張ってきたら大難が雨の如く降ってきた。

おかしいじゃないかと、つい「愚痴」をこぼしたのです。日蓮大聖人だったらそのようなことはいいませんけれど、相手が日昭ですから気安くつい言ってしまったんですね。


「真にてや候らん又弁公がいつわりにて候やらん」

私にはとてもそのようなことをいったとは信じられない。


「真にてや候らん」

日昭がうそをついたのかもしれない。


この事は本当なんですけれど、四条金吾をかばってあげたのですね。

「そのようなことはないと思うけれど」と日蓮大聖人はおっしゃっているんです。

「いかさま・よきついでに不審をはらし奉らん」

ちょうどいいチャンスだから、その不審をはらしておきましょう。


これは信心をしている人が「疑問」を持った時 がチャンスなのです。

また問題にぶつかった時がチャンスなんです。何にも悩みがないときはそう簡単に信心できないのです。何か悩みに直面した時がむしろチャンスなんです。


そうゆう事で、四条金吾が「不審」を起こした今、難にあっている。

「チャンスだ」ここで「不審」をはらしておかなかったら大変だ。あとで尾をひいてしまう、ここですっきりしておかなくてはいけない。

このようにおっしゃっているのですね。

これが「指導」のコツになるのです。



「何かあった時がチャンスだ。よしここで、しっかり信心させよう。悩みがなくて「チャランポラン」な信心をしていた人がいた。よしここでチャンスだ、そうゆう風にこっちが決めるのです。


「困ったな、あんなに題目をあげて折伏をして頑張っているのに悩みが起きた」困ったなと思ってはいけないんですよ。信心をしていて、色々なことにぶつかる。


一つは、その人の持っている宿業が出てくるのです。もう一つは、

「信心がチャランポランな為に行き詰まる」ということがあるのです。


本質的には、全部自分の中に持っているものが出てくるのですけれど。「行き詰まっている人」と言うのは、悩みがあるから行詰まっているのではないんです。「信心」が行き詰まっているから行き詰まっていると考えるのが、正しいのです。悩みがあろうと問題があろうと「信心」がある人は行き詰まりはないんです。何にも悩みがなくても「信心」が行き詰まっているから問題が出てきて行き詰まっているのです。


そうゆう面で、その人の一念を「指摘」してあげればいいのです。


悩みの内容がどうのこうのと言うことは、あまり関係 がないのです。

仕事の問題がどうのこうのか…信心をしている場合は、悩みの内容がどうあっても指導は出来るのです。


それは相手の一念を正せばいいのです。指導してあげればいいのです。


その指導と言うのは「決意」させればいいんです。「御本尊様」を拝めば解決するんだ、さあチャンスだ。宿命転換のチャンスだ、ということを相手に訴えて「決意」させればいいんです。

それから「変わり」始めるのです。そうゆう面で「何かあったとき」がチャンスだということですね。

 

現世安穏とはどんな悩みや、問題にも負けないこと

 

信心してても「難」がある「問題」がある。「現世安穏」といっても「悩み」が無くなることではないんですね。

どんな「悩み」や「困難」に負けないで、それを「プラス」に変えていけるということが「現世安穏」なんです。


「悩み」が無くなることじゃない。

「負けなく」なることであり、どんな「悩み」も「プラス」に変えていけるということが「現世安穏」なんです。


戸田先生はこうおっしゃった。

『日蓮大聖人様は佐渡に流罪されて、いつ飢え死にするか、凍死するか暗殺されるか分からない。ある意味では地獄です。そうゆう状況の中で日蓮大聖人は、「日蓮は流人なれど喜悦はかりなし、日本一の富めるものなり」とおしゃったのです。そうして、開目抄とか観心本尊抄を書かれてる。安心しきっていらしゃるんです。何にも心配がない。

そうでなければ、あのような大論文が書けるわけがない。と同じように、信心するということも悩みがなくなるんじゃないんだ。どんな悩みが起きたって根本は安心しきっていけるということではなかろうか。病気になった。

「さあ、御本尊を拝めば大丈夫だ」

「問題が起きた!さあ信心で解決しよう」とこうゆうふうに、なれば根本は安心しきっていけるということなんだ。』と良く言われたんですね。


牧口先生はこう言われた。

『病気をした。これは罰だ。と何故だったんだろうと悩んでもしょうがない。

それだけでは解決はしない。そこでこの病気を必ず変毒為薬してみせる。健康という大福運を開いてみせると確信をして、決意して信心を続けていくことが大事なんだ。そうすれば病気が治るだけではなくて、全快した ときには以前より健康になるのが変毒為薬の妙法の功徳なんだ』といわれた。

病気したら前より健康になればいいんです。治っただけじゃいけないんです。

前より健康にならなくてはいけないんです。失業したら前よりいいところに就職すればいいんです。そして同じ事で二度と悩まない。これが宿命転換した証拠なんです。

仕事の事でまた悩む、しばらくしてまた悩むというのは宿命転換していないんです。

ですから宿命転換すれば、同じ事で二度と悩まなくなるんです。それが大事なんです。病気が治っただけでは、マイナスがゼロになっただけです。ゼロでは駄目なんです。プラスにならなくちゃ駄目なんです。前より健康にならなくちゃいけない。失業したら就職ができた。これは、マイナスがゼロになっただけなんです。前よりいいところに就職しなくちゃいけない。プラスにならなくちゃいけない。しかも、同じ事で二度と悩まないことが、宿命転換した証拠なんです。でないと、また同じ事を繰り返す。これじゃいけないんですね。これはダルマですね


耳をつけると、起き上がりこぼしになります。ダルマは謗法だけど、起き上がりこぼしは謗法ではない。


前の第六東京井上男子部長(当時)の井上県長が島根県にいったでしょ。

そこで謗法厳禁とやかましくいったんです。そこの会員さんのお店の名前がダルマ食堂といっていた。長年ダルマ食堂で来たわけです。「ダルマ食堂」って謗法でしょうかと、井上県長に指導を受けに来た。そして井上県長から私(河合師範)のところに電話がかかってきたんです。「ダルマ食堂」って謗法でしょうかと。「ダルマ食堂」って名前そのものを拝むわけではないから謗法とは言えないかもしれないけれど、でも邪宗の教祖の名前をつけることはないでしょ。

「弘法食堂とか、法然食堂とか名前をつけますか?」それと、同じ事ですから、それで井上県長が「大福食堂」と名前をつけてあげたそうです。ダルマというのは、行き詰まっている姿ですからね。

手も足も出ないんですから、縁起のいいものではないんですよ!

