池田大作──その行動と軌跡    
若き指導者は勝った
 
【第1回】 日本正学館 1-2 2009-1-1
【第2回】 日本正学館  2      2009-1-6
【第3回】 日本正学館  3      2009-1-7
【第4回】 第2代会長    1    2009-1-9
【第5回】   第2代会長     2    2009-1-10
【第6回】   第2代会長     3  2009-1-13
【第7回】   第2代会長     4   2009-1-14
【第8回】 水滸会         1        2009-1-16
【第9回】 水滸会          2        2009-1-17
【第10回】水滸会             3        2009-1-20
【第11回】水滸会              4        2009-1-21
【第12回】水滸会           5 2009-1-23
【第13回】大阪の戦い    1 2009-1-24
【第14回】大阪の戦い    2 2009-1-28
【第15回】大阪の戦い     3 2009-1-30
【第16回】大阪の戦い     4 2009-1-31
【第17回】大阪の戦い      5 2009-2-3
【第18回】大阪の戦い       6 2009-2-4
 
◇【第1回】日本正学館 1-1 2009-1-1
 
 
昭和二十四年一月三日──ドラマは六十年前、恩師の会社に初めて出勤した日から始まった
 
池田青年の十年
 
 総武線の水道橋駅で降り、東京・千代田区の神田に向かった。有名な東京ドームを背にして、水道橋西通りを南に歩く。いま地図で見ると距離にして五百メートルほどか。
 西神田三の八の一。ブルーに輝く窓ガラスが印象的な高層ビルで占められている。ここに「日本正学館」の小さな看板を掲げた出版社があった。近くに日本橋川が流れている。
 昭和二十四年(一九四九年)の寒い一月三日の月曜日だった。池田大作青年は、恩師である戸田城聖第二代会長(当時・理事長)の経営する日本正学館へ初出勤した。
 前日に二十一歳の誕生日を迎えたばかりである。この日の東京の天候は小雨時々晴れであった。現在は日本橋川の上を覆うように、高速道路が走っている。高いビルも高速道路もなかった六十年前の正月。日本橋川は、冬空に舞う色とりどりの凧をながめていたはずである。当時の池田青年を知る一人に評論家の塩田丸男がいる。中国から復員した塩田は、縁あって「日本婦人新聞社」に勤める。その編集室が、実は日本正学館の三階にあったというのである。
 塩田は取材班のインタビューに快く応じてくれた。
「三階というと聞こえはいいが、実際は屋根裏で物置に使っていたところにちょっと手を入れただけ。広さ? 広さなんてものではなく、"狭さ"と言ったほうがいい」
 日本婦人新聞社の看板は一階の戸口のわきに小さくぶら下がっていた。いっしょに並んでもうーつ、達筆な文字で創価学会の看板が掲げられていたという。
 「新聞記者はたいていズボラで朝も遅い。私がのそのそと出勤していくころには、一階の創価学会の部屋は大勢の人たちが活発に動きまわっていて、その間をくぐりぬけて、こそこそと三階の屋根裏へ上っていったものです」
 西神田の旧学会本部。二階までは、関係者の記憶から間取り図(5面)をほぼ正確に示せるが、その上に、さらに三階があったことは、あまり知られていない。「創価学会が大家さんで、こちらは屋根裏の住人なんだから腰を低くしなければならないのに、新聞記者は図々しい連中ばかりで、私もあまり頭を下げなかったように思います」そんななかで、大変印象に残っているのが、池田青年だった。いつも「おはようございます!」「仕事のほうはどうですか?」と、気さくに声をかけてくれた。「大きな声で、明るい顔色で、元気いっぱいの目立つ青年でした。
まさか、こんなに偉くなられるとは!その後、直接お目にかかる機会はありませんが、私のなかにある『池田大作』は今でも、あの元気な、明るい大作青年です!」
     日本正学館は池田SGI会長の人生の軌跡を追ううえで、最初のキーポイントとなる場所である。
 二十一歳から日本正学館で働きはじめ、三十歳で永訣するまで、ちょうど十年間、戸田会長に師事している。これより十年早ければ、第二次世界大戦の戦雲が二人を裂き、十年遅ければ、戸田会長はすでにいない。不思議な巡り合わせの十年である。
 二十一歳から三十歳。この十年こそ、池田会長の人間形成にとって決定的な歳月であったといってよい。
 
 橋本忍のインタビュー
    映画「人間革命」の続編を制作するにあたり、脚本を手けた橋本忍が原作者・池田会長に聞いている。「初めて日本正学館に出勤した日のことを教えてください」
 以下は「橋本インタビユー」によるところの会長自身の述懐である。
 一月三日は底冷えのする日だった。午前八時、弁当を手にして出社したが、仕事始めの前で、神田に人影は、まばらだった。この日を選んだのは戸田会長に「来年からこい」と言われていたからで、ほかの理由はない。少し早いかと思ったが、ちょうど月曜日。新しいスタートに決めた。事務所のガラス戸をたたいたが、だれもいない。あらかじめカギを渡されていたので中へ入った。コンクリート打ちの玄関を入るとカウンターがあり、一階が事務所、二階の一部が編集室となっていた。奥の階段を三段ほど上がったところに中二階がある。火の気もなく、足下から冷気が伝わる。掃除をして先輩社員を待つことにした。バケツの水で雑巾をしぼる。みっちり一時間かけ、机や窓をふいたが、だれも来ない。どうなっているのか。この会社は大丈夫なのか。初出勤ながら心配した。
 十時をすぎたころ、ガラッと音をたてて正面のガラス戸が開いた。
 「おめでとうございます!」
 顔をあげると、立っていたのは電報の配達人だった。戸田先生あての電報を受け取った。急ぎの案件にちがいない。ご自宅まで持っていくことにした。事務所の戸締まりをして、当時、港区の芝白金台町にあった戸田宅へ向かった。玄関で用向きを伝えると、年配の女性が「ご苦労さま」と錠を開けてくれた......
 短い回想だが、いくつかの興味深い点がある。
朝が早く、出社が早い。きれい好き。機転がきく。受け身で構えるのでなく、すぐさま行動に打って出る。
 たった半日ほどのエピソードだが、池田会長の人となりを物語っている。一方、新入社員を採用していながら「来年から来い」の一言ですませ、出勤日も定めなかった戸田会長......。
時代が時代だったとはいえ、いかにも豪放な人柄が浮かび上がってくる。二人の師弟関係とは、つまりは、このような間柄だったとも思える。つまり師が何かを決め細かく指示するのではなく、根本の大綱のみを示す。むしろ弟子の側が細目を定め、行動し、すべてをグイグイと具体化していく。初出勤の日にして、すでに師弟の命運は決定づけられていたかのようである。
 この時点での池田青年は、決して宗教、信仰というものに納得していたわけではなかった。
 「日蓮」と聞くと、思い浮かぶ原風景がある。
団扇太鼓をドンドン打ち鳴らしながら、大声で題目を唱え、町中をねり歩く信徒の一団──。少年時代に見た光景は、宗教への無知や盲信などを連想させた。
 宗教というものにありがちな視野のせまさ、独善性。仲間うちにしか通じない、閉ざされた言語感覚や、教祖を頂点にしたピラミッド形の息苦しい上下関係。多くの宗教団体がおちいりやすい点である。しかも、戦前の日本は国家神道を精神的な柱に立てて破局した。池田青年ならずとも、宗教は、こりごりであったろう。入会後も、なんとか自らの運命から免れないものかと一年間ほど悩み、抗っている。
それは、小説『人間革命』第三巻「漣」の章で告白している。夏に静岡で開かれた学会の講習会。まわりは騒がしく、どうも、とけ込めない。伝統的な儀式も、しつくりこない。ひとりギリシャの詩を口ずさみ眠りについた......。
 後年の回想。
「宗教、仏法のことが理解できて、納得したのではなかった」
「宗教には反発しながらも、戸田城聖という人間的な魅力に対しては、どうすることもできなかった」
 
◇ 第1回  日本正学館 1-2
 
神田の街角で
これほど強い宗教の負のイメージをぬぐい去った戸田城聖という人物とは?
 作家の西野辰吉は述べている(『伝記 戸田城聖』)。「あるものには"受験の神様"にみえ、あるものにはあぶなっかしい素人事業家にみえ、あるものには山師ふうな法螺ふきのようにもみえたりして、出会った多くのひとの記憶にさまざまな貌をのこしている」
戸田会長と接した人ごとに「さまざまな貌」があるのだという。受験の神様。私塾「時習学館」で使っていたプリントをまとめた『推理式指導算術』が百万部を超えるベストセラーになった。
 事業家。神田淡路町にあった印刷工場を手に入れ、出版事業へ。作家・子母沢寛の選集を発刊するために「大道書房」という会社もつくった。戦前、十七の会社があり、さらに吸収する予定になっていた。しかし、戦争ですべてが狂い、残ったのは二百数十万円の負債だった。ニックネームは「雲雀男」。低い空からヒバリのように、高く舞いあがる。たしかに徒手空拳から事業をおこす手腕にすぐれていた。上京間もないころ、同郷の友人たちと自炊生活をした。渋谷・道玄坂の露店で下駄を売ったり、保険の外交員をやって生活をしのいだ。下駄の緒は自ら作った。結婚まもない妻もカツオ節の行商までやったという。そこから一代の財をなした。
 以下、余談である。
ほかにもユニークな教育事業を手がけた。昭和初期、進学を希望する小学生を集め、「東京府綜合模擬試験」を開く。受験料は一人五十銭。今日の貨幣価値に直せば、およそ千円になるだろうか。数千人が受け、答案の返却方法にも、なかなかの工夫があった。
次回の試験日に返し、上位百番までは氏名と学校名を公表する。あとは受験番号のみとした。志望校を決める、またとない目安である。大いに人気を博したという。
宗教への抵抗がある青年。さまざまな貌をもっている宗教者──。では、この二人が稀有の師弟関係を結びえた理由とは。ひとつに戸田会長は、いわゆる抹香臭い人物ではない。俗世のチリひとつない聖人君子などではなく、戦後の荒波のど真ん中で、抜き手を切って泳いでいる。法華経の講義もおもしろい。善男善女を煙に巻く、おごそかな説法ではない。金襴の袈裟衣で幻惑させるどころか、夏場など、もろ肌脱いで法を説く。生活法のようであったり、哲学論であったり、ときに落語家も顔負けのユーモアであったりと、千変万化の興趣に富んでいた。ときおり、度の強いめがねを外し、御書に顔をこすりつけるように読んだ。
講義が終わると、参加者と家路につく。師を囲む人の輪は、にぎやかだった。神田の酒屋に寄ることもあった。かまぼこ屋の隣にあり、軒下に縁台がある。
そこに腰かけ、気心の知れた連中とコップ酒。塩をつまみに「きょうは金がないから一杯ずつだぞ」。ぐいっとあり、駅に向かった。戸田会長が"一杯やる"相手は一部の壮年だけである。宗教には反発しながらも戸田城聖という人間的な魅力に対してはどうすることもできなかった
 
名編集者の才能
そんな上機嫌な恩師を池田青年は遠巻きに見守った。
 戸田宅は目黒駅に近い。住所は港区だが"目黒の戸田先生のお宅"と言われたゆえんである。山手線で目黒までの車中、吊り革につかまり、会長は講義の続きを語った。みな、群がるように聞いた。品川まで行く池田青年は、目黒でおりる師を最敬礼で見送った。
 仕事の上でも二人は強く結ばれ、師弟は運命を共にしていた。なによりも、池田青年は「日本正学館」の仕事が好きだった。読書家であり、元来はジャーナリズムの世界に身を置くことを望んでいた。
 後年、ジャーナリスト志望の青年に語っている。
 「本当は新聞記者になりたかった。それが戦争のため叶わなかった。私も戦争犠牲者の一人だ」
 長い間、神田は出版界の中心地だった。
 日本正学館の右隣も謄写版の印刷所で、左隣は製本会社だった。どの角を曲がっても、製本所や印刷所の看板が目に飛び込んでくる。
 日本中が活字に飢えている時代には、日が暮れても工場から、たえまなくガッチャン、ガッチャンと機械音が鳴り、印刷物が積み上げられた。風のない日など、路地裏にインクのにおいが、ふと立ちこめる。
 貸本屋の主が、仕入れた本を風呂敷に包んで背負っている。喫茶店では、編集者が作家と打ち合わせしていた。この街で働くこと自体が大きな喜びだったといえよう。
 「冒険少年」(のちに「少年日本」と改題)は日本正学館の主力雑誌である。編集兼発行人は戸田城聖。
 名編集者たちの自伝、伝記類を読むと分かることだが、そもそも編集長とは、自分の我がままを押し通すのが仕事である。鬼編集長ほどアクが強く、妥協しない。
 部下の編集者に求めるものは、一にスピード、二に正確さである。締め切りに間に合わなければ、すべてはぜロである。たとえ間に合っても、ミスが活字になることほど恥ずかしいものはない。戸田会長は、仕事に厳しかった。ささいなミスも見逃さない。百雷のごとき叱咤が下った。「私から逃げたいなら、逃げろ!ついて来るならば、ついて来い!」
 池田青年は必死で食らいついた。戸田会長も編集者としての池田青年の才能を早くから見抜いていた。
一つの企画をまかせると、つねに的を射た作品ができあがってくる。スピードがある。しかも丁寧だった。
 編集業務には、常に修羅場がつきまとう。
たとえば印刷に回す直前の大幅な直し。校了まで、せっぱつまった瀬戸際に、おどおどするタイプは向かない。池田青年は土壇場に強かった。熱くなりがちな場面ほど冷静沈着に判断できる。
 五月には早くも敏腕を買われ、「冒険少年」の編集長をまかされたのである。
時代と背景
 「私は、やがてルビコンを渡った」(池田大作著『私の履歴書』)。昭和22年8月14日、蒲田の座談会で戸田城聖と出会い、入会(同24日)するが、一緒に働きはじめるまでの葛藤を古代ローマの故事にたとえている。翌23年秋、法華経講義を受講してまもなく、日本正学館入りを打診され「一も二もなく『お願いします』と即座に答えた」(同)。大みそか、蒲田工業会を円満退社。初出動は、その3日後のことだった。賽は投げられたのである。
 
