心の病に悩む友へ

このお手紙は、私の友人が、一生懸命に学会活動をしているにもかかわらず、よくならない「心の病」に悩んでいる時に、河合 一さんに宛てたお手紙の返事です。本人から、「同じ悩みを抱えている友のためになるなら」との了解のもと、掲載させて頂きました。  

✔︎お手紙、拝見しました。昨年2月に定年で退職したので、転送されてきたため、ご返事が遅くなりました。


日蓮大聖人は「夫れ人に二病あり、一には身の病…二には心の病…仏に有らざれば二天三仙も治しがたし」

(中務左衛門尉殿御返事、1178ページ)と仰せです。

「心の病」は仏でなければ治せないし、仏ならば絶対に治せると教えているのです。このことを確信すれば、心の病は治り始めるでしょう。「心の病」というのは、ただ心が弱っているのではなく、生命そのものが弱っていて「落ち込んで」いる状態をいうのです。そのために、自分自身が思うようにならず、すべてに意欲がわかず、努力しようとしても続かず、不安でたまらなくなり、あせってますます落ち込む、ということを繰り返す状態になるのです。信心していても、御本尊に向かう一念が定まらず、決意したとしても持続できず、不安と不信の心に支配されているのでしょう。

あなたの場合、それは「信心が惰性」だからではなく、病気のせいなのです。ですから、ほかの人と同じように「頑張って、変わろう」と思わないことです。

「頑張ろう」と思っても「頑張れない」ので落ち込むだけだからです。

例えば、長い間の病気で、体力が弱っている人が、健康な人と同じように激しい仕事をしようとしたら、無理なだけではなくますます体力が弱ってしまうでしょう。まず十分に体力を回復してから、仕事をするのが常識です。それと同じで、あなたの場合も弱りきっている生命力を、少しずつでも強くしていくことが先決なのです。ウサギとカメが競争をして、カメが勝って、という説話がありますが、あなたはウサギ(他の人)のようにピョンピョン跳んでいくのではなく(それは無理ですから)、カメのように遅くても着実に前進して「最後には、必ず勝とう」ときめていくことです。


勤行や活動も、具合の悪い時は、やらないことです。なぜなら、池田先生が「信心は義務ではない。幸福への権利」と指導されているように「やらなければならない」と思ってやると「義務」になり、重荷になり、苦しくなるからです。勤行・唱題は、生命を強くするための、「命のトレーニング」といえるでしょう。少しずつでも命を強くするために「祈る」ことが根本です。「絶対に治る」「絶対に治りたい」「治してください」と願いながら、題目をあげることです。しかし、体調が悪い時に、無理なトレーニングをやれば、かえって体をこわしてしまうように、勤行も具合が悪くてできない時にはやる必要はありません。まして活動しなければ、折伏をしなければ「宿命転換はできない」などと思い込まないことです。重荷になるだけだからです。あなたが病気を治して、健康になった姿を示すことが、折伏になり、仏法の証明になるのです。今、あなたが仏法は素晴らしいと語っても、相手に「感応(生命で感ずること)」しないでしょう。かえって、成果にあせって、信仰の押しつけになってしまい、不信を招くことになります。信心は「頑張るため」にやるものではなく「頑張っていれば変われる」のでもありません。生命・生活が「変わる」ための実践なのです。

「治るのだろうか」とか、「どうしたらいいのだろうか」と不信だったり迷っていたのでは「変われない」でしょう。

日蓮大聖人は「元品の無明を対治する利剣は『信』の一字なり」(751ページ)と仰せです。生命の根本の迷いを断ち切るのは御本尊を「信」ずることしかないのです。「絶対に治る」と信じることだけが、あなたを「蘇生」させるでしょう。そして少しずつでも「治そう」という題目をあげていけば、必ずよくなっていきます。よくなってきたら、自分ができる範囲で活動をしていくことはかまわないでしょう。皆さんは、あなたを早く元気にしようと、「(勤行・唱題や活動を)頑張ろう」と励ましてくれるでしょうが「だから頑張らなくちゃ」とは絶対に思わないことです。今まではそれで失敗したのですから、どこまでも自分のペースで「頑張る」ことです。そして生命が強くなれば、他の問題はすべてよい方向へ変わっていくでしょう。もちろんそうした具体的な願いを祈っていくことは自由です。


河合  一  ○○様へ


病苦(ふゆ)の日も 

    祈り祈りて 

        明日(あす)の勝利(はる)