これは起き上がりこぼしです。起き上がりこぼしは、触ればゆれるけど、ほうって置けば必ず安定しますね。それは、起き上がりこぼしの底に重たい重心が入っているから、触ればゆれるけど、最後は安定するんです。この重心が重いほど安定度は増しますね。重心が上の方にあるとひっく り返ってしまいますね。


仏界の重心を重くすれば重くするほど、何があってもすぐに元に戻るんです。

命の重心を重くすれば、何があってもゆれが少なくなってくるのです。そして、根本は安心しきっていける。そうゆう面ではそれをどう乗り越えていくかということが問題なんです。


負けなければいいんです。悩みがあることは恥ではない。信心しているものとして、いつも同じ事で悩んでいるのは恥じなんです。そして、その宿命に振り回されているということなんですね。結局それは、命が弱いからなんです。 


(氷山の絵)


このように氷山があります。

氷山の一角といわれるように、水の上に出ているのはほんの一部なんですね。

水の上に出ている部分を悩みとします。この部分だけが宿命ではないんですね。宿命の現われに過ぎないんです。人の生命は宿命の固まりなんですね。

水から出た部分が悩みなんです。

この悩みを方法で解決したとします。

病気になった、医者で治した、悩みはなくなった。ところが氷山は上の部分がなくなると、また下の部分が出てくるんですね。今度は家庭の問題であるとか、

そのうちに氷山の下の部分が膨れてくるんですね。きりがないんですね。

ですから元を断たなければ駄目なんです


生命そのものを変えなければ、悩みの形が変わるだけで、悩むことに変わりはないんです。その生命そのもの弱い醜い命を、どうきれいにするかということが信心なんですね。だから悩みが起きた時がチャンスなんです。

悩みが出てきたということは、その人の宿命が出てきたわけですから。

信心して出てきた場合には、これは解決する為に出てきたんです。


ちょうど借金がある。

借金を返していないと取り立てに遭いますね。取り立てにあったようなもんなんです。

戸田先生は「癖が出るのを罰という」といわれた。この「癖」というのは、命の「癖」つまり「宿命の癖」が出るのを「罰」・「不幸」というのだ、と言われた。

「罰」というのは「仏様」や「神様」があてるのではないんですね。

自分の中にある「癖」が出てくるんですね。ですから「罰」は出るもんなんです。バチが当たるのは太鼓だけ。

その出方が問題なんですね。

信心をしている場合には「転重軽受」。

これを現代的に言うと大型割引ということなんですね。

どんなに信心頑張っても借金がゼロにはならないんです。ですから信心をしていて「悩み」が出てきたということは「転重軽受」するチャンスなんです。

ここに百万円の借金がある。

とても返せない。十万円に負けてやるからすぐに払うかと言ってきたようなものなのです。払ってしまえば、百万円の借金は無くなるんです。ですから急いで払ってしまえばいいんですね。払わないと結局差し押さえにあうんです。

だからチャンスなんです。


ですから、「悩み」が出たときに百万円の借金が十万円で済むんですから十万円払ってしまえばいいんです。よし、チャンスだと「決めて」やれば「軽くすんで」後に「福運」が残るんです。

ですから問題が出た時がチャンスなんです。そのように、まず自分が「決めて」

相手に「決めさせる」しかないんです。

そういう面で「命」が強いか弱いか。


「命」が弱いから環境条件に負けて悩みだらけになるんです。

「命」が強くなれば環境条件に負けないで環境条件を変えていけるんですね。

結局全部「命」の問題なんです。

「命」の問題は「信心」の問題。「信心」の問題は「決意」の問題になるんです。

 

《本文》

法華経の文に難信難解と説き給うは是なり

 

《講義》

信心をすると難が起こるというのも過去に謗法があるから、今難にあっている。

難にあうことによって過去の謗法の罪が軽く消えているんです。


戸田先生は「難を呼び起こす信心」といわれた。それは早く借金を返せるのだから、難を喜んで受けて借金を返してしまえばいいんです。そのように難信難解と説かれるのはここにあるんです。

 

《本文》

この経をききうくる人は多し、

まことに聞き受くる如くに大難来れども

億持不亡の人は希なるなり、

 

《講義》

法華経を聞いて信心をする人は多い。

だけど、<まことに聞き受くる如くに>御書に出てくるように、信心をすれば「三障四魔」「三類の強敵」が起こると経文に書いてある。


<聞き受くる如くに>

言われた通りにということです。

現実に言われた通りに「難」が起きてくる

「宿命」が出てくると<億持不亡の人は希である>ということなんです。


池田先生はこう言われた。

「御書に書いてあるではないですか。

難がある。三類の強敵が出てくると書いてあるではないですか。御書に書いてあるのになんで疑うんですか。御書に書いてある通りではないですか。日蓮大聖人がおっしゃられたその通りだと思うことです」といわれました。


だけど、現実に自分の問題になってしまうと疑ってしまう。

だから「境涯」が開けないんですね。


<聞き受くる如くに>いつも聞いているように大難が出てくるよということです。それでも忘れずに持つ人は希である。と言うことです。

 

《本文》

受くるは・やすく持つはかたし・

さる間・成仏は持つにあり

 

《講義》

<受くるは・やすく>

御本尊を受持することはやさしい。

生涯信心を貫くことは難しい。

広布功労賞を受けられた指導部の方が見えました。年配の方なんですけれど、御自身の病気のことで相談に見えました。「借金の残りがあるから取りに来たんですね。返してしまうしかないじゃないですか」と話をしました。