この連載は、戸田城聖第二代会長と出会った池田SGI会長が、恩師の膝下で送った青春の日々を取材。今回、初めて明らかになった秘話、エピソードを織り込みながら、不世出の民衆指導者の実像に迫るものです。
原則として火、水、金、土曜の週4回掲載。執筆には、丹治正弘(本社編集局長)、大島範之(同局次長)をはじめ特別取材班があたります。
 
◇【第2回】日本正学館 2 2009-1-6
時代と背景
 昭和24年、戦後の混乱は続き、国鉄をめぐる「下山事件」「三鷹事件」などが相次いだ。騒然とした世相にあって、名曲「青い山脈」が大ヒットする。若き池田編集長は、この歌を作詞した西條八十にも体当たり。「どうか少年たちに偉大な夢を与えきれる詩を書いてください!」時には、自ら山本伸一郎のペンネームで「ペスタロツチ」の偉人伝も書き下ろした。
 
日本の少年よ、世界の少年よ一人ももれなく
明朗であれ、勇敢であれ 天使の如くあれ
 
手塚治虫の回想
昭和二十四年(一九四九年)五月、池田大作青年は、雑誌「冒険少年」の編集長に就任した。
 当時、十数誌の少年雑誌が創刊・復刊され、覇を競いはじめたころだった。売れっ子作家の仕事場には連日、各社の担当者が足を運び、今か、今かと仕上がりを待ちかまえる。小松崎茂は、日本を代表するイラスト作家である。「冒険少年」にも、口絵や絵物語を描いていた。画家の根本圭助が小松崎のもとに弟子入りしたのは昭和二十六年だった。思い出話を、よく聞かされた。
 「戸田城聖という人が、何度か駒込のアトリエに足を運んできた。見るからに利発そうな青年が一緒だった」アトリエは東京の巣鴨駅と駒込駅の間の霊園の近くにあった。編集者のたまり場になっていて、食事にあずかったり、ひたすらタバコを吹かしたり、活気を呈していた。「皆が騒いでいる中で、じっと静かに絵の完成を待っている。知的で折り目正しい。
 このハンサムな若者は、他の連中と、ちょっと違っていた」この「ハンサムな若者」こそ池田青年だった。すぐに、うち解けた。「おれは大好きだった。一時間も話しこんだことがある。キリスト教と仏教のどちらがすぐれているか。論争したこともあったよ」
 
「冒険少年」は、当時、大変に注目された雑誌だった。画家の根本もバックナンバーを大切に保管していて、雑誌ブームを支えた仲間と今でも見せ合うことがある。以前、漫画家・手塚治虫の知られざる一面が明かされたことがあった。昭和三十四年ごろである。
東京・初台のスタジオで、原稿の締め切りを終えた手塚が、アシスタントたちに語った。
「みんな、以前『冒険少年』という雑誌があったのを知ってたかい」首を横に振る一同。「それじゃあ、見せてあげよう」
二階から数冊の雑誌を抱えて降りてきた。目を輝かせながら、そっとページを繰る。
「この本からは、何か特別な情熱みたいなものを感じたよ」手塚は終戦後、大阪大学医学部に通うかたわら"赤本"と呼ばれる単行本を描いて「天才漫画家」と注目されはじめていた。
 「雑誌の連載も魅力的だった。でも、この『冒険少年』は、僕が上京したころには、もうなくなっていたんだ」まるで昨日のことのように、残念がる。
「あのころは、子ども向けの雑誌が続々と創刊されていてね。『冒険少年』は、ぜひ描きたい雑誌だった」
 
手塚治虫をして"この雑誌には、ぜひ描きたい"と言わしめた「冒険少年」。その編集長こそ池田青年であった。編集手法に取り立てて秘密があったわけではない。一軒一軒、地道に作家宅を訪れ、執筆陣を開拓していった。他の雑誌と違ったところがあるとすれば、その情熱と誠実、なによりも限りない読者への愛情をあげるほかない。
日記に熱意を綴っている。
「少年よ、日本の少年よ。世界の少年達よ。願わくは、常に、一人も洩れなく明朗であれ、勇敢であれ、天使の如くあれ」昭和二十五年の新年号には、詩人の西條八十、探偵小説の横清正史も筆を執ることになっていた。
 
悠然たる恩師
昭和二十四年、中小の出版会社に、逆風が吹き荒れていた。まだアメリカの占領下である。人々の生活に暗い影をおとしていたのが、出口の見えないインフレだった。日本を統治していたGHQ(連合国軍総司令部)は「ドッジ・ライン」と呼ばれる政策で、経済を安定させようとした。
 その原則の一つに、「資金の貸し出しの統制」という項目があった。政府レベルから中小の金融機関にいたるまで、極端な融資の引き締めが行われたのである。今風に言えば「貸し渋り」だった。中小企業の金詰まりは日ごとにつのり、目をおおうばかりの惨状を呈した。日本正学館とて、その例外ではない。
 
その日、十月二十五日は火曜日であった。朝から雲が空をおおい、やがてポッポッと落ち始めた秋雨が夜まで降りつづいた。朝九時前、二階にいる戸田城聖のもとに日本正学館の全社員が集められた。
 大手出版社が次々と仕掛けてくる大雑誌との競合で、日本正学館の経営は、すでに身動きがとれなかった。
 まず売れ行きが鈍ったのは単行本である。次に女性むけの雑誌「ルビー」も採算を割った。
 後は将棋倒しである。
 かろうじて持ちこたえてきた「冒険少年」だったが、返本率は上がり続けた。「少年日本」と改題してもなお、十冊のうち七、八冊は戻ってくる。
 作家に支払う原稿料は、とどこおりがちになり、紙問屋や印刷会社の態度も、よそよそしくなってきた。
 戸田城聖はキッパリと宣言した。
 「雑誌は全て休刊する。誰でも下すにちがいない、当然すぎる結論だよ」
 全魂こめて社員を励ましたが、みな慌てふためいた。明日から自分の生活は、どうなるのか......。
 虚脱感が押し広がる事務所で、池田青年は師の姿だけを見つめていた。
 休刊を告げた後は、ふだんとまったく変わらない。「おい、一局どうだ」。来客者をつかまえ、愉快そうに将棋をさしている。
 ──何という人だ。なにがあろうと変わらない。ぶれない。ならば自分もまた......。
 さっそく活動を再開した。
 「武蔵野へ画料を届けたのち、銀座で凸版を受け取ってまいります!」
 胸を張って残務処理に出かけた。
 ──今年の冬も、外套は、なしだな。
 心につぶやいたとき、すでに腹は決まっていた。
 「少年日本」は十二月号が最終号になった。
 
 出版不況。インフレ。貸し渋り
 三重にたたみかける大波である。おぼれぬように進む日本正学館は、この年のなかばごろから、水面下で打開策を講じていた。
 資金を確保するため、戸田城聖は自ら金融機関を設立する計画だった。
 「時代が時代だ。経済面にも力を入れなければいけない」と、幾度となく口にしていた。
 六月のある日、ひょっこりとあらわれた岩崎洋三が、組合のあっせん話を持ちかけてきた。
 岩崎は戦前の創価教育学会の中で実業家たちのグループにいたが、戦時中の弾圧によって早々に退転していた。
 経済人だけあって利にさとい。平気で寝返るタイプであった。戦後もまた、かつての変節などなかったような顔で、戸田のもとへ出入りしていた。
 岩崎が言う組合とは、東京建設信用購買利用組合のことである。
 かつて東京都の土木局長をしていた元役人がその理事長をしていた。収益構造を改善するために、協力者を探していたのである。
 いわゆる産業組合法にもとづく「購買利用組合」を、金融部門の「信用組合」に転換しようという算段だった。
 戸田は取りあえず理事長に会ってみた。少し話をしただけで、彼の無能ぶりにあきれた。
 元役人らしいというか、武士の商法さながらの放漫経営である。
 それでも実情を冷静に調べたうえで経営を引きうけることを決断した。
 それまで通産省の監督下にあった組合が、金融部門をあつかう信用組合へと衣替えする。それには大蔵省の認可が必要だった。
 官僚だった理事長の見通しは甘く、ようやく通産・大蔵両省の印鑑がそろったのは、東京の街を秋のとばりがつつむころだった。
 ここに東京建設信用組合が、戸田城聖を専務理事として発足する。
 事務所は日本正学館と同じ西神田におかれた。
                                               
         
◇【第3回】  日本正学館 3 2009-1-7
 
  畑ちがいの仕事で
 
 予期せぬ恩師の事業の暗転──脚本家・橋本忍のインタビューのさい、池田大作SGI会長は当時を振り返って述べている。
 「信心というのは、こういう試練を経なければいけないのです。社会の荒波を乗り越えなければならない。その目的のため、あらゆる苦労をしていった」
 もし日本正学館の経営が順調で、師弟が幸福な編集者生活を送ったとしたら──。
 結果論であるが、今日の創価学会の発展があったかどうか疑問である。
 
恩師を守るため あえて茨の道を選んだ                             
戸田大学の個人教授があって世界からの栄冠がある
 
 日本正学館の社員は、新しく発足した東京建設信用組合の業務を引き継いだ。
 出版編集から金融事務へ。池田青年にとって青天のへきれきだったと言ってよい。
 組合の業務が始まったのは昭和二十四年(一九四九年)十二月四日である。鉛色の雲から冷たい小雨がふる日曜日だった。
 事務所に向かう足取りは重い。気分も晴れなかった。まったく畑ちがいの信用組合の仕事は性分にあわない。
 さらに追い打ちが、かかった。それまで夜学で大世学院(現・東京富士大学短期大学部)に通っていたが、年が明けて昭和二十五年正月、恩師から言われた。
 「君が頼りだ。仕事もますます忙しくなる。ついては、夜学のほうも断念してもらえないだろうか」
 すでに覚悟があったのか。
 「喜んでやめます。必ず事業を立て直して、先生をお守りします」
 大目的のために、己を捨てた──。この決断こそ、池田会長の人生と、学会の未来を決定づけた「大英断」だったと多くの識者が見る。
 日本の宗教社会学の第一人者であった、安斎伸(あんざいしん)(上智大学名誉教授)。池田会長の人生について語っていた。
 「その原点には、戸田第二代会長に自らの人生を投じた、青年の純粋な『賭け』があったと、私には思える」
 「牧口初代会長と戸田二代会長が生命を賭して貫いた信仰に、池田会長も賭けた。その初心、生き方を貫くことで信仰を深化させ、揺るぎない基盤を築かれたのでしょう」
 打てば響く。愛弟子の申し出は師を喜ばせる。責任をもって、個人教授することを約束した。
 この「戸田大学」こそ「池田青年の十年」の芯をなし、一対一の陶冶に、やがて世界の知性も刮目する。
 乾坤一擲(けんこんいってき)を期した新規事業であったが、昭和二十五年の春には、早くも暗雲が色濃く漂いはじめる。
 社会は金融難である。借り入れの申し込みは引きも切らないが、貸し出す資金が一向に増えない。
 次々と寄せられる借り入れ申し込み。その一割にもこたえられない。
 戸田城聖は資金を調達するため、ありとあらゆる手を講じて、血路を開いた。
 その先兵となって、東奔西走するのが、池田青年の役割だった。
 出資を募り、返済を依頼する。誰もやりたがらない仕事。みな逃げ去った。それでもなお、ひたすら前へ進むほかなかった。
 五月に入ると預金と支払いのバランスが目に見えて崩れはじめた。六月の中旬には預金の払い戻しが急激に増え、七月には取り付け騒ぎも起きかねない事態になった。
 「先生の事業、非常に、苦境の模様。内外共に、その兆候あり」(七月十六日の日記)
 牧口門下の実業家グループは、利あらずと見るや、われ先に戸田城聖のもとから離れていった。
 
 激浪の日々
 
 退職して戸田理事長のもとを去っていく社員も出はじめた。池田青年の上司までもが師への批判を口にする。
 ──牧口常三郎初代会長がよく引用しては、からからと笑っていたという御書の一節がある。
 「螢火が日月をわらひ蟻塚が華山を下し井江が河海をあなづり烏鵲(かささぎ)が鸞凰(らんほう)をわらふなるべしわらふなるべし」
 戸田理事長は、悠然としている。
 今に始まったことではない。大人ほど、ずるい。信じられない。戦時中からの教訓である。頼むべきは青年である。
 