《南妙法蓮華経は獅子吼の如し、いかなる病障りをなすべきや》という御書がありますね。と話をすると、この方が

「この御書はいつも指導のときに使っていました」というんです。


人には指導するのは簡単だけど、自分の身になるとやはり惰性になっているんですね。

この御書の通りにならないということは、

「《獅子吼》ではないんじゃないですか《豚吼》ぐらいじゃないんですか」

といったんです。ブウブウいって頑張っているんですからね。こんなにやっているのにってね。


結局惰性であり不信になってしまっているんですね。だから過去にどんなに頑張ったって、広布功労賞をもらったとしても、過去の功績であり、今の信心ではない。今の信心が退転して不信だったらば結局成仏は出来ない。


だから今こそ、もう一回宿命転換していくんだ。とこう決めることが大事だ。

という話をしました。

その方は「確かに信心が惰性になってました。」といわれてました。それから病気を治し元気になったそうです。

だから信心を貫くことは難しいんです。


指導部の方が信心に行き詰まっている方が時々あるんです。飛行機でも着陸が大事なんです。着陸寸前でおっこちてはいけないんです。こうゆうのを片桐型信心って言うんです。着地に失敗してはいけないんですね。着地しなくちゃだめなんです。着地するときに事故の7割が起きるんですから。信心も同じなんです。

最後に悔いがなかったという人生じゃなくちゃいけない。


そうゆう面で、確かに《受くるはやすい》んですね。

《持つはかたし》なんですね。

生涯貫くことは難しいんです。

《さる間・成仏は持つにあり》

持つって事ですね。


これをもっと身近な問題にすると

《受くるはやすい》これは、決意するということですね。決意することは簡単なんです。でも決意を持続することは難しい。大抵、途中で、ごはさんになるでしょ。結局結果が出ないんです。実証というのは決意の持続にあるんです。決意したことをやり通せば結果は必ず出るんです。決意の持続が実証なんですね。

実証が出ない、結果が出ないということは、決意があいまいか、持続しなかったかどっちかなんです。

 


決めて・祈って・動けば必ず結果が出る

 

ある壮年部の方のところに訪問したときに、仏壇の脇に決意が書いてあったんです。なんて書いてあったかというと

「お題目はなるたけ上げる・できたら折伏をする・なるたけ早く就職をする」

と書いてあったんです。

立派なように見えるけれども、全部決意になってないわけなんです。

「お題目はなるたけ上げる」というんですから、「出来るだけ上げる」というんですから、「出来なければ上げない」ということですから。

「できたら折伏をする」は「できなければしない」ということですから。


そこで、決意と目標があいまいで実践があいまいでは結果は出ませんね。


と話をしたそうです。

それから「お題目を1日1万遍、1ヶ月で就職しよう」と決意したそうです。


そうして祈って折伏が出来たのです。

1ヶ月目に前よりいいところに就職できたのです。

決意と目標があいまいで実践があいまいでは結果は出ないんです。決意と目標を明確にしてきちっとそのとおりにやれば結果が必ず出るんです。

決めて・祈って・動けば・結果が出る。

というのが信心の方程式なんです。

決めて・祈って・動いて、結果を出すというのが戦いなんです。どんな戦いでも、決意して・目標を決めて・真剣に祈って・実践して・結果を出す、というのが戦いになるんです。

なんとなく動いて活動をしていればいいんじゃないんです。これでは活動ではあるけれど戦いにならない。

戦いというのは結果を出すことです。

勝たなくてはいけない。

だから、決めて・祈って・動いて結果を出す。というのが戦いになるんです。

なんとなく動いているのが活動。

結果を出すのが戦いなんです。

折伏したけど出来なかった。ということは戦いになっていなかったということです。

どこかがあいまいだったんです。

決意があいまいか、祈りがあいまいか、実践があいまいか、だったんです。

だから結果が出なかったんです。

これは絶対に間違いありません。

これをもう一度点検しなければいけない。決意と目標が明確で、真剣に祈って動いて結果が出ないわけ絶対にないんです。戦いとはこうゆうことなんです。

個人においても同じなんです。

決意と目標が明確にして頑張った人は結果が出ます。結局、決意と目標があいまいで、祈りが弱くって実践があいまいでは結果は出ないんです。


この事を教えてあげるのが指導なんです。どう決意させるかということが問題なんですね。

相手が決意して頑張れば結果は絶対出るんです。

決意と目標を明確にして頑張っている人決めて・祈って・動いている人、を前向きの信心というんです。


なんとなく頑張っている惰性の人、これが横向きの信心。

不信で頑張っている人、後ろ向きの信心というんです。

行き詰まっている人は必ず惰性か不信なんです。頑張っているようだけど不信か惰性なんです。だから、信心が行き詰まっているから行き詰まっているんです。それを「決めて」「祈って」「動く」前向きの信心に変えさせればいいんです。


そうすれば、必ず変わってくるのですね。ですから、指導とは相手の信心が「不信」か「惰性」ですよと気がつかせてあげればいいんです。そして、「決意して」「祈れば」「結果」が出ますよと「決意」させればいいんです。

あしろこうしろなんてことは必要ないんです。本人がどうやるかは本人次第。


たいていは「決意」することをさせないで「やること」を強制させてしまうんです。その悩みだったら2時間題目を上げなさい、とか言うわけです。これは、悪くはないのだけれども、相手に押し付けたのでは結局重荷になってしまうんです。

本当の「決意」ではないから、「言われた決意」だから。「言われた決意」というのは長続きしないんです。結局「押し付け」だから。本当の「発心」ではないから。

本当の「発心」ならば何をやってもかまわないんです。1日2時間の題目を上げようと本人の勝手なんです。本人が決めたものなら出来るけれど「言われたもの」はやったとしても「重荷」になってしまうんです。結局これは「惰性」になってしまうんです。

その上、結果が出ないんです。

これではいけないんです。

「決めて」「祈って」「動けば」「結果」が出るんです。

「百万遍の題目を上げて折伏をやってご覧、必ず解決します」と、このように言うのはいいんです。

百万遍をどうやるかは、本人次第。

1ヶ月でやろうと、2ヶ月でやろうと、3ヶ月でやろうと、半年でやろうと、

1年でやろうと、10年でやろうと、

それは本人次第なんです。

100年かかってやろうとそれはかまわないんです。あくまでも、本人次第。

百万遍の唱題に挑戦し折伏をして結果を出させることが大事なんです。そう決めて指導すれば自然に活動に参加するようになります。形から入ったら「惰性」になってしまうんです。