 昭和二十五年(一九五〇年)夏。
 じりじりと照りつける日差しは、池田青年の体力を急速に奪った。砂ぼこりが舞いあがる乾いた道を、一軒また一軒と、ひたすら歩く。
 汗だくの一日を終え、やっとの思いで大森のアパートに帰るころには日付が変わっている。
 狭い部屋に横たわり、天井をあおぐと、のどの奥で痰がからんだ。あいかわらず病んだ肺の具合は思わしくない。体重も十三貫(約四十八キロ)を切った。
 当時の激闘を垣間見た、草創の会員の回想。
 「よく鶴見を走り回っておられた。その時、使っていたカバンが、もうボロボロに使い古したものだった。まるで何十年も使っているようなカバン。戦いの凄まじさを物語っていた」
 「大変に痩せておられた。外回りで疲れ果て、途中で一息入れなければ歩けないようなこともあった。そうしたときは倒れこむように横になり、とても声などかけられる様子ではなかった」
 当時、「日本婦人新聞社」に勤めていた森田秀子。
 秋葉原で通勤電車を乗り換えると、時折、池田青年と顔を合わせた。多くの人間が戸田城聖を裏切り、罵っていたころである。
 ある朝、ボーッと駅のホームに立っていると、背中から声をかけられた。
 「何があっても、創価学会と共にね! 戸田先生と共にね!」
 池田青年が創価学会に入会したのは、あくまでも戸田城聖個人への傾倒である。
 その師を先輩たちは見捨て、難破船から逃げるように遠ざかっていく。
 快活な響きの奥に込められた苦衷を森田が知ったのは、ずっと後のことである。ようやく分かりはじめた。
 「青年として、絶対に許せない。あの日の言葉は、ご自身の固い決意でもあったのでしょう」
 あんな人間にはなりたくない。裏切り者にだけは、なりたくない。
 日記に「波浪ハ、障害ニ、遇フゴトニソノ頑固ノ度ヲ増ス」と書き、力闘を続けた。
 
 この時、戸田城聖のもとを離れた者たちが、その後どうなっていったか、一例を挙げたい。
 いったんは、戸田理事長の信用組合に出資しながら、計算高く、すぐさま引き上げる人がいた。
 彼らは、利回りのいい"街金(まちきん)"があると聞くと、たちまち乗りかえた。新宿区角筈(つのはず)(現・西新宿)にあり、当時は有名だった「西村金融」も、その一つである。
 「月三分~五分の利子を前払い、元本は満期前に返済」をうたい文句に、多額の金を集めた。
 だが、実際は自転車操業の実態を隠した、悪質な詐欺であり、後に摘発された。被害者の中には、戸田理事長の会社から乗りかえた者が何人もいた。出資金は一円も戻らなかったという。
 そのころを知る学会幹部の証言。
 「戸田先生の事業が悪化したとき、口ぎたなく罵る会員がいた。不思議と、そういう人間のほとんどが、のちに詐欺に引っかかったり、仕事に失敗して破滅した」
 八月中旬になった。
 最大の問題は貸し付けに回す資金の不足である。
 病巣は誰の目にも明らかだったが、この期におよんでも信用組合の役員たちは傍観している。
 そればかりか、事業が危機に瀕していることを知るや、なにやかやと理由をつけては、自分の預金を引き出そうとした。
 戸田城聖が模索してきたのは優良組合との合併である。しかし、お荷物と分かっていながら、自らリスクを背負いこむ組合など、あろうはずがない。
 最後の手段として、大蔵省に合併先のあっせんを申請したのである。
 当局の回答を待つ間も預金の払い戻しは止まらない。むしろ日を追うごとに増えていった。
 東京建設信用組合は、遂に重大な局面を迎えるにいたったのである。
 
時代と背景
 世界の文学を友とする青春時代だった。シラー、カーライル、プラトン、ルソー、エマソン、モンテーニュ、ユゴー……。いかなる状況にあっても向学心は衰えない。ホイットマンの『草の葉』を何度も読み返す。「さあ、出発しよう!悪戦苦闘をつき抜けて! 極められた決勝点は取消すことができないのだ」(昭和24年刊、富田碎花訳)という一句も胸に刻んだ。
 
 
◇ 【第4回】 第2代会長 1 2009-1-9
 
わかりました 戸田先生に 必ず会長になっていただきます
私が全力で戦い、守ります
 
 理事長を辞任する
 
 「毎年、八月二十二日が来ると思い出す。暑い暑い日だった」
 池田大作SGI会長は今も時折、述懐する。
 昭和二十五年(一九五〇年)のその日は火曜日だった。東京で、この夏一番となる三四・二度を記録した。
 西神田の事務所に、大蔵大臣から、一通の行政命令が届いた。
 事務員が封書をあらためると、さすがの戸田城聖理事長も口をかたく結び、険しい色を浮かべた。
 ──翌二十三日から、東京建設信用組合は、営業を停止せよ。
 組合の合併先あっせんを大蔵省に依頼していたが、回答の代わりに届いたものは最悪の通知だった。
 負債の総額は七千万円以上。現在の貨幣価値になおすと二十数億円にもなる。
 仮に債権者との交渉がうまくいっても、組合の清算が認められるかどうかは、大蔵省の判断にゆだねられる。
 それ以上に問題なのは、法律上の責任だった。
 当局の出方しだいでは、組合の専務理事である戸田理事長本人の刑事責任を問われかねない。
 
 二日後の二十四日。
 大粒の雨に打たれた神田の街は暑熱もやわらぎ、学会本部の二階に吹き込んでくる夜風は、しつとり涼味をふくんでいた。
 法華経の講義にひと区切りつけると戸田理事長は切り出した。
 「折り入って聞いてもらいたいことがある」
 常と変わらない声だった。「思うところあって、創価学会の理事長の職を、きょうかぎりで、辞任することにしました」
 何のためらいもない口調だったため、発言の重みをすぐに悟れない受講者もいた。
 会場の一隅にいた池田青年は瞬時に事の重大さを知った。師は、すべて一身に負う覚悟である。
 辞意を伝えた戸田城聖は、後任に理事の矢島周平を指名し、この日は散会となった。
 がらんとした部屋に、何人かの幹部が困惑した面持ちで額を寄せている。戸田は中二階に消えていった。
 池田青年は一階の事務所で、昼間のできごとを思い返した。
 師と二人でマスコミが債権者をあおらないよう、新聞記者と折衝したばかりだった。
 学会も早く新聞を持たなければならないと思った師から「よく考えておいてくれ」とも言われた。
 それが、なぜ急に──。
 頭を目まぐるしく回転させた。どうしても確かめたいことがある。ギシギシときしむ階段をのぼりはじめた。
 大きな段差を踏みしめると、奥まったスペースが中二階になっている。取引先との出納額を整理する帳場のような場所だった。恩師がひとりになるとき、よく使う。
 声をかけると、奥から師が身を起こした。
 ──戸田先生、理事長が矢島周平に変わると、自分の師匠も矢島になってしまうのでしょうか。
 その間いは言下に否定され、苦労ばかりかけてしまうが、君の師匠はぼくだよ、と答える場面は、これまでも公にされてきた。
 この回答が返ってくることを、池田青年は確信していたにちがいない。
 なぜならば、その直後に、こう言い切っている。
 「わかりました。では矢島さんではなく、戸田先生に必ず創価学会の会長になっていただきます。
 そのために私が全力で戦い、お守りします」
 
 三点の闘争目標
 
 この言葉には重要な意味がある。
 牧口初代会長が獄死してから、創価学会の会長職は空席のままである。
 この日、戸田城聖は事実上、学会で無役になった。新理事長の矢島は現時点の最高位にいる。
 こうした状況をふまえ、池田青年の発言を整理する。
 1.矢島路線を転換する。
 2.師を刑事責任から守る。
 3.師を新会長にする。
 この三点を理事長辞任という最悪の事態の中で即座に組み立てたのである。
 1.に関しては、矢島という男が、いかなる人物なのか、この章でつぶさに検討してみたい。
 2.は国法との戦いである。これは想像を絶する苦難がともなう。
 3.は、前の1.と2.が達成されて、はじめて可能になる。
 むしろ中二階での会話は、この三点の闘争目標を確認するため、あえて恩師に迫ったと考えるのが自然なのかもしれない。
 
 十月初旬、新たに大蔵商事株式会社が設立され、西神田の事務所におかれた。
 東京建設信用組合の精算に当たって戸田城聖は、その負債を全て個人でかぶることにした。これも学会に累を及ぼさないための苦渋の決断であった。
 しかし、なかには組合との契約を戸田個人とのそれに変えることを嫌がる出資者もいた。そこで新会社の大蔵商事と契約するかたちにしたのである。
 おもに金融と保険をとりあつかう会社である。戸田は新会社の最高顧問になり、代表取締役には元警察署長の男を迎えた。
 秋風の季節になっても、池田青年には上着がない。
 遅配つづきだった給料は、八月に半額が支払われたきり給料袋を見なくなった。
 活路を開くため、伊豆の伊東や埼玉の大宮にも足を運んだが、ワイシャツ一枚で働いている者など、ほかにいなかった。
 食費もない。タクワンをおかずに白米が食べられれば、まだよかった。
 十代から肺を病んでいるというのに、パン一個、リンゴー個で、しのぐ。見かねた義姉が外食券や衣類を届けにきてくれた。
 はた目には、こう映ったにちがいない。おかしな宗教に入って教祖にだまされてしまった──。
 だが池田青年が、どれほど苛烈を極める状況で、師匠のために苦闘し、血路を開いたか。その全貌を知るのは、師弟二人のみである。
 文字通り生死を共にした師弟の境地は、余人には知る由もない。
 
 西神田の町には、昼げのにおいが漂っていた。
 戸田城聖は事務所の机に座ったまま、食事を取ろうとしない。池田青年は、すばやく察し、ポケットの幾ばくかの小銭を確かめた。
 師に向かって、深々と一礼する。
 「王様、お食事の用意ができました。私が、お供申し上げます」
 戸田はニッコリとうなずくと、池田青年に案内され、町の食堂に向かった。
 ちょうどこのころ、仙台から就職先を探しに上京した、渋谷邦彦。池田青年の大森のアパートに五日間、泊めてもらった。
 朝が早い。帰りは、連日深夜。にもかかわらず、こまやかに気づかってくれた。
 「東京は食糧難ですから、これを使ってください」と、貴重な外食券まで分けてくれた。──こんな人が、学会にいたのか。
 池田青年の体調はすぐれない。時に激しく咳き込むと、のどの奥から生ぬるいものが逆流する。洗面所に駆け込み、背中を折り曲げる。流しや容器が、血に染まった。
 そんな場面を恩師に見られたことがあった。
 戸田は、同じく若いころ肺を病み、バケツに顔を突っ込んで血を吐いたこともある。
 まな弟子の背中をさすりながら、思った。
 俺は鬼のような男かもしれない。それでも、お前はついてきてくれるのか。
 池田青年だけが、頼りだった。
 
 十一月二十七日、池田青年は営業部長となる。部下はいない。このあと一年以上たってから新社員が採用されるまで孤軍奮闘であった。
 給料は三カ月も無配のままだったが、二十八日に一部を支給された。着替えがない。大森駅の近くで百六十円なにがしを払って、シャツなどを買った。
 翌二十九日は、冷たい雨がふり、寒波が街をひとのみにした。
 大蔵省にかけ合ってきた師が戻ってきたころには、みぞれになっていた。
 傘を閉じ、世の中は寒いなあ、と肩をすぼめた。
 
 
◇【第5回】  第2代会長 2 2009-1-10
 
「どこまでも 師弟の道を行け! 一人の青年が声を上げ学会は救われた
 
  矢島周平という男
 
 戸田城聖から矢島周平に理事長職が正式にバトンタッチされたのは、昭和二十五年(一九五〇年)十一月十二日、創価学会の第五回総会である。
 矢島の経歴については、さほど会内でも知られていたわけではない。
 信州生まれ。本籍地は長野県小県郡禰津村。共産主義にかぶれ、ずっと貧乏ぐらしの男だった。
 その矢島は、昭和十年の正月、親友に連れられ、牧口常三郎と会った。
 「私は法華経の修行者で。もしマルクス主義が勝ったら、私は君の弟子となろう。もし法華経が勝ったら、君は私の弟子となって、世のために尽くすのだ」
 矢島は度肝を抜かれ、三日とおかず牧口宅を訪ねる。
 三カ月ほど続いたころ「恐れ入りました。長い間ありがとう存じました」。
 帰ろうとする矢島を「待ちなさい。初対面の時の約束を、よもや忘れはしないだろうね」と牧口は制した。
 矢島は学会員となった。
 それから間もない日、牧口は警視庁の労働課長と内務省の警備局長のもとへ彼を連れて行った。
 共産思想から転向したことを伝えてから念を押した。
 「ご安心ください。今後、矢島君は、法華経の信仰に励み、国家有為の青年となります」
 矢島は教員をしていた。
 教育県の長野では共産思想にかたよった教員らが数百人も検挙され、多くが教職を追放された。この「教員赤化事件」と呼ばれる騒動に連座していた。
 わざわざ警視庁と内務省にあいさつしたのは、そうした背景のためと思われる。
 思想犯のレッテルを貼られ、闇から闇へ逃げるしかなかった矢島。それを、ここまで牧口が治安当局のトップと話をつけ、日の当たる場所に戻してもらったのだから、ありがたい話である。
 
 しかし、これほど世話になったというのに、矢島は軍部政府の弾圧に屈した。共産主義を捨て、さらに恩師の牧口をも捨て去ったのである。
 そのまま学会と縁を切るかと思いきや、戦後は、戸田に拾われ、日本正学館で働き始めた。女性雑誌「ルビー」の編集長などをしている。
 これだけ変節を繰り返してなお、混乱のすきを突いて理事長になるとは、相当に抜け目のない人物といわざるをえまい。
 学会の青年部にも、彼なりの計算で取り入っていたようである。
 そのころを知る人物。「人に取り入るのが、うまかった。青年部は、よく相談していた。戸田先生は、おっかないから、矢島のほうが話しやすかったのだろう」
 物わかりのいい顔をして、若手の歓心を買う。いずこの組織にも、ありがちな先輩である。
 