「決意」から入ったら「信心」になるんです。だから、「決意」させる事が「信心」なんです。そうすれば、後は言わなくても一緒に活動できるようになるんです。


心が動けば体はついてくるんです。体だけ動かしても心がついてこなければ空回りになるんです。

だから

「言われたからやっている」

「やらなくちゃならないからやってる」「なんとなくやってる」

「なんとかなるからやってる」

こうゆう一念は全部「受け身」なんです。「受け身」=「惰性」ということ なんです。惰性だと必ず重荷になるんです。

そうすると、活動が苦しくなってしまうんです。

したがって「結果」が出ないんです。

そして「愚痴」と「文句」が出てしらけてくるんです。

これを「貧心コース」というんです。

「信心ごっこ」とも言うんです。

本人は「信心」をしているつもり。

確かに信心をやっているかもしれないが結果が出ない信心なんです。


結局最初のスタートが間違っているから。自分の決意じゃないから、言われた決意だから信心が空回りになってしまうんです。ここに問題があるんです。


大阪の男子部の方が相談に見えました。建築業の方なんですけれども5000万円の借金を抱えて倒産寸前だって言うんです。仕事を辞めたいというんです。

話を良く聞いてみると「昔頑張った」というんです。昔頑張っていても今頑張っていなければしょうがないといったんです。

どのくらい題目を上げているんですかと聞いたら30分って言うんです。

30分で悪いとは言えないけれども、

少なくとも深刻な悩みのある人の題目ではないですね。事業が倒産しそうで大変だという時に30分の題目でもたない。その程度では、生きているのが精一杯ですね。そんな信心は宿命転換の信心ではない、それからこの話をしたんです。

結局「惰性の信心であり不信じゃないですか」といったんです。

「こんな信心をしているのにと思っているんでしょう」と聞いたら「思っているって言うんですね」惰性の信心であり不信なんです。しかもこの方は元念仏だから、人にだまされて、すぐあきらめて、愚痴を言って、頑張っているんです。

まさに、念仏型で頑張っているんです。

創価学会念仏風の典型なんですね。

そこで、その人の一念をはっきり破折したんです。そして本当に決意したんです。その後手紙が来ました。

決意してから折伏できなかった大B(当時)も6世帯の折伏が出来たそうです。

そして大Bの雰囲気も変わってきた。

1日1万遍の題目を上げて百万遍の題目に挑戦して、来年一杯で借金も返済するといっていました。21年間の信心は空白だったといってました。

今は信心をして充実感と喜びでいっぱいですと手紙が来ました。決意して自分に挑戦し始めたら変わったのです。信心とはこういうものなんです。信心を何年やろうと、惰性の信心では何にもならないのです。

本当に決意して自分に挑戦した場合には、苦労はあるかもしれませんが必ず結果は出ます。それが信心なんです。

そういう信心しなければつまらないですね。最近は学会二世が増えていますから、学会二世というのは生まれつきの惰性ですからね。信心の体験がなくてそのまま来ている人が多いですからね。

人柄はいいのだけれども弱いんです。

体験がないから、何かあると挫折してしまうんですね。何の為に信心をするのかということを教わっていないんです。

勤行と活動だけは教わっているのだけれども、そうゆう意味では自分の意志で信心を始めたわけではないんですね。自分で決意して初めて信心になるのです。


だから、信心とは

1.自分自身で決意して、


2.自分を変えようという変革の目標と実践の目標を明確にして


3.御本尊様に真剣に祈り実践すると


4.苦労はあっても必ず結果が出て、喜びと福運が残る


これが信心なんです。体験のない人は、本当の決意をしたことがないんです。

一時的に文化祭を頑張ろうと、活動の決意はするけれど、自分自身を根本的に変えようと決意していない場合が多いんです。活動の目標は持っているのだけれどそれが終わってしまうとガックリしてしまうんですね。

文化祭は頑張ったけれども、文化祭が終わったとたんに勤行しなくなってしまったという人、大勢いるでしょ。

すぐ落ち込んでしまうんですね。

自分自身を変えようという決意があった上にそのために活動を頑張るんだということが大事なんです。そうすれば活動が全部生きてくるんです。活動の為だけの目標だと自分自身の変革はないんです。

そうゆう面で何を決意して何を目標にしているかということが大事なんです。

今度はその決意を持続したときに必ず結果が出るんです。決意させるには自分を見つめさせることです。環境に負けているどうにもならない自分に、そして宿命に気がつかせることです。こんな自分ではいけないと気がつかせてあげる。それではどうしたらいいか、これではいけないと思うようになります。

そこで何をいつまでに、どう変えるのかを決意させるのです。決意と目標を明確にして、即、実践に入らせる。

後は激励して、決意を貫かせてあげれば体験が出来るのです。体験が出来れば強くなれるのです。後は、この繰り返しです。

 

信心を深めるとは体験を積むこと

 

信心を深めるということは、体験することしかないんです。理論だけ勉強しても信心は深まらないんです。命で感ずるしかないんです。

牧口先生は「宗教というものは体験する以外に解るものではない」とおっしゃられた。仏法も体験して、命で感じなければ駄目なんです。

教学だけ勉強しても仏法は解らないんです。教学を勉強して信心しなければ駄目だということを学んで、初めて教学が自分のものになるんです。


御書を100回読んでも御本尊様を拝まなければ信心は解らないのです。

そうゆう面で、信心とはどう決意して、実践してやり通すかというところにしかないんです。

無疑日信という言葉があります。

疑い無きを信という。

信ずるとは疑わないということです。

どうすれば疑わないか、体験すれば疑わない。どう体験するのか、それは決めて祈って、動くしかないんです。

決めて、祈って、動けば、必ず体験できるのです。ですから、信を深めるとは体験を積むしかないんです。

その繰り返しなんです。

人間というのは自分の為にしか決意しないという言葉があるんです。自分の為だから決意するのです。

人の為になかなか決意できないのです。仏法は人の為でも自分の為でもかまわないんです。そして、自分の宿命転換の為に折伏をするんです。

これが、相手の為になり広宣流布の為になるんです。人の為に祈ったことも、全部自分の功徳に帰ってくるんです。犠牲はまったく無いんです。自分の為からスタートして、相手の為を祈って折伏をする。根本は自分の為なんです。