 現実は暗転しつづける。矢島に追われるように、戸田城聖は西神田を去る。十二月、大蔵商事の事務所が新宿の百人町に移った。
 現在の地図を見ると、新宿駅から山手線・西武新宿線が並んで北に延びていくが、やや北西にかたむく中央本線との間でVの字が措かれている。V字形の根もとあたりに事務所はあった。
 
 百人町からの反転
 
 今、その界隈にはカフェやファストフード店が並ぶ。煮干し風味で知られる人気ラーメン店に行列ができ、往時をしのぶものはない。
 しかし、かつてガード下にはベッドハウスがぎっしりと並び、その日暮らしの労働者が身を寄せていた。たえまない震動と走行音がする。
 その一角のレンズ工場跡地に事務所を置いた。工場の主は戦後、戸田城聖から法華経の講義を受けながら後に離れていった男である。
 地肌がむき出しの土間。机と、それを囲むようにして長椅子が置かれているだけだった。梁に裸電球が、ぶらさがっている。
 出版界のメッカ神田にくらべれば、都落ちの感は否めない。社員も池田大作青年のほかに戸田の親戚が二、三人しかいない。
 池田青年の日記も、こんな言葉で埋められている。
 「昨日まで、水魚の仲の親友も、今日は、腕を振るう敵となる。今朝まで、心から愛していた人が、夕べには、水の如く、心移り変わる。先日まで、親しく会話していた客人も、一瞬の心の動掘にて、血相を変えて怒る」(十二月十二日)
 親友が敵になる。朝には信じていた人が夕方に裏切る。うちとけていた客が一瞬で血相を変える。
 無理もない。
 新宿のガード脇にある小屋のような会社を見て、だれが将来性を信じるだろう。
 しかし、このどん底から反転は始まるのである。
 
 矢島にとっては一世一代のチャンス到来だった。
 百人町に移ってから、戸田城聖が西神田の本部に現れる回数も減った。それをいいことに組織の壟断をたくらむ。
 戸田に会うと「おお、これは戸田前理事長」と大仰に持ち上げた。
 口では「戸田先生」と言いながら、会合では同格の席次に並び、戸田が話している最中にも口をはさむ。さらに何人かの参謀格の手下に「矢島先生」と言わせた。
 だれもがあきらめ、傍観していたが、ひとり糾弾したのが池田青年である。
 矢島は、黒い噂の絶えない男であった。
 廃棄処分のチョコレートを会員に売りつける。女性会員に言い寄る。戸田城聖を慕う会員を切り崩し、自派に取りこむ。
 要するに、金、異性、権力欲が三拍子そろっていた。
 本来なら戸田が厳しく戒めるところだが、それどころではない。「おれの方には大作しかいなくなっちゃったな」とつぶやいている。
 「誰も『戸田先生』と言わなかった時、私がひとり『戸田先生、戸田先生』と叫んだ。叫び続けたんだ。師匠の名前を呼ぶ。叫ぶ。それが大事なんだ。『戸田先生』と叫ぶことで、私は学会を守ったんだ」(池田SGI会長)
 どこまでも師弟の道をゆくことを訴えた。
 もし専横を放置していたら、学会は矢島に乗っ取られたかもしれず、その結果として今とは似ても似つかぬ姿と化していたかもしれない。
 
 学会の機関誌である「大白蓮華」の巻額言。
 戸田理事長の辞任を受け、昭和二十五年の秋から、四回にわたり矢島が書いている。
 前の三本と最後の一本をくらべると、ある事実が浮きぼりになる。
 前者は、戸田城聖の話の受け売りであり、ほとんど盗用といっていい。苦境の戸田を守り、学会を支えるといった覚悟などまったくない。我こそ学会のトップと言わんばかりの論調になっている。
 ところが、後者では一転、さも戸田門下を代表するような物言いで書かれている。
 あまりに落差がある。
 その原因を探っていると、一会員が証言してくれた。
 「矢島? すごい理屈っぽい人。横柄で攻撃的だった。もちろん人気なんかなかった。とうてい信頼できる人じゃない。みな、これから、どうなっていくんだろうと心配だった」
 本人は、有頂天で多数派工作に熱中するものの、人望がともなわない。
 さりとて、矢島の増長をたしなめ、その暴走を食いとめる者もない。当時の学会首脳は、遠巻きにして洞ヶ峠を決めこむばかりである。
 「私は創価学会を幾度も救った。まず戸田先生の事業の苦境。矢島の謀略」
 周囲の話を総合すると、この四本日の巻頭言も、池田青年が師弟を正したことで、がらりと内容が変わったものと考えられる。
 だれが本当の師匠か分からなくなっていた学会を一人の青年が救ったのである。
        (続く)
時代と背景
  「この本を君にあげよう」。昭和28年の新春、恩師は1冊の本を愛弟子に手渡した。ローマを舞台にした大河小説『永遠の都』(ホール・ケイン著)。十数人を選び、回し読み.した。
 裏切るな! 青年ならば! 四面楚歌の情勢下、革命児ロッシイ、フルーノの同志愛を心に刻む。「嵐のような弾圧も、覚悟のうえで進む以外にない」(池田大作著『若き日の読書』)
 
【第6回】  第2代会長 3 2009-1-13
 
恩師と二人で創価大学の構想を練った
「必ずつくります 世界一の大学にします」
 
  学生街の食堂で
 
 昭和二十五年(一九五〇年)秋、池田大作青年に、師の個人教授は続いていた。ルソーの『エミール』などを題材にした。
 社会的、経済的に失墜しても、決して師弟は挫折していない。どん底にありながら、いよいよ師は大きな構想を描いている。
 神田は学生の街である。
 戸田城聖の事務所から外に出れば、専修大学が見えた。日本大学までも歩いて数分である。駿河台のなだらかな坂をのぼっていくと明治大学があった。
 日本橋川を渡れば、東京物理学講習所(東京理科大学の前身)の跡地である。
 二人は昼食に大学の食堂をよく使った。安くて満腹になる。なによりキャンパス特有の自由で伸びやかな空気が好きだった。
 十一月十六日、日本大学の学生食堂で、創価大学を設立する構想を練ったのも、こうした環境と無縁ではないだろう。
 「大作、頼むよ」
 「必ず、つくります。世界第一の大学にします」
 師は発想力が豊かだが、なにも会議室のテーブルで議論するわけではない。こんな風に、安い飯をかき込みながら自然と話が弾む。
 年の瀬、新橋駅近くの食堂でも同じことがあった。
 「新聞をつくろう。機関紙をつくろうよ。これからは言論の時代だ」
 はたから見れば噴飯ものかもしれない。巨額な負債をかかえ、返済のめどすらも立っていない。経済事犯の首謀者として検挙される可能性もある。
 何の資金もないのに、大学をつくる、新聞をつくる。正気の沙汰ではない。
 ひょっとすると、こうした構想は、ほかの機会にも多々、語られていたのではないだろうか。時と場所を選ばない人物である。それだけに「また冗談を」と聞き流され、記録にも残らなかった。
 しかし池田青年は本気で受け止めた。たとえ冗談のように聞こえる言葉でも、一つ残らず実行した。
 昭和二十八年の春のことである。
 ある男性が日光棄照宮の門前で働いていると、一人の青年が機敏に近づいてきた。
 門前でスッと背筋を伸ばして、高々と名乗った。
 「戸田城聖です!」
 ──この日、戸田会長は栃木方面を車で移動していた。徳川家康の霊廟である日光東照宮が近づくと、同乗していた愛弟子に言った。
 「家康君に『戸田城聖が来たぞ!』と、あいさつしてきなさい」
 命を受け、ただちに門前へ走ったのである。
 「一方的な大演説などで、本当のことは語られていない。小さな、ちょっとした懇談、雑談。そこで漏らされた話の中にこそ、師匠の本当の意図が語られている」(池田SGI会長)
 
 日比谷のお堀端を二人が歩いていた時のことである。ここは西神田から皇居をはさみ反対側に位置する。
 食事に行くというより、何か用事があったのだろう。顧客回りなのか、検察や官庁に届け出があったのか、定かではない。
 春の日だった。皇居の樹木をざっと鳴らして、雨粒が降ってきた。池田青年がタクシーをさがすが、すぐには拾えない。
 堀に面したビルから、背の高い白人が表通りに出てきた。第一生命のビル。連合国軍の総司令部が置かれていた。GHQ(連合国軍総司令部)の高官が高級車に乗り込むところだった。
 
 恩師と大楠公
 
 師は雨に打たれたまま、目をすぼめ、じつと光景を見ている。
 池田青年は悔しくてならない。最高の統治機関であるGHQには、輝くような権威の後光が射している。かたや戸田の財布はからっぼで、経済社会の底辺にいる。残酷なコントラストだった。
 タクシーに師を乗せながら、いつの日か車を幾十台もそろえ、立派な建物をいくつも建てると約束した。
 このできごとがいつだったか、年月日は特定できない。しかし、たとえ満身創痍になろうとも、心は折れていなかったことを物語るエピソードである。
 後に、牧口・戸田両会長の名を冠した大規模な会館が生まれるが、その淵源も、この苦闘期にあったと思われる。
 
 昭和二十六年(一九五一年)の年が明けた。
 池田青年にとって、これほど暗い正月もなかった。年頭から気管支炎をわずらい、信用組合の整理もっいに来るべきところまで来てしまった。
 債権者に戸田は告訴され、大蔵省の心証はきわめて悪い。頼みの顧問弁護士まで、さじを投げてしまった。
 一月六日の土曜日、師の自宅に呼ばれた。大蔵省に提出する書類を整理するためだったが、戸田と妻のほかは、だれもいない。
 恩師は非常手段として検察に出頭するつもりであると告げた。状況によっては身柄がどうなるかわからない。覚悟を口にしたとき、かたわらで妻の幾が泣きくずれた。
 心労から戸田の頬はこけていた。万一の場合、学会のことも、事業のことも、家族のことも引き受けてくれないか、と頭を下げた。
 弟子は、すでに一生を師匠に捧げる覚悟ができていることを述べ、大橋公の楠木正成、正行親子に、二人を重ね合わせた。
 今日なお、池田会長はピアノに向かうさい、好んで"大楠公"を弾く。ただの楽曲ではなく、それは師との、生死をかけた日々の記憶と、分かちがたく結びついているからであろう。かつて"大楠公"を奏でたとき、手拍子でメロディーに和そうとした者を厳しく制したことすらある。
 「必要ない。私は戸田先生を偲んで弾いている」。およそ余人の入り込む余地のない縁なのである。
 しばらくあとの日記に、こう記した。
 「師弟ノ道ヲ、学会永遠ニ、留メオクコト」
 一月中旬のある日。
 ひもで十字に結わえた十冊ほどの本を手に、池田青年が出かけると、蒲田駅の西口で一人の男子部員と、ばったり会った。
 恩師のため、愛読書を古書店に売るところだった。立ち話の切れ目に、小さな紙片を出し、さらさらと書いて渡した。
 心情を投影した一文が記してあった。
 「謗(そし)る者は汝の謗るに任せ
 囁(わら)う者は汝の囁うに任す天公 本我を知る 他人の知るを覓(もと)めず」
 幕末の思想家・佐久間象山の言葉である。この日は愛読書『プルターク英雄伝』のセットなどを手放し、戸田の生活を支えた。
 謗るなら謗れ。笑うなら笑え。その覚悟は深く、ゆるぎなかった。
 二月の中旬には、この年三度目の雪が降る。翌日までに何とかしなければ、担保になっていた恩師の自宅が取られてしまうという日もあった。
 
 事態は急転する。
 大蔵省から、組合員の総意がまとまるならば組金を解散してもよいという内意を伝えてきた。
 これ以降、交渉は順調に進み、三月初旬には組合員全員の決議により解散することが決まった。
 いかなる事情で、大蔵省の心証が好転したか、確たる資料はない。
 ただ、びくとも動かない岩盤に、渾身でドリルを打ち続けたのは、池田青年だった。
 真っ暗闇のトンネルで、この若者がいるうちは倒れてなるものか、と戸田に力を与えたのも彼だった。
 恩師が経営する金融事業は、資金を調達する営業と、債権を回収する整理の部門に分かれていた。
 池田青年は営業の責任者となった。
 三月十一日をもって東京建設信用組合は解散し、専務理事・戸田城聖に対する法的義務も、いっさい消滅した。
 ついに虎口を脱したのである。いよいよ新会長の誕生が焦点になる。
 しかし楽観は禁物だった。
 たとえ会長になっても、信用組合の精算によって生じた莫大な負債は、戸田に重くのしかかる。
 創価学会の財政基盤を戸田城聖個人で背負う体制にも変わりはない。
 そうした財源を確保できるかどうか。
 すべては事業の状況、つまり池田青年の働きひとつにかかっていたといってよい。
 