一切の戦いを、決意と目標を持って頑張っていけば成長できるのです。それがなくてただ頑張っていると結局惰性になり形式的になってしまうのです。

そう言う面であくまでも自分自身の幸せのためであり、一生成仏のためであり、同時にそれがみんなのためになり広宣流布のためになっていくのだとそう信ずればいいのですね。

本当にそう実感すればそうなるんです。

そうすればいくらでも力が出るんです。ただ、広宣流布のためという観念だけで頑張っているから、人材があまり育たないんですね。そう言う面で、どこまでいっても体験するしかないんです。

今度は、部長が話で話をしてもだめなんです。自分で決意して、実践して実感したものを訴えると相手に入るんです。

実感しないものをいくらいい話を聞いて話してもだめなんです。

相手に入るのは、こちらの一念が入るのであって、実感が相手に通じるのであって、言葉が通じるんじゃないんです。

理屈が通じるんじゃないんです。

折伏でも同じことですね。

わかりましたというのに三種類あるんです。


1.ガミガミガミっと言うとわかったようるさいな、というわかり方、よく男子部の会合で「頑張ろうじゃないかと言うとオー」というけど全然頑張らないのね、この口ですね。義理が悪いから「オー」って言うけどね。

こういうのを「総論賛成・各論反対」というのです。みんなで頑張ることは賛成、個人で頑張ることは反対なんです。


2.理論的に説得すると「理論的にはわかりました」というわかりましたというのがあるんです。これは、理論的にはわかっただけで、実践にはならないんです。


3.「わかりました、やります」というのが本当の説得、納得になるんです。

 二番目は説得。三番目は納得なんです。納得というのは単なる理論じゃないんです。命の説得なんです。

 「あなたにそこまで言われちゃしょうがない、やりますよ」「わかりました、やります」というのが命の説得なんです。

 結局私たちは、相手のために祈った一念が命の説得になるんです。折伏にしても、指導にしても同じなんですね。


組織の再建屋という壮年の大B長さんがいます。再建屋というのは組織を再建するんですね。特別なことは何もしないんです。最低の組織にいって最高の組織にしてしまうんです。それで再建屋というあだ名がついたんです。この方がこう言っているのです。


「私は相手の家を訪問するときに、相手の事を御本尊様に祈ってから訪問するんです。自分に厳しくして祈った分しか相手に通じませんね。祈ってぶつかって、祈ってぶつかって、その繰り返しなんです」

そして、その一念で相手の方を建ちなおらっしゃうんです。そのようにして一年位するとすばらしい大Bになってしまうんです。壮年部が一人しかいない大Bが壮年が20人くらい集まる大Bにしてしまうんです。すると、またほかに派遣になっていくんです。

で、またその組織を良くしちゃうんです。それで再建屋というあだ名がついたんです。再建屋は少ないですね。壊し屋は多いけど。結局方法はないんです。

ただ、一念なんです。いつも言うように、理論で相手に話をしても、相手に通じることは少ないでしょう。

これは、家族でも、親子でも同じなんです。言葉で通じることって少ないんです。ではどうするか?


直通はだめなんです。御本尊経由でいくんです。必ず通ずるんですね。遠回りで、一番近道、御本尊経由が一番近道、一念は通じるんです。言葉は通じない、一念のこもった言葉は通じるんです。

命の説得だから。


そうゆう面で根本は全部決めて、祈っちゃうことなんです。本当に部員のために祈っているか?基本的に言うと、あんまり祈っていないんです。

祈っている人も、いなくはないけどね。

男子部は勤行しないんですよ、基本的に言うと。部長クラスでも勤行している人は少ないですよね。3割くらいか5割くらいかと思っていますけどね。やる気はあってもなかなかできないでしょ。


だから、朝が勝負なんです。

男子部は夜型でしょ。夜遅いから朝弱いでしょ。お題目というのは、次の日に持ち越せないんです。持ち越せないものに3つあるんです。寝だめ・食いだめ・お題目。昨日、ビフテキとうな丼を食べたから、今日食べなくっていいってわけに行かないでしょう。

一食くらいなんとかなってもね。それと、同じなんです。これは、お題目をあげちゃいけないというわけではないんですよ。お題目を上げた分は、福運にはなるんです。でも昨日あげたからといって今日あげないと、その日の戦いは負けになるんです。

 

一日の勝負は、朝

 

その日の勝負は、朝なんです。

朝の決めて・祈ったかどうかで決まるんです。だから朝負けたら、一日負け。

夜、お題目をあげても、福運にはなるけど、その日の勝敗にはもうだめなんです。消化試合みたいなものなんです。

勝敗関係ないんです。それと同じなんですね、ですから朝が勝負なんです。


だから、文明堂の社長がこう言っているんですね。

「社会に、会社に3種類の人がいる。

いなくては困る人・いてもいなくてもいい人・いなくてもいい人、と3種類あります。

どこで分けるかというと朝起きの仕方で分けるんです。

朝、自分の意思でちゃんと起きて、早めに会社にくる人、この人はいなくてはならない人です。

次は、目覚し時計で起こされたり、家族に起こされて、しぶしぶ出てくる人、これはいてもいなくてもいい人。

起こされても起きないで、起こすと起こした人と一緒に寝かしちゃうような人、このような人は、いなくてもいい人です。」と、おっしゃっているのです。


社会で、何か大きなことをやる人は、朝起きができなくちゃいけない。

これは世間の言葉です。


世間の言葉だけど、信心でも同じことですよ。朝、お題目を上げられない人は、一日負けなんです。

一日負けということは、人生負けということです。

朝、その日、その日を決めて・祈って・動いて勝負なんです。

その積み重ねなんです。

だから毎日、毎日の戦い、会合がある、折伏がある、指導がある、本当にそう思ったら祈れるはずなんです。

祈らないでいくから結局から回りになってしまうんです。空回りの連続だから、良くわからない、良くかわらないから、楽しくも何ともなくなってしまうんです。そして、愚痴と文句が出てくるんです。ですから朝の勝負なんです。