【第7回】  第2代会長 4 2009-1-14
 
市ヶ谷の分室で 恩師は面接指導した
  一対一の対話があるから学会は強い
 
  第二代会長が誕生
 
 昭和二十六年(一九五一年)五月三日。この快晴の木曜日、戸田城聖は創価学会第二代会長に就任した。
 組織も一新され、新進気鋭の人材が登用された。
 しかし、池田大作青年には師の事業を軌道にのせる責務がある。
 大将軍を先頭に進撃が始まったものの、兵站(へいたん)を考える者は誰もいない。そのため、最末端の役職にとどまる。
 苦境の戸田城聖を支え、復活への血路を開き、矢島周平の野望を砕き、第二代会長に就かせたのは、池田青年にほかならない。
 その存在なくして「戸田会長の誕生」はなかった。にもかかわらず、会長就任後の役職は、わずかに男子部班長にすぎない。
 事情を知らない青年部幹部のなかには、ふだん活動に姿を見せないことをあげつらい、批判する者までいた。
 もとより覚悟である。男子部の後輩に語っている。
 「私は釈迦の弟子の中で、密行第一といわれた羅?羅(らごら)一番好きだ。私は、それで通すんだ」
 羅?羅とは、釈迦十大弟子の一人である。
 厳しく戒律を遵守し、みずから表に出ることばない。陰で黙々と働き、教団を支えた弟子である。
 
 その後の矢島周平である。
 第二代会長が誕生した昭和二十六年五月に、矢島は理事長を更迭され、指導監査部長に転じた。さらに九月には、自ら申し出て、この役職も辞している。
 この手の男には、あまり追跡リポートがないものだが、翌二十七年四月の聖教新聞に消息が掲載された。
 「指導方針が真実の大聖人様の教からはずれたため、大きな錯誤を学会員の指導及び自己の生活に暴露した」
 幾多の証言と一致する。「教えからはずれた」何かがあったようである。
 昭和二十八年六月の続報。
 「会長推戴の前後より事業に失敗し、以後しばらく学会より離れていたが、昨年一度再起せんとして果さず」
 事業に失敗し、そのまま立ち直れなかった。その後、戸田会長の情けで出家し、学会が寄進した寺におさまるが、反省の色は見えなかった。
 戦前は自分を拾ってくれた牧口会長を捨て、戦後は戸田会長を裏切った。やはり一度、裏切った男は何回でも繰り返すものと言えようか。
 
 戸田会長の事業も新しい段階を迎えた。
 会長に就任して間もない五月末、百人町から市ヶ谷の貸しビルの二階に移った。
 お堀端。市ヶ谷駅から橋を渡って、ほぼ向かい側。打ち放しコンクリート三階建てである。百人町の事務所に比べ、格段の違いがある。
 戸田会長は市ヶ谷ビル内のレストランで、よく昼食を取った。エビをソースで和え、穀にのせたコキールが好物だったようだ。シェフの夫婦とも親しくなった。
 西神田の事務所で行っていた会長の個人指導も、この市ヶ谷ビルに舞台を移す。
 学会本部の分室と聖教新聞の編集室も置かれた。
 分室は四、五坪ほどの小さな部屋だった。窓際に大きめのデスクがあり、その机上に一輪差しとインク立てが置かれている。
 ここで会長は缶入り「ピース」から一本を取り出し、うまそうに吸った。
 缶に入っている円形の紙を取っておき、折々に詠んだ歌を記して会員に贈ることもあった。
 
 「信頼を売る」
 
 分室で会長の指導を求める会員は、デスクの前の丸椅子に座る。部屋の両脇に置かれた長椅子にも、みっちり人が腰を下ろしている。
 コンクリートづくりで、冬場は足もとから、しんしんと冷える。練炭火鉢がたかれた。せまい廊下にまで行列ができた。
 戸田会長は、時には机に身を乗り出し、時には、たった一言で突き放すこともある。
 森田秀子には印象的な師の一言がある。
 「面接というのは、すごく疲れる。濁流の中で、たったひとり一本の旗を持って立っているみたいだ。ちょっとでも心がゆるむと、その旗ごと倒されそうだよ」
 この一対一の対話が学会の伝統になる。
 個人指導は午後二時から四時過ぎまでだが、遅くなる日もあった。最後の一人を見送ると、別室のひじ掛け椅子で休んだ。
 それ以外の時間は、執筆にあてることが多い。極度の近眼のため、字を書くのは辛労が大きい。
 タバコをくゆらせたり、仁丹をかみながら口述する。秘書の書きとめる内容が、そのまま「大白蓮華」の巻頭言や聖教新聞の記事になった。
 池田青年も、市ヶ谷に出勤した。
 昭和二十七年(一九五二年)一月に入社した吉田顕之助。先輩の池田青年に仕事を教わった。
 大井町駅のすぐ近くで炭屋を営む壮年に、出資を願いに行った日のことである。
 堂々と大股で歩く先輩の背中が頼もしい。営業の現場を見て、驚いた。
 壮年と会い、礼儀正しく挨拶すると「景気は、どうですか」。
 世間話から始める。お互いの身の上を語り、会話が弾むが、いっこうに商談は出てこない。想像とはまったく違うではないか。
 吉田が気をもみはじめたころ、壮年がキッパリした口調で告げた。
 「分かりました。出資させていただきましょう」
 それだけではない。壮年は後日、出資者になりそうな知己まで紹介してくれた。
 その後も、池田青年に従って現場を踏んだが、どこに行っても同じだった。
 仕事の話は一言もしない。だが最後は決まって、相手から申し出てくれた。
 不思議でならない。だが、やがて気づいた。まず自分を信頼させる。そして、師を信頼させているのだ。
 みな、池田青年という人物を人間として信用して、協力している。
 「営業とは自分という人間を売ること。信頼を売ることなのか」
 このころから、業績は次第に好転していく。職場の陣容にも、ようやく余裕が生まれ、戸田会長の財政事情も、かなり盤石となった。
 「機は熱したか......」
 重大な決断を下した。
 「大作を出してもいいころだな」
 戸田会長は池田青年を組織の第一線に出す。
 
 戸田会長と過ごした「池田青年の十年」。事業の打開とともに、そのもう一つの核をなすのが、苦闘期の昭和二十五年から行われた一対一の個人教授である。
 戸田大学とも呼ばれる。
 そこで何が語られていたのか、速記の資料等は残されていない。
 ただ、この戸田大学は、その後、二つの発展形態をたどっていくため、そこから類推することは不可能ではない。
 一つは大学の教養課程レベルの講義である。やや学問的な色彩が強い。
 もう一つは古今の文学作品を教材にした指導である。学会の運動論と深く結びつく。
 前者は、市ヶ谷の事務所で早朝に行われたことから「早朝講義」と呼ばれた。
 これには社員たちも同席が許された。
 後者は、事業がもっとも苦境にあった時、池田青年をはじめ代表十四人に語った講義である。『永遠の都』などが教材で、戸田会長の就任後に終了する。
 古今の文学作品は、戸田会長の心のフィルターを通すと、実に示唆に富む青年育成のテキストになった。
 その後、池田青年の申し出により、青年部員を選抜しての指導会が行われることになった。
 それが「水餅会」である。
        (続く)
時代と背景
 恩師の事業が軌道に乗り、組織の第一線に躍り出た。蒲田では月201世帯の弘教を指揮し、当時の限界を破った。(小岩・向島・城東を擁する第一部隊長として青年勢力を倍増。最下位クラスに低迷していた文京支部もA級支部に押し上げた。
 背に焼けた鉄板を入れたような疲労が続く。「だが、私は、自己との妥協はできない情勢になつていた」(池田大作著『私の履歴書』)
 
【第8回】 水滸会 1  2009-1-16
 
人材だ!全ては人で決まる
青年を見つけて育てた分だけ広宣流布は進む
 
  ある日の学会本部
 
 西神田の学会本部。靴音を鳴らして男たちが次々と走ってくる。
 昭和二十八年(一九五三年)の秋ごろである。右隣の印刷所との間に細い路地があった。体を斜めにすべらせ、横なりになって進む。
 奥の勝手口から入るが、ここは水もれのせいで、いつも土間がぬれている。頭上の裸電球は薄暗い。
 二階まで階段を上がると、部屋の時計は午後六時。ひと安心して、カバンから一冊の本を取り出す。
 佐藤春夫訳、中央公論社刊『新譯 水滸傳』である。
 水滸会は時間厳守だった。一分一秒たりとも遅れてはならない。戸田城聖会長の会社で働く者もいたが、早退できなかった。
 「きょうは水滸会があるので、早めに......」
 上司は営業部長の池田大作青年である。
 「とんでもない。きょうの仕事は、きょう全部やり切るのが当然だ」
 あわてて仕事に集中し、ぴったり六時に間に合った。
 「よくやった。それでこそ水滸会だ」
 ここで努力を評価するのも池田青年だった。仕事も活動も、ゆるがせにできない。参加者の心は引き締まった。
 
 ある日の水滸会を再現してみよう。
 開始までの短い時間も、ぴんと空気は張りつめている。教材を読了していればじっと前を見すえ、未了だと懸命にページをめくる。夕飯代わりの焼きイモを古新聞にくるんできたが、とても食べられた雰囲気ではない。
 全員がそろったのを確認し、池田青年が戸田会長を迎えにいく。
 トン、トン、トン。静まり返った部屋に足音がする。
 「よお、そろっているな」
 戸田会長が姿をあらわす。
 「こんばんは!」
 三つ揃いの背広を着込んだ戸田会長は参加者の脇をすり抜け、籐いすに腰かけた。
 机上には灰皿と一輪ざし。小さな花が生けてあり、男ばかりの部屋で、ここだけが華やいでいる。
 会長は手ぶらである。向かって右に池田青年、左に青年部長の辻、男子部長の平田が座った。
 
 参加者には、あらかじめ論題が与えられ、テーマにそった研究内容を発表する。
 第九巻が教材だった。第一間は「黒旋風李逵(こくせんぷうりき)を退けた時の宋江(そうこう)の成長、人物起用について」である。
 宋江。水滸伝の主人公で、梁山泊の豪傑をひきいて、腐敗した官軍と戦う。
 黒旋風李逵。マサカリで敵をなぎ倒す梁山泊きっての猛者だが、頭に血が上ると味方まで殴り殺してしまう。
 池田青年が立ち上がる。
 「では議題についての説明をお願いします」。担当者を指さした。
 「七ページを開いてください。ここから黒旋風李逵を退ける場面場面が始まります」
 すっと立ち上がり、よどみなく解説をくわえていく。周到に準備していることがうかがえる。。
 
  宋江と黒旋風李逵
 
 研究発表は組織ごとに分担されていたので所属組織の誇りもかかっていた。
 「宋江が東京(トウケイ)へ忍びを遣わすことにしたとき、相棒にだれかいないかと聞いた。すると、いきなり黒旋風李達が『俺がゆくべ』と名乗りをあげた。ところが、宋江は一喝のもとにこれを退けたというわけです」
 あわただしくべージを開き、該当個所をチェックする男もいれば、ライバル心を丸出しにして、腕を組んで、にらんでいる者もいる。
 仁丹をかんでいた会長が顔を上げた。「トンキン(東京)湾というのがあったな。どのあたりになるかな」
 みな分からない。担当者も固まってしまう。
 さっと地図を広げ「この下のほうになっております」。池田青年だけが反応した。
 「そうか」とうなずくと、おもむろに口を開いた。
 「仏印(フランス領インドシナ=現在のベトナム、ラオス、カンボジア)に近いな。旅行をして、その土地を見ることは大事だ。太平洋戦争は愚かだったが、日本人が大陸で見聞した事実はまとめて、子どもたちに残さなければならない」
 何かを縁に、ふと思い出したように語ることが、しばしばあった。
 発表のあとで、池田青年が場内に意見を求めた。さっと手があがる。
 「宋江には知的な面と情的な面の二つがあります。これまで情に流されて黒旋風李逵を使い、失敗したことがあった。もう失敗できないので、知的な面から冷静に判断して切った。こう考えます」
 似たような発言が続く。要するに前回、黒旋風李逵を使って失敗したから、今回は用いなかったという点に集約された。
 発言が一段落するのを見て、戸田会長がタバコの火をもみ消した。
 「そんなところかな」
 咳ばらいを一つすると、今まで意見を述べていた青年の顔をじっと見すえながら話をはじめた。
 「人を使うということは、非常に重大な問題だ。人を使う場所をまちがえると一軍の大敗をまねく」
 すべては人で決まる。
 背筋をたださずにはいられなかった。まるで、今しがた発言した内容について、お前たちは責任がもてるのか、と迫られているようだった。
 青年を見つけ、育てながら広宣流布の命運を背負っているリアリティーが戸田会長にはあった。
 「宋江は黒旋風李逵という男をよく知っていた。だから起用しなかった。要するに人材を見きわめる力が必要なのだよ。そうでなければ適材を適所へ出すことはできない」
 人物を知り尽くした上での配置であり起用だったと指摘した。
 「よし、きょうは終わりにしよう」
 第六問まで終え、立ち上がると、時計の針は午後七時五十分をさしている。二時間近くもたっていたが、参加者には、あっという間である。
 池田青年の指揮で「星落秋風五丈原」の合唱が始まった。戸田会長が最も好きな歌である。ふたたび腰をおろし、静かに目を閉じた。
 四番、五番の歌詞にさしかかると、おもむろに席を立つ。池田青年が先導し、歌声に送られて退場した。
 多くの証言をもとにすると、会合の様子は以上のようになる。
 水滸会の歴史は、それほどオープンにされてこなかった。どんな準備をして臨んだのか。そもそも、どのように会合が進行したのか。
 当時の水滸会員に、しらみつぶしに当たった。服装。集合時間。式次第。配席。予習。終了時聞。宿題。こまかい点まで質問をぶつけた。
 水耕会ではメモが許されなかった。断片的な記憶しかない。しかし求めているのは、全体像であり、系統だった話である。戸田会長と青年のやりとりを再現したい。
 かれこれ二十人ほど取材したころ、資料が見つかった。目次もついていて全体像がわかる。よほど大事にしたのか、西陣織の風呂敷に包まれていた。
        (続く)
時代と背景
 昭和27年9月、佐藤春夫訳『新訳 水滸伝』の第1巻が書店に平積みにされた。定価250円。 中国の北宋時代、梁山泊の英雄豪傑が悪徳官吏を打倒する物語である。吉川幸次郎など十数種の名訳がて生まれた。最新の文学事情にくわしい池田青年は水滸会のテキストに選ぶ。戸田会長も仕事の合間によく、近くの者に『水滸伝』や『三国志』を読ませ、じっと聞いていた。
 
【第9回】 水滸会 2 2009-1-17
 
 戸田思想の源流
 
 新たに発見された水滸会の資料。調べるにつれて、抱いていた概念が崩れていった。
 戸田城聖会長の言葉には、創価学会の会内にしか通じない、いわば内側を向いたものなどはなかった。
 まとめられた資料のインデックスを見ても、政治や経済に関するものが並んでいる。
 政治でいえば、国家機構、外交、教育行政。経済なら、経済政策、経済人。
 学会の目的である広宣流布を論じた個所もあるが、日本民族論や革命思想、戦争、指導者、処世など、外に話を開いた項目が目についた。
 要するに、天下国家を論じる話が多い。
 いかに実学を重んじたかもうかがえる。観念論などない。仏法哲理に裏づけられた社会論、現実変革論である。
 
 
 資料を前にすると、ふたつのことが浮かぶ。
 第一に、当時の日本の社会状況である。
 占領下にあった日本は、昭和二十六年(一九五一年)九月八日、サンフランシスコ講和条約に調印。
 翌二十七年四月に発効して、日本の独立が回復された。まだ主権国家として歩みはじめたばかりだった。
 新しい社会の創生期である。あらゆる団体や組織が、我が地盤、陣地、版図を広げるため、いっせいにスタートダッシュした。
 そんな時代背景だからこそ社会の青写真を示したのではないか。国家観。世界観。大局的な視点を与えている。
 それこそ、戦争で一切の価値観が崩れ、精神的に渇いていた青年世代が求めていたものでもある。
 第二に、ここには戸田思想の源流があり、そのすべては第三代の池田大作会長に引き継がれたことである。
 池田会長の人生には、社会運動家としての側面が強いことを、よく世界の識者が指摘している。その遠因は、どこにあったのか。答えを見つけたような思いがした。
 公明党の創立。
 創価一貫教育の完成。
 民主音楽協会、東京富士美術館を両輪にした文化事業。
 平和運動にしても戸田記念国際平和研究所を創立するなど、常に社会に開いた運動を起こしていく。
 いわゆる経営手腕、事業家としての力量がなければ、これほどの運動を牽引することはできない。
 水滸会資料に、その豊かな種子を垣間見るのである。
 水滸会には、前史がある。
 当初、三十八人の陣容で昭和二十七年十二月にスタート。発刊まもない佐藤春夫の『新譯 水滸傳』をテキストに戸田会長は毎月二回ほど、男子部の代表を訓練した。
 格調高く、臨場感あふれる文体だった。
 メンバーは青年部長、男子部長、当時の四部隊(男子部の部組織)の代表で構成され、池田青年の役職は班長だった。
 
 公明選挙をやれ
 
 しかし回を重ねるごとに、惰性がしのびよる。飛びこみの参加者までいた。
 その象徴が一人の中国帰りの学生だった。調子に乗って中国酒の作り方などを、えんえんと話したことから、戸田会長は激怒した。
 「こんな腐ったところにいても、どうしようもない。私は帰る」
 立ち上がり、ぷいっと部屋を出ていった。
 首脳は、おろおろするばかりだった。
 そこで指導力を発揮したのが池田青年だった。
 人心を一新するとともに、三つの誓いを起草して、戸田会長に水滸会の再開を願い出た。
 宗教革命に生きる。
 師の精神を受け継ぐ。
 仲間を表切らない。
 この三点を骨子にした「水滸の誓」である。
 戸田会長も諒とし、四十三人が誓いに署名、拇印した。昭和二十八年(一九五三年)七月二十一日、再生なった水滸会が発足した。
 
 再出発で明確に変わったのは、指導体制の確立である。
 人選、教材の選定、日程、討議内容など、運営に関するすべてが池田青年を中心に進む。青年部長、男子部長は同席するものの、いわゆるオブザーバーで、これといった権限はない。
 (池田青年は昭和二十八年一月に男子第一部隊の部隊長に就任したため、この章では池田部隊長と表記する)
 戸田会長は水滸会を一時的に中断させた段階で、すでに新しい体制への切り替えを企図していたのかもしれない。
 新生・水滸会での戸田語録は、そう確信させるほど精彩を帯びて浮かび上がる。
 大半の会員は夢物語のように聞いていた。それも当然と思えるような壮大な構想なのである。
 だが、それは、池田部隊長によって、後に次々と実現されていく。まず、その事実に驚かされる。
 水滸会といっても、満足に学問をしてきたメンバーは少ない。顔ぶれを見れば、どこにでもいる平凡な若者ばかりである。
 油まみれになって働く修理工もいた。小学校しか出ていない者もいた。小説を読んで筋を理解するにも、ひと苦労である。
 戦後の教育制度も軌道に乗り始めたばかりである。戦前は兵隊の位で人間に序列があったが、戦後は学歴や会社組織のなかで新しい格差が生まれようとしていた。
 戸田会長の結論は明確だった。
 「学校の優等生が、かならずしも社会の優等生とはかぎらない。日本の学校は全科目で高得点を取らせる教育だ。
 しかし、社会に出てからは平均点よりも、一つでも九〇点があったほうがよい。一芸に秀でることだ」
 
 政界も混迷していた。
 昭和二十三年(一九四八年)には昭和電工事件があった。復興金融金庫から融資を受けるため、化学工業会社の昭和電工が、政府高官に金をばらまいたのである。
 「日本の昭電事件なども、賄賂がもとである。政治が腐っていった。選挙なども、『三当二落』なんて言っているが、三千万円使えば当選する。二千万円では落ちるということだそうだ」
 「その選挙に使った三千万円は、当選してから、どこかで生み出さなければならない。そこにまた汚職問題が起こってくる。学会は、そんなものを一銭も使わないで、公明選挙をやるのだ」
 日本の政治の悪弊を痛烈に批判した。
 この政治風土を打破したのも池田部隊長である。
 次章でくわしく述べるが、昭和三十一年(一九五六年)の参院選で大阪地方区の候補者を手弁当で当選させ、世間をアッと言わせた。
 それには理由がある。
 選挙といえば、今日からは想像もっかないほど、金がかかっていた。金がらみ、利権がらみ、縁故がらみでなければ、まともに動かない。選挙事務所に行けば、飯が出され、酒が出される。その握り飯の中には、札がねじ込まれている……。
 世の中が考える選挙運動とは、およそ、そのような実態だったからである。
        (続く)
時代と背景
 水滸会の発足に先立つ昭和27年10月21日。 戸田会長は女子部の人材グループ「華陽会」を結成。『二都物語』『三国志』などをテキストにした。
 この年の5月3日、恩師は会長就任から1周年となる日を選んで、池田青年と香峯子夫人の結婚式に出席。夫人の前途には想像を絶する苦難が予想されたが「彼女は『結構です』と、微笑みながら答えてくれた」(池田大作著『私の履歴書』)
 
 【第10回】 水滸会 3 2009-1-20
 
「今に世界の指導者がやってくるぞ」
周恩来やネルーと語り合う時代を恩師は見つめた
 
 忙しくすれば人材が出る
 
 水滸会で、吉田松陰とその門下を描いた『風霜』がテキストになった。庶民感情に通じた著者・尾崎土郎の作風を戸田城聖会長は讃えた。
 「日本の文学者のなかでは、ひとつの思想を、ちゃんと持っているという点で尊敬できる」
 松陰門下の高杉晋作を、こよなく愛した。三味線をひきながら奇兵隊を指揮した。
 「面白いじゃないか。こんなふうに悠々と指揮した晋作は、よほどの大人物だ。我々の人生も、晋作のように悠々といきたいものだ。
 もし歴史上の人物に会えるものなら、ぜひ高杉晋作には会ってみたいな」と笑う。
 「先生、でも明治維新の志士たちは、生活が、めちゃめちゃでした」
 きちょうめんな青年から、こんな声があがった。
 「たしかに、そうだ」
 会長は認めた。
 「革命だから、やむをえない面もあるが、要するに彼らは遠視眼であった。国家のことのみを考え、自分のことを考えていない。これでは駄目だ。我々は正視眼である。国家のためであり、また自分のためでなければならない」
 晋作に会ってみたい──戸田門下から高杉晋作のような傑物が欲しいというシグナルでもあったろう。
 維新の志士を出した長州藩(山口県)は、明治政府でも実権を握り、その後、保守政党の牙城となる。
 学会の布教も後れを取っていたが、後に池田大作部隊長が戸田会長のもとで「山口作戦」を立案する。晋作のように自在に転戦し、組織を躍進させるのは、昭和三十一年(一九五六年)秋から翌年にかけてのことである。
 
 戦後、どの会社でも雨後の筍のように労働組合が結成された。日本国憲法によって労働基本権が認められ、大横模なストライキが世間を騒がせていた。
 「ストライキの話し合いは、全くへたくそだ。話し合いのこつは、刀を持って、抜くぞ、抜くぞという気配を見せながら交渉するのだ」
 組合活動に身を挺していた青年もいたが、まったくその通りだと手を打った。
 戸田会長は会社を経営し、多くの若者を雇ってきた。その経験から青年像も語った。
 「人の信用を得る根本は約束を守ることだ。何を犠牲にしても、絶対に約束をがっちりと守ることにより、借用が得られる。これは青年の絶対の社交術である。できないことは、はっきりできないと断る。引き受けたら、絶対にやる。これが信用の根本であり、金はかからない」
 金のかからない方法を知って、彼らは大いに喜んだのである。
 誰よりも人生の浮沈を味わってきた師の、ふとした一言には、千鈎の重みがあった。
 「自分自身を、じつと見つめなければ宿命の打開はできない。指導に際しても、宿習に悩む自分の姿をそのまま見せてやればよい。決して偉そうな顔をしてはいけない」
 人材育成についても極めて現実的な持論があった。
 「人材を輩出させるためには、忙しくさせるのだ。そうすれば組織が若返る。その中で人材が養成されるのだ」
 
 戦後、アメリカ文化の流入とともに、キリスト教が布教した。
 「東洋の広宣流布といっても、その根本は一対一の個人折伏と座談会以外にはない。伝道のために牧師を派遣したり、慈善事業をやったり、職業化している宗派もある。
 しかし学会は、どこまでも座談会を中心にした折伏が原則である」
 
 エリート主義の打破
 
 戸田会長の話は、まさに縦横無尽だった。
 新聞は一紙にかぎらず、何紙かを情報源にしていたようだが、極度な近視である。大きな見出しは読めるが、記事は判読しづらい。
 あまりラジオニュースもかけず、そばの者に、よく古典や歴史小説を朗読させていた。それでいて、ずばりと現代社会の事象の本質を突く。
 朝鮮戦争(昭和二十五年~二十八年)の報道でも、南北の対立を後ろで操る米国、ソ連の動向を追った記事は多かった。
 しかし、会長は「彼らのなかには(中略)『お前はどっちの味方だ』と聞かれて、驚いた顔をして『ごはんの味方で、家のある方へつきます』と、平気で答える者がなかろうか」と「大白蓮華」の論文に書いている。
 政治体制の優劣よりも、民衆を幸福にできる政治であるか否かを問いかけた。
 
 さらに水滸会で、今に世界の指導者がくるぞ、と将来を思い描く。実際家らしく、具体的な建物の間取りまでうれしそうに語る。
 「一階は下駄箱をたくさん置く。エレベーターもつくる。三階は広間にする。
 四階は外国人を招く。
 五階には歴代の会長の写真を飾る。すばらしい日本間もつくるんだぞ。
 せっかく外国の首相を呼んでも、座らせるところがなくては困るからな。
 そうだな、毛沢東や周恩来、ネル一首相だの。マッカーサーは呼んでやろうよ」
 青年たちは酔いしれたように聞き入っている。ひとり池田部隊長だけが、近い将来の懸案として胸に刻んだ。
 今日、学会には大規模な収容人数の会館が整ったが、その原型もここにある。
 こうした施設を実際に建て、世界からの賓客を迎えるのは池田会長の時代である。
 師が実名をあげた中国の周恩来とも会い、ネル一家の後継者とも友情を結んだ。
 