この一日の積み重ねが、戦いなんです。



夜上げた題目は、福運にはなります。

福運にはなって貯金にはなるけど、その日の勝敗には関係なくなってしまうんです。その次の日になってもかまわないけど、やっぱり朝の戦いなんです。

そうゆう面で、決めることは簡単。

決意することはやさしいんです。

でも、決意を持続することは難しいんです。

 <去る間成仏は持にあり>なんです。


どう決意したとしても、貫けなければ、結果は出ないんです。これが、信心で一番大事なコツといおうか原理ですね。


生涯においても同じことです。

毎日、毎日、朝の決意を貫けるかどうか


だから12月の座談会のときには1月の座談会で決意したことを体験発表しますね。決意を紙に書いてとっておきますね。それを、12月の座談会で各々が書いたことをどうなったか発表しますね。大抵の人はこう言うんです。

「あれ!こんな決意したかしら!!」という人が多いわけです。

決意を忘れてしまっているわけです。


決意があいまいで・目標があいまいで・実践があいまいで、結果があいまいになって当たり前なんです。

大抵の座談会は、反省コンクールになるんです。反省コンクールを毎年やってもしょうがないんです。成長コンクール・幸せコンクールをやらなくちゃしょうがないんですね。ですから、本質は成果が上がったかどうかではないんです。

功徳を受けたかどうか、成長したかどうかなんです。成長するためには、功徳を受けるためには、決めて・祈って・動かなければ、だめなんです。

だから、自分の部の中の部員さんがどれだけ、自分の決意と目標を持って実践しているか、ということが、明確なそういう部は、成長し、功徳を受けてしかも、成果が上がっているはずなんです。

これは間違いないんです。

これは大Bだってそうですよ。

折伏を40世帯やっている大Bは、

日本中にたくさんあるんですから。


成果が上がっている組織は3つ共通点があります。

一つは組織の目標じゃなくて、一人一人が決意、目標を明確に、持っていること。

二つ目は、お題目をみんなが唱えていること、お題目の渦が巻き起こっていること。

三番目は、幹部が率先して実践しているということです。

題目もあげて折伏もしているということです。そういう組織は必ず結果が出ています。当たり前でしょ、それは一人一人が、決意、目標を持って祈って頑張っているんだから。

結果が出て、功徳が出て当たり前。

しかも、幹部が率先してやっているんですから、文句はないんです。

その反対のところ。

個人の目標ではなくて、組織の目標ばっかり重くて重荷になってて、お題目があがんなくて幹部が率先していないんですね。

そういう所は、できないように頑張っているって言うんですね。できたら不思議でしょ。ですから組織は、長なんです。

部は部長、大Bは大B長なんです。

本部は本部長なんです。

一念が反映しているんです。

信心が反映しているんです。

これは絶対です。条件じゃないんです。最初は悪いところはいくらでもあるでしょう。そこに本当の祈りと決意があり、自分自身が実感し、訴えていくならば必ず良くなるはずです。そういう面で全部、決めて・祈って・動いているかに尽きるんです。それ以外にないんです。

信心とは、決めて・祈ることです。

簡単にはそれっきりです。

あとは付け足し。あとは、どうやってもかまわないんです。

何やってもいいんです。決めて祈らないから結果が出ないんです。

折伏でも、指導でも、全部同じことです。観念では祈っているかもしれないけど、決めて祈っていない。本当に決意しなかったら、結果は出るはずがないんですね。<持つ>とは、持続です。

ただ、持っているのではないんです。

これは持続です。成仏は、発心の持続にあるんだ。という事です。

 

<此の経を持たん人は難に値うべしと心得て持つなり>

 

そうゆう面で、信心をするというのは、苦しみじゃないんですね。苦労はあっても、苦しみじゃいけないんですね。

苦しみじゃいけないというと、語弊があるかもしれませんが、本当に自分のための苦労であれば、苦しみじゃない。

全部、自分のためです。難があったって問題が起きたって、全部自分のためです。全部、成長できるチャンスであり、宿命転換のチャンスとなれば、苦しみじゃない、苦労にはなるかもしれないけれど、全部プラスに変えていけるのが、信心なんですね。

だから、難があって当たり前、苦労があって当たり前なんだ。戸田先生が良く言われたことは「青年は自分から望んで苦労しなさい。苦労が財産になるんだ」といわれました。苦しみじゃない、苦労はすべきなんですね。

信心で苦労したものは、後に福運が残るんです。池田先生は「広宣流布のための苦労は、命を軽くするんだ。世法の苦労は命を重くしていくんだ」と、こうおっしゃった。

広宣流布のための苦労はうんとすべきなんです。それは、命を軽くして幸せにしていくんです。苦労はすべきなんです。

苦しむんじゃないんですね。

受身で重荷でいると、苦しんでしまうんですね。自分のためなら苦労であっても苦しみじゃないんです。


だから、<難に値うべしと心得て持つなり>なんです。難がある。

苦労があるのは当たり前。だから成長できるんじゃないか。人間革命できるんじゃないか、とこう受け止めていくのが、信心なんですね。

楽をしようと思ったら、信心なんかすることありません。世法で楽をすれば、あとで苦しみが残るんです。信心で苦労すれば、あとで本当の喜びが残るんです。だから信心で楽をしちゃいけない。

信心で楽をしたら、世法で苦労します。あとでそうなるんです。だから楽をしようと思わないことです。うんと苦労しよう、信心根本で、うんと苦労して福運を積もう。自分を磨こうと決めることです。そうすれば、あとに大きな財産が残るんです。

また、仏法は体、世間は影で信心で頑張ったものは必ず今度はあとで世法の上で結果が出るんです。そうでなければおかしいんですね。だから、世の中が景気が悪い、不景気だからこそ、信心のしどころなんです。ところが意外と結果が出ない信心をしている場合が多いんですね。

信心は信心、活動は活動、仕事は仕事で、悩んでいるんです。そういう場合が非常に多いんです。

特に学会二世は、体験がないもんだから、1回体験でのりきればいいんですけど、夢中で活動しているんですけれどもってね、決意と祈りが曖昧で、ろくに勤行もしないで、ただ活動だけ頑張っている。重荷にはまっている場合が多いんです。本当に、決意して、祈って、動いている場合には、みんなプラスに変わっていくんです。