 水滸会の存在は当初、一般会員には伝えられなかった。
 昭和二十九年一月一日付の聖教新聞に、初めて紹介されている。水滸会は前年の七月に新出発したので、半年近く伏せられていた。
 「男子青年部員にとって最大の名誉は水滸会員となる事だ」「先生の広布への構想を一言も聞き逃すまいと真剣そのもの」
 そして最後は、世界を夢見させる革命児の集いこそ水滸会と結ばれている。
 青年たちは色めき立った。水滸会は、一気にあこがれの的となった。
 戸田会長は推移を、じつと見守っていた。ある時、こんな話をしている。
 「本部にシロという犬がいる。よく、わしのひざに上ってくる。おっぽり出すと、また上ってくる。また、おっぽり出すと、今度は鼻にかみついてくる。
 わしのところへ来い。水新会員とは会う。いつでも会長室に入ってきてよい。来るのはお前たちの勝手だ。会いたくないと断るのも、わしの勝手だ。断られて会いに来るのも、またお前たちの勝手だ」
 水滸会員を愛犬シロにたとえるのも戸田会長らしいが、ストレートな愛情が伝わってくる。
 会いたければ来い。
 これが戸田会長のスタンスだった。自然体である。妙に構え、特別に選んだような「エリート主義」は微塵も感じられない。
 もし特別意識が水滸会にあれば、勘違いも、はなはだしい。またしても水滸会を中止にせざるをえない。
 同じ危惧を抱いていたのが池田部隊長だった。
 増長、傲慢、思い上がりに厳しい。時に周囲からは過剰と見えるほど厳しかった。
 ある時、誰かが戸田会長に聞いた。
 「先生、この中から大臣か、国会議員が出るんでしょうか」
 会長は遠くを見つめるように語った。
 「それは出るさ。政治家も出る。弁護士も出る。裁判官も出る。学者もいるだろう」
 まわりを見ても、そんなやつはいない。きっと将来、水滸会に、そういう人物が入ってくるのだろうと、参加者は勝手に納得した。
 その一方で、俺がなるに違いない、と思い上がっている者もいた。
 『水滸伝』の暴れん坊・黒旋風李逵に話題が及んだ折。
 「今で言えば誰だ」
 青年の顔を見回した。皆が押し黙った。
 「お前だな」
 指されたのは後に議員になる男だった。
 相撲も強い。足も速い。ロもうまい。才におぼれるタイプである。
 別の機会にも見栄っ張りな心根を切られている。しかし気づかない。
 「そうかなあ、おれ、そうかなあ。そんなこと言われたら、いやんなっちゃうな」
 おどけていたが、やがて退転していく。
        (続く)
時代と背景
 戸田会長はアジアの民衆の幸福を願っていたが、ネルーのもとで独立したインドも、毛沢東、周恩来が建国した中国も、まだ貧困にあえいでいた。朝鮮半島は動乱の舞台になった。水滸会が再出発した昭和28年7月、朝鮮戦争の休戦協定が調印された。朝鮮特需は日本経済を救った。
 昭和33年完成の東京タワーも一部、戦争で使われた戦車を解体した鉄材が原料になる。
 
【第11回】 水滸会 4
 
宗門は組織が老いている
学会が伸びたのは組織が若く新しいからだ
 
  全体観に立て
 
 昭和二十九年(一九五四年)二月九日の水滸会。会場は信濃町の学会本部である。前年の十一月に西神田から本部を移している。
 前日の八日、戸田城聖会長は学会本部で御書講義を終え、会長室で倒れた。一時間あまり発作が続き、畳がぬれるほど汗を流した。
 「大、大はいないか、大作は......」
 熱にうなされながら池田大作部隊長の名を呼び続けた。
 だが昨日の発作には触れず、何事もなかったように会合を始めた。
 水滸会での指導は、しだいに遺言の様相を帯びていく。
 
 この日は『水滸伝』第九巻を終了する予定だった。
 最初の議題は「遼の国の申し出に対する呉用と宋江の相違」だった。
 すでに梁山泊の軍勢は、宋の国の正規軍に編入されていた。北方異民族の遼を討つため遠征してきたが、敵の遼から使いが来る。
 お前たち、こっちへ寝返らないか。もし我が国につくなら重く用いるぞ。
 宋江は、腐敗しているとはいえ、宋の朝廷のもとで戦う考えだった。
 一方、参謀の呉用は、堕落した宋についても仕方がない、遼と結んだほうがよいと考えた。
 「それでは意見交換に入ります」
 司会に向かって、いっせいに手が挙がった。
 「学会の組織にあてはめてみれば、宋江がリーダー、軍師の呉用は作戦担当にあたります。意見が違うこともあるでしょう」
 「宋江の立場は忠義ひとつです。むしろ部下たちの心が揺れるのを心配しているのだと思います」
 あとは先細りで、似たような意見ばかりになった。池田部隊長がバッと軌道修正をうながす。「違った立場から答えなさい」。しかし、相変わらず話の幅が広がらない。
 仁丹をかみながら青年の議論を聞いていた戸田会長が短く言った。
 「諸君が宋江なら、どうする。呉用につくのか、つかないのか」
 池田部隊長が大きな声で言った。
 「呉用につく者は?」一人も手があがらない。
 「では、つかない者は?」
 さっと全員の手があがった。宋の国のもとで戦うという判断である。
 会場の隅で東京大学の学生が当時の戦略状況を分析し始めたが、戸田会長は、それをさえぎった。
 「作戦など聞きたくない。どちらを取るかである」
 この遼からの申し出は、巧みな分断工作でもある。
 梁山泊の軍勢と宋の国を引き裂こうとしている。
 結局、この場では全員が宋江につき、宋の国を立て直すことになった。組織防衛というテーマの格好な材料でもあった。
 しかし、なぜ宋江支持なのか。それを、なかなか自分の言葉で言えず、もどかしい。
 戸田会長は、ぐるっと見回した。
 「宋江には全体観がある。それに比べ、呉用は団体観にしか立っていない」
 
 君らは一流から学ベ
 
 全体観と団体観──。高い視点から全体を見渡すべきであり、自分の団体だけに固執してはいけない。
 「水滸会のことだけを考え、青年部のことを考えないようでは、それはいけない。青年部のみを考え、学会を考えないなら、これもだめだ」
 さらに戸田会長は続けた。
 「それだけではない。学会のことのみを考え、社会全体のことを考えなければ、考えがあまりに小さい。大きく考えることが必要だ」
 水滸伝のケースにあてはめてみれば、梁山泊の生き残りだけを考えるのでなく、どうすれば宋の国がよくなるのかを念頭に行動しろというのである。
 
 議論が一段落したころ、池田部隊長が身を乗り出した。
 「今までの歴史上でも、同じようなことがあったと思います。どのような顕著な例があったでしょうか」
 師はタバコに火をつけながら話をつづけた。
 「いろいろあったと思う。戦略上では敵方を裂くのが一番だろうな」
 ここぞという急所では、いつも池田部隊長の質問を起点に話を展開する。
 「このようなことは、大につけ小につけ、いろいろあっただろう。作戦のひとつだよ。敵の力を二分、三分して弱くする。次に大切なのは、降参した者を差別しないで重用することだな」
 皆、しきりにうなずく。
 「宋の国で政治が乱れたのも組織が古くなったからだ。日本の軍隊が乱れたのも組織の旧弊化にある。宗門が崩れたのも組織が老いたからで、学会が発展してきたのは組織年齢が若いからだ」
 そこまで言うと、少しずり落ちた眼鏡を、右手で押し上げた。
 学会も組織が大きくなり、幹部が偉そうにしていることを厳しくいましめた。
 「もし、そういう威張った幹部がいたら知らせてくれ」
 ハイツ。一同が声をそろえ、返事した。
 すかさず池田部隊長がたずねた。
 「先生、組織が古くなった時には、どうしたらよいでしょうか」
 左側に座っている池田部隊長に顔を向けながら、遠くを見つめるように語った。
 「何らかの形で刷新し、時期が来たら、すぐに組織を作るのがいいだろう」
 常に新しい創価学会でなければならない。どこまでも組織は若く、新しく。
 
 『水滸伝』が終わると、『モンテ・クリスト伯』『風霜』『風と波と』『九十三年』『ロビンソン・クルーソー』『隊長ブーリバ』。さらに第二期では『三国志』、第三期では『新書太閤記』がテキストになった。
 それぞれの教材も池田部隊長が選んだ。
 ある時、会員二人に教材の案を考えさせた。任されたほうは大変である。喫茶店や、とんかつ屋で顔をつきあわせて「おい、どうする」と相談した。神田の書店街を回り、ようやく『風と波と』を見つけた。
 村松梢風という当時はやりの伝記作家の小説だった。
 主人公は明治時代に「二六新報」という新聞を創刊した秋山定輔。のちに政治家になった。
 池田部隊長は「よし、それにしよう」と採用した。後輩が一生懸命に考えた案は却下しなかった。
 ところが水滸会の日、戸田会長はものすごい剣幕で怒り出した。
 「誰が選んだ!」
 選んだ二人は青くなった。その時。
 「わたくしです。申し訳ございません」
 池田部隊長が頭をさげた。
 水滸会員の多くは、本に描かれた秋山の活躍をたたえた。だが戸田会長は「秋山は三流人物だ」と一刀両断した。秋山定輔は革命児で情熱家である。しかし、人物としては策士で三流人物だ、と。
 一流の人物とは天下国家を動かす人物である。君らは一流の人物に触れよ。一流から学ぶのだ。これが戸田会長の教えだった。
 池田部隊長は叱責を一身にかぶった。
 この時だけではない。すべての責任を取り、いつも叱咤を受ける。それゆえ「防波堤」といわれた。
 本を選んだ一人の回想。
 「一言も我々のことを言わずに守ってもらった。責めるような言葉もない。戸田先生も、それを承知の上で叱られたのだと思います」
        (続く)
時代と背景
 昭和28年の学会は、まさに若々しく組織が伸びた。約「2万世帯の陣容から、ー気に7万世帯を突破二。翌29年には16万世帯へ倍増以上の発展をみる。池田部隊長の拡大戦がこれをリードした。
 一方で、学会は"大石寺と聞けば誰も塩も貸さない"と揶揄された宗門を外護するが、供養をむさぼる堕落僧が続出。戸田会長は聖教新聞の「寸鉄」で「化物坊主」と痛烈に批判した。
 
 【第12回】 水滸会 5 2009-1-23
 
覚えておきなさい すべては三代目で決まる
第三代の会長は この中から出るのだ
 
池田部隊長の一日
 水滸会の全貌が明らかになるにつれて強く感じる点があった。この指導会は、戸田城聖会長が第三代会長のために構想を語り残す機会ではなかったのか。
 「今に三代目の会長が、この中から出るだろう」
 水滸会で明確に宣言した。
 「二代目は頭がよくなくても、一代目の威信を守っていればよい。
 おぼえておきなさい。三代目で偉いのが出るかどうかで決まる」
 近い未来を予見した。
 「したがって三代目は非常に難しいことになる。徳川は三代目がよかったから続いた。また三国志の孫権は三代目として内治派の英雄であったから、よく国が保った。
 三代目の会長は、この中から出るのだ」
 戸田会長が会合ではじめて第三代会長に言及したのは、会長就任から間もない昭和二十六年七月十一日だった。
 「きょう集まられた諸君のなかから、かならずや次の学会会長が現れる」
 その視線の先に、池田大作部隊長がいたことは疑いない。第二代が生まれた直後、すでに第三代の道を示している。
 
 当時、池田部隊長が、どのような日々を過ごしていたか。その一日の一端を再現してみたい。
 ある朝、京浜東北線の車内に、声が響いた。
 戸田会長の会社で働く社員の一人が振り向くと、池田部隊長の姿があった。
 「ここで降りましょう」
 東京駅で一緒に改札を出た。なにか見せたいものがあるのか、タクシーで市ヶ谷を目指す。皇居の北側から九段下を抜け、外堀通りへ出る。
 悠々と外をながめながら「なつかしいな。あの堀端を見なさい」。西神田も近い。戸田会長と日々、奮闘してきた街並みである。折々に受けた指導を教えてくれた。
 どんな風景を見ても、口をついて出るのは、恩師のことばかりである。
 会社がある市ヶ谷ビルの、かなり手前で車を停めた。首をかしげる後輩に語った。
 「戸田先生が降りられる場所で降りたら、申し訳ないじゃないか」
 出社後の「早朝講義」などの様子は既述の通りである。
 戸田会長は午前中、市ヶ谷で働き、午後になると、信濃町の学会本部に移動した。
 池田部隊長も夕刻、いったん仕事を終え、市ヶ谷から本部に向かう。
 向かって左に「創價学會」の看板が立つ門を抜ける。本部には一匹の犬がいた。
 「シロ!」
 そっと頭をなでると、シッポを振りながら、足元にまとわりつく。
 いつの間にか、迷いこんだ犬である。師がかわいがり、小屋を作って飼っていた。
 
 檜舞台へ立つ
 学会本部の建物に入って、右側の秘書室を経由してから二階に上がる。
 会長室で待っていた師に会い、短く報告。指示を受けて、また出ていく。
 聖教新聞の販売部にいた、辻敬子。「まさに疾風のようでした」と振り返る。
 「いつもバッと来られて、バッと出て行かれる。あのようなかたちで、会長室に頻繁に参上しておられたのは、池田先生だけだった」
 金曜日の夜、戸田会長は豊島公会堂に向かった。御書講義を行うためである。「一般講義」と呼ばれ、会員は誰でも参加できた。
 池田部隊長も駆けつけた。だが、場内の座席には座らない。舞台の袖から戸田会長を、じつと見つめる。
 恩師は時折、椅子の上であぐらをかき、演台の上にグッと乗り出すように熱弁している。
 いつもと変わらぬ姿だ。
 安心した面持ちで、公会堂を後にした。仕事のため、池袋駅に向かう。
 後輩に語っている。
 「一度でいい。一度でいいから、戸田先生の講義を席に座って最後までうかがいたいものだ」
 