ちょっとしたとこだけど大事なところは外れてはいけないんです。一人一人に、決意と、祈りのある信心をさせれば、

みんなを成長させることができるんです。これが指導、訓練になるんです。

力がついて結果が残るんです。それが、大事だと思うんですね。どんな戦いも、一人一人が自分の戦いとして、自分の信心で決意した時に、苦労はあるとしても、あとに大きな喜びと福運が残るんです。それが、大事なんですね。

やんなきゃなんないからやろう、という、いい方をしてはいけない。重荷になるから。

やらなくてはいけないんだから、自分で決意して、自分の戦いとして頑張ろう。そうゆう風に決意したほうが、力が出るんですね。ここが、大事なんですね。

信心をしていれば、なんとかなるんじゃない、自分で決めて・祈った分しか、結果は出ないんです。そうゆうことですね。

 

<「則為疾得・無上仏道」は疑いなし>

 

人に言ったら愚痴に為る。御本尊にぶつければ、祈りになる

 

必ず、無上の仏道を得ることは間違いないんです。難があるから無上仏道を得るんです。苦労があるから功徳があるんです。

喜びがあるんです。ですから、どんなに頑張っても、愚痴をこぼしちゃいけないんです。四条金吾殿に与えられた御書の中に、

「たとえ、相手が妻子であっても、愚痴をこぼしちゃいけない」という御書があるんです。相手が自分の妻や、子供であってもですよ。

愚痴をこぼしちゃいけないっていうんです。結局、愚痴というのは、「自分は悪くないんだ。環境が悪いんだ」というのが愚痴でしょ。

自分の弱さの現れであり「自分のせいじゃない、人のせいだ」って言うのが愚痴なんです。今度それを相手にぶつけるのを、文句というのです。だから愚痴と文句は、双子の兄弟なんです。信心している人にぶつけると、怨嫉というのです。双子の兄弟の親分になるんです。

だから、愚痴と文句と怨嫉と付き合っているうちは、どんなに頑張っても功徳はないんです。盛大に付き合っている場合が多いんですね。どんなに頑張っても、マイナスになってしまうんです。ですから、愚痴と文句を言わないことですね。人に言ったら愚痴になるんです。大変だ!御本尊にぶつければ、祈りになるんです。百万遍愚痴を言ってもいいことはないんです、御本尊に言ったら開けちゃう。人に言わない!御本尊にぶつけることですね。愚痴と文句と怨嫉をしないことが信心のコツなんです。功徳を受ける。

 

<天台大師の云く「信力の故に受け念力の故に持つ」>

 

だから決意するのは「信力」ようし、信心を奮い起こすんです。今度は、持続は「念力」なんです。祈って祈りを持続しなければだめなんですね。祈りがあれば結果が出るんです。

 

<また曰く「この経は持つ難し若し暫くも持つ者は我即ち歓喜す諸仏も亦然なり」云々>

 

この法華経は持ち難いんだと、若し暫くも持つ者は我即ち、諸仏も歓喜するんです。持つ事が大事ってことですね。持続が全てなんです。どんなに立派な決意しても、持続しなかったら、決意しなかったと同じです。この間来た男子部がいうんです。決意がすぐ変わるんですって。変わる決意は決意じゃないんです。そうでしょ、行き先を変更ばかりしているんですから。大阪行こうかな、仙台行こうかな、新潟行こうかなって、行き先変更ばかりしているんですから。着くわけないんですね。切符を買っても途中で降りちゃうんですから。キャンセル型信心っていうんですね。

 

<日にたきぎを加える時はさかんなり、大風吹けば求羅は倍増するなり>

 

たきぎを放り込めば、火は盛んになる。大風吹けば求羅は倍増するなり、求羅とはトカゲの一種、風が吹くと膨らむトカゲなんですね。これは伝説の動物ですが、実際に、インドには、こうゆうトカゲがいるんですね。

 

<松は万年のよわひを持つ故に枝を・まげらる>

 

松は枝振りが常緑種でしょ、ですから、枝を曲げて盆栽なんかにするんですね。長寿だからそうするんですね、草だったらそんなことしないんですね。長寿の木だから枝振りを変えられるんです。

 

<法華経の行者は火と求羅との如し薪と風とは大難の如し>

 

法華経の行者は、大難を受けて成長していくんです。いろいろな戦いがあり、広布のための苦労があるから、そこに成長があり、また人間革命ができるんだってことですね。

 

<法華経の行者は久遠長寿の如来なり>

 

一応は、日蓮大聖人様久遠元初の自受用身ですから、我々も、その眷属ですからね。

 

だから、<修行の枝をきられ・まげられん事疑いなかるべし>

 

未来、永劫の幸せのために、今、さまざまな修行の枝をまげられんだと、だから、それに負けちゃいけないんだと。

 

<此れより後は此経難持の四字を暫時もわすれず案じ給うべし>

 

これからあとは、この経は持ち難しと、持続が難しいんです。その持続の中に信心があるんだ、と、いうことをこれっぽっちも忘れてはいけない。そして、もう一回発心をして、信心を貫き通していきなさい。こうゆうご指導ですね。

これで四条金吾は、また決意をして、大発心をして頑張るわけです。前後、四年間大難が続くんですね。だけど最後は、主君の信用が前より倍増して、所領が三倍にもなるんですね。そうゆう大勝利の実証を示すんです。そうゆう面で、社会の中で実証を示していかなければ、広宣流布の推進はできないんです。逆に、信心しているからといって、「信心してもちっとも変わらないじゃないか」

「仕事もちっともできないじゃないか」と、そうゆう風に、生活の上に実証を示せないで、むしろ人に御本尊を疑わせる、とすれば謗法だと、よく戸田先生が言われました。そして広宣流布の妨害だといわれたんです。こうゆう、大変な世の中だからこそ、信仰者の一人一人が見事な実証を示していくこと自体が、折伏になり広宣流布の推進になるんですね。


そうゆう面で、信心は観念じゃいけないんです。現実の中で、生活の中でどう実証するか、ということが大事なんです。男子部一人一人が職場の中で生活の中で、どう実証するかということが大事なんですね。明確な決意と祈りとそして、実践があり、結果を出すことが大事なんですね。どんな戦いだって、同じことが言えますね。そうゆう信頼がなければ、いけないんです。職場でも折伏でも同じことですね。

入会者の入会動機を聞いてみると、

入会動機の53%は紹介者の熱意、真心に感じてです。28%は紹介者の人柄、言動に感動してです。81%は紹介者なんです。紹介者の一念なんです。

紹介者の振る舞いなんです。


どんな戦いだって同じことですよ。やっぱり相手がこちらを信用しなければだめなんです。

全部原理は同じなんです。そうゆう面でどれだけの人が、決意と祈りのある信心、結果の出せる信心をするかということが大事ですね。

それには、私達幹部が自分自身で実践をし、実証しながら、実感を訴えていくしかないんです。観念や言葉で人が動くものではありません。自分自身が実感したものしか相手には通じないんです。

また、祈った分しか通じないんです。

そうゆう面で、波を持続して今年の総仕上げをやり、また、来年の戦いを勝利に導いていく戦いを見事に展開していただきたいと思うんですね。

以上


生活に活きる信仰

河合 一『生活に生きる信仰』
(第三文明社)より抜粋

≪信心が弱ければ大功徳は受けられない≫
 
 日蓮大聖人は、
「女房の御いのりの事法華経をば疑ひまいらせ侯はねども御信心や よはくわたらせ給はんずらん(中略)御いのりの叶い候はざらんは弓のつよくして つるよはく・太刀つるぎにて・つかう人の臆病なるやうにて侯べし、あへて法華経の御とがにては侯べからず」

通解:「夫人の祈りの(叶わない)ことは、法華経(御本尊)を疑ってはいないようであるけれども、ご信心が弱いからでしょう軍略)祈りが叶わないのは、弓が強くても弦が弱く、太刀を使う人が臆病なようなものです。けっして、法華経(御本尊)のせいではないのです」
(王舎城事、1138P)と仰せです。
 
 四条金吾に対して、夫人の日眼女の願いが叶わないのは、法華経(御本尊)を疑っていないようでも、信心が弱いからであると指導されているのです。

≪願いが叶わないのは信心の弱さ≫

 こんなに信心しているのに、なぜ願いが叶わないのだろう、と疑ってしまう場合がありますが、功徳が出ないのは、けっして御本尊のせいではなく、白分の信心が弱いせいだ、と反省する必要があるのです。

 こんなに頑張っているのに、といっても、「どういう一念で」頑張ってきたのかが問題なのです。
「信心さえしていれぱ、何とかなる」と、義務的、形式的に、惰性で頑張っていたのでは、本当の功徳は受けられないからです。

 ある婦人が百万遍の題目をあげては落ち込んでいた、という話を聞きました。
百刀遍の題目をあげることが目的になり、義務的に唱題していただけで、
何も「祈っていなかった」ので、何も叶わなかったのです。そして、こんなに題目をあげているのに、何も叶わない――
とかえって御本尊不信になり、落ち込んでいたのです。その後、発心した婦人は、決意と目標を明確にして祈ったところ,長年の悩みがまたたく間に解決しています。

 ≪信なき唱題は眞の喝題にはならない≫
 
 日寛上人は、
「(御本尊を)信じないで妙法を唱えることは、題目を唱えるとは言わない。
『題目唱えの題目唱えず』というべきである」(題目抄文段、取意)
と述べています。

 信心が無くて、ただ形だけ題目を唱えていることは、
「題目を唱えていても、題目を唱えていないことになる」とのきびしい指摘です。

池田先生は、
「漢然とした、心定まらない祈り。義務的、形式的な勤行・唱題。それらは信心の『惰性』の表れである。惰性の信心は、惰性と空虚の回転を生む。観念的な、また、真剣さのない祈念では、明確な結果は出ない。広布のこと、一家と白身のことに関して、たえず明確で具体性のある祈りを重ねていく。そこに妙法流布の進展もあるし、宿命の打開もなされていく」と話されています。

一念を定めた、具体的な強き祈りで、常に功徳を受け、成長・前進していく勇気ある信心を貫いていきたいものです。
心の定まらない、惰性の信心や、形式的、義務的な勤行・唱題は空転となるだけなので、そうならないようにいましめていきましょう。

戦いがこれから佳境に入ってきます。

ここで今一度、祈りの基本を確認し、
自分の祈り、戦い勝利への祈りときちんと漏れずに具体的に祈りきり祈りを叶える歓喜ある戦いにすることが広宣流布ということです。

組織的戦いに勝っても自分の祈りが叶えられなければ結局はご本尊不信につながり退転してしまう。

自分の祈りが叶っても勝負に負けると後味が悪く歓喜も薄れる。

両方を達成してこそ広宣流布ということでしょう!

その時の我々の歓喜の姿こそが縁を作り次なる広宣流布を進めるのです。

5月度本幹の池田先生の指導から、
≪悩みに負けるな≫

一、あるとき、戸田先生は、東京の婦人部に話された。

「学会員は、地涌の勇者として、自ら願って、この悪世に生まれてぎたのである。衆生を救うために、人生の苦労を乗り越えながら、御本尊の大功徳を示し切って、広宣流布をずるために生まれてきたのである」

人間、誰しも悩みがある。現代のような悪世ならば、なおさらである。
しかし、どのような悪世、乱世にあっても、信心だけば微動だにしてはならない。私たちは、御本尊の偉大な功力を示し切っていくために、自ら願って、悩みを引き受けたのである。そのように仏法では説いている。ゆえに乗り越えられない悩みなど絶対にない。
結論は「勝つ」に決まっているのだ。
それが分かれば、悩みに負けて、嘆いたり、迷ったりずるのは愚かである。
どこまで御本尊に祈り切って、悠々と、堂々と進んでいけばよいのである。


一、戸田先生は,経済苦と戦う壮年にこう指導された。

「一時的に損をしたように見えても、断固たる信心を貫けば、必ず、もとの10倍、20倍とすることができる。それが仏法の変毒為薬というものだ」と。

大事なのは、信心を貫くことである。

「凡夫は、過ぎ去った後ろしか見えない。しかし、仏の智慧は、未来を見通すことができる。ゆえにどんなことがあっても、ただまっしぐらに、妙法を信じて、戦っていけばよいのである」

これが戸田先生の大確信の指導であった。