 戸田会長を事業の苦境から救ったのは、池田部隊長である。後継者の記別も、この渦中に託されている。
 その後、矢島周平に乗っ取られるかに見えた学会を、師の手に取り戻し、第二代会長に就任せしめた。
 会長就任を見届けた後、けっして組織の表舞台に出ることなく、学会の基盤を支え続けた。
 東京の各地で、組織の拡大にも、傑出した結果を残している。さらに、昭和三十年(一九五五年)には北海道の小樽で日蓮宗(身延派)との法論があったが、これも完璧に打ち破った。
 すべて池田部隊長が勝利への突破口を開いたのである。
 いわば、戸田会長は図面は引いた。だが、土地を整備し、実際に建物を建てたのは、真の弟子だった。
 こう言っては、あるいは池田会長に叱られるだろうが、歴史の事実に照らせば、こう言わざるを得まい。
 「戸田城聖を戸田城聖たらしめたのは、池田大作である」と。
 
 無名でもいい。無冠でもいい。師匠のために役に立てればそれでいい。陰に徹しようとする弟子を、師は表舞台へと引き出していく。
 池田部隊長が後継者であることは明白だったが、まだ公にはしない。ただ「第三代を守れば広宣流布はできる」と遺言した。
 戸田会長は実学の人である。理でなく実を好む。
 作戦本部で想を練る参謀でなく、野戦の司令官である。後継者も、そうでなければならない。
 これまで、戸田大学、水滸会で真情と未来への構想を十分に伝えてきた。
 あとは実地訓練である。
 天下分け目の戦場から、勝ち名乗りを上げられるかどうかである。
 すでに第一部隊や蒲田、文京で存分に手腕を発揮している。いよいよ大合戦の指揮官として立つときだ。
 その舞台は、大阪だった。
       時代と背景
 激務の戸田会長を陰で支えたのは、池田部隊長だった。昭和29年、青年部の室長と学会の渉外部長に就任。75万世帯へ学会を牽引しながら、一切の攻防戦の矢面に立つ。
 大手メディアや右翼の中傷にも一人で抗議に立ち向かった。「なんとあさはかな言論よ。なんと責任なき批評か。思い上がりの評論家たちにあきれる」(池田大作著『若き日の日記』)
 
【第13回】  大阪の戦い 1 2009-1-24
 
なぜ関西は強いのか──
池田室長と戦った昭和31年の金字塔にその原点がある
 
 常勝の源流へ
 大阪・天王寺。
 「えらいこっちゃ、もうすぐ始まるで」
 「ほんまや。走ろか」
 男たちが次から次へ、民家に駆け込んでいく。
 昭和三十一年(一九五六年)初夏。拠点闘争が続いていた。
 隣は自転車店だった。道路に、もうもうと砂ぽこりが上がる。店主が水道のホースを手に散水していた。
 "まったく、毎日毎日、ようけ来よるなあ"
 時々、キーツとにらんだり、わざと水をかけた。
 "つぎ来るやつに、また水かけたろか"
 その時、一人の青年が足早に近づいてくる。精悍な顔つきである。青年部の池田大作室長だった。
 近所の一軒一軒に失礼はないか、目を配っている。昼から飲んでる男も多い町で、こんな紳士的な人はいない。
 ニコツとほほ笑み、会釈された。自然と店主もペコッと頭をさげた。
 礼儀正しい。それでいて、堂々としている。
 隣の家に消えると、側にいた人にたずねた。
 「今来た人、あの人、だれやねん?」
 「ああ、創価学会の青年部で一番えらい人ですわ」
 「うーん、そうか。そうやろうな。あの人なあ、今に天下一のえらい人になるで」
 
 東住吉の拠点。
 「きょうは東京から、すごい人が来はるんや」
 「そんなら、私もいくわ」
 「あかん、あかん。もう夜は遅い。きょうは壮年部の会合や」
 夫は軽快な足取りで出掛けていった。
 妻の森脇喜代子は、どうしても"すごい人"の話を聞きたい。こっそり会場へ向かったものの、さすがに中には入りづらい。
 暗い庭先で耳を澄ます。雨戸ごしに声がした。ナポレオンの話のようだった。
 「この信心に不可能はない! 幸せになれないわけがありません!」
 びりびり戸板がゆれるような気迫にぶったまげた。
 もっと聞きたい、もっと知りたい。
 息を殺して、雨戸にぴったり張りついていると、巡回中の警官に「そこでなにしとるんや」。
 空き巣とまちがえられたが、あの凛々たる声は、いつまでも心に消えなかった。
 白木義一郎(初代大阪支部長)の回想。
 戸田城聖会長の話になると、池田室長は、とたんに居ずまいを正した。記憶が実に正確である。
 「何年、何月、何日の晴れた日、あの時、こうだった」
 師と語らった日時、場所、天気、話の内容、その時の恩師の表情、身ぶり。
 あらゆる出来事を完壁に再現してくれた。まるで戸田会長の録音テープの再生を聴くようだった。
 
 なぜ大阪は強いのか──。
 いつのころか、関西といえば「常勝」の冠がつくようになった。
 昭和三十一年に、創価学会として初めて推薦候補を立てた参院選があった。池田室長が大阪の責任者になり、完全な圏外から「まさか」の当選を勝ち取った。
 一カ月に一万一千百十一世帯を弘教する金字塔を打ち立て、冒頭にあげたようなエピソードが、いくつも語り継がれている。そこに大阪の原点があることは間違いない。
 しかし、五十年以上たっても揺るがない強さの秘けつとは──。
 
 初めての講義
 聖教新聞の関西支社では、当時の会員の回想録を大切にしまってある。
 大阪へ向かった。大きな段ボール箱が四つ。貴重な原稿の山である。
 執筆者の存命を確認していく。大半は物故者だったり、病気療養中だったが、百人近い人物が健在していた。このリストをもとに「常勝の謎」を解く取材を開始した。
 
 地下鉄なんば駅から雑踏をかき分け道頓堀へ。
 ミナミの繁華街は、店の看板が驚くほどせり出している。隣の店より、うちのほうがと、あからさまに目立とうとしている。
 堺筋を左へ折れ、道頓堀川に架かる日本橋を渡る。かつて、その辺りに、京屋旅館があった。
 昭和二十七年(一九五二年)八月、池田室長と戸田会長が大阪への第一歩を印した拠点である。
 ここから百万組織の拡大がはじまる。
 そう思うと、ミナミの看板や風景にも、何やら大切な意味が感じられる。
 この町でのしあがるんやったら、遠慮なんかいらん。格好つけるな。おもろないとあかん。
 まったく無名の創価学会が勝ち上がっていく過程にも、そんな浪花のど根性が発揮されたにちがいない。
 大阪には、東京への強い対抗意識がある。
 生粋の江戸っ子である池田室長が、早い段階から大阪の会員に「先生」と呼ばれ、慕われたことが不思議でならなかった。
 大阪府の地図を広げ、京屋旅館のあった場所に赤い印を付けた。ここから池田室長が足跡を伸ばした場所へ印をつけながら、くまなく当たる。
 地図が赤く染まるころ、なにかが見えてくるはずだ。
 
 昭和二十九年、池田室長は大阪に足しげく通いはじめ、九月二十六日に初めて御書講義を行った。
 天王寺区の上本町駅に近い弘洲会館が会場だった。
 外は風が強い。
 この日未明、九州の大隅半島に上陸した台風十五号は西日本一円を暴風圏に巻きこみ、日本海に抜けた。
 やがて、函館湾で青函連絡船「洞爺丸」など五隻の船を飲みこむが、弘洲会館の二百人は知るよしもない。
 京都市の逢坂琴枝は、やっと工面した交通費を握りしめ、京都から大阪まできた。
 地図を手にしたまま、上本町の路上で道に迷った。困っていると、見るからに凛々しい青年がいる。
 親切に教えてくれた。涼やかな目。若いのに何ともいえない威厳がある。
 びゅうと音をたて、風が吹き抜けた。逢坂は我にかえって、あわてて会場への道を駆け出した。
 弘洲会館は、ぎっしりと人で埋まっている。午前九時ちょうど、白木義一郎に続いて、場内前方に人が現れた。
 逢坂は跳び上がりそうになった。あの青年ではないか!
 「東京から来てくださった池田室長です」
 白木に紹介された室長は「大阪の皆さん、おはようございます」と、歯ぎれよくあいさつをして席に着いた。
 この日、午前中は「諸法実相抄」、午後は「当体義抄」と、一日がかりで講義が行われることになっていた。
 阿倍野から参加した奥野修三は幼いころから吃音で悩んでいた。
 「諸法実相抄」の講義が始まる。
 さっと会場を見渡した池田室長は、奥野に教材を読むように指名した。
 「しょ、しよ、しよほう、じ、じ、じっそう、しよう......」
 立ち上がってタイトルを読み始めたが、満座のなかで奥野は、しどろもどろである。
 苦笑する者もいたが、不思議と場内は温かい。軽んじてはいけない空気がある。
 それは中心者が醸し出すものだった。
 池田室長は、じっと聞いている。つっかえ、つっかえ読んでいる奥野の一言二言にうなずく。目顔で"もっとゆっくり"と語りかけた。
 じつは四カ月前の五月十六日、入会して三カ月の奥野は西成区の花園旅館で池田室長に会っている。
 そのとき、吃音や引っ込み思案の性格に悩んでいることを打ち明けた。室長は奥野に経験を積ませるため、あえて指名したのである。
 もっとも場内の大半は、奥野といい勝負だったかもしれない。漢字は苦手だし、人前で何かを述べる経験も薄い。
 ある時など「四信五品抄」が教材だったが"抽選で五品くれるんや"と思って参加した女性もいたほどである。
 吃音だからといって卑下することはない。読んだり、学んだりすることが苦手だからこそ、ここに集まって勉強しているのではないか。
 学会は「学ぶ会」と書くが、ここには妙な序列もなく、互いに助け合う学校に似ていた。
        
時代と背景
 昭和27年2月1日、プロ野球投手の白木義一郎が大阪支部長心得として赴任。同年8月14日夕、池田室長は大阪へ第一歩を印す。恩師と出会って5周年の日だった。帰京の途、一詩を綴った。
「旅人は征く(中略)いずこより来り いずこに
 還りゆかなん悲劇の旅より 希望の路に......」
 昭和30年に地方議会に進出した学会は、翌年、参院選に挑む。白木が大阪の候補者となった。
 
【第14回】 大阪の戦い 2 2009-1-28
 
私は戸田先生に代わって御書講義をしている
師が見ていると思って全力でのぞみなさい
 
 きれいに使われた御書
 
 昭和二十九年(一九五四年)九月二十六日、青年部の池田大作室長による御書講義が始まった。
 京都から来た逢坂琴枝は驚いた。
 各宗派の本山が、京都にはひしめいているが、眠くなる坊さんの説法ではない。りりしい青年が歯切れ良く語っているだけでも、新鮮このうえない。
 しかも講義なのに、理屈っぽくない。それでいて、頭が整然と整理できる。
 俗に言うところの、ありがたい話ではなかった。仏さんという遠い存在を語るのではなく、現実の生活を見つめる話だった。
 同じ会場で、大阪の班担当員だった北側照枝も、ほれぼれと聴き入っていた。
 生活に密着している。だからビシッと心に入る。なにか身体がうずうずして、動き出さずにはいられない。喜んで動き、働くから、生活も改善される。
 「ほかの人の話は、教義が優先。理屈も大事やけど、それだけでは喜びがわいてきまへん」
 「ほかの人」とは東京の幹部のこと。北側の言葉を借りれば、生活に密着していないから実践の後押しにはならず、喜びもわかない。
 なによりも室長の講義は、自分の言葉、自分の確信で語られていた。
 他の幹部は、どこか戸田会長のものまねだったり、いたずらに理論を押しつけていた。なかには勉強不足を声の大きさや、威圧感でごまかす者もいた。
 
 まだ大阪に創価学会の自前の建物はない。天王寺区の夕陽ケ丘会館や北区の計量研究所などを借りた。
 翌三十年の一月。教学部員になるための試験が行われた。筆記につづいて口頭試問である。
 吃音で悩んでいた奥野修三が見違えるように、すらすらと質問に答えた。毎回の講義で御書を読むうちに、すっかり治っていた。
 「おい、池田室長の講義は違うでえ」。評判になった。
 ある青年部員は室長の御書に注目した。
 あんなにすごい講義ができるのは、よっぽど書き込みがあるからではないか。
 休憩時間。好奇心にかられ、そっと室長の御書を手に取った。
 きれいだった。所々に朱筆で傍線が引かれ、丸印が入れられている。その線や印すら、きちっ、きちっと整っている。きたない書き込みなど、どこにもない。
 講義を始めたのは第五期の教学部員候補からだったが、第六期から希望者が殺到する。とうとう候補を選ぶための予備試験まで行われた。
 池田室長が、豊中方面の拠点であった矢追久子宅を訪れた時、そこに居あわせたのが、峰山益子だった。
 阪急電鉄の創業者・小林一三ゆかりの図喜館「池田文庫」に勤めていた。
 「御書を持っていますか」
 室長がたずねた。
 「あ、いえ」
 「何万冊もの本に囲まれて御書がないなんて」
 ため息をついた室長は、御書を学ぶ大切さを説いてから、すらすらと便せんに万年筆を走らせた。
 月光の如く
 尊き乙女して
 永久の功徳を
 強く受けきれ
 峰山は、仰天した。がみがみ叱る幹部はいても、即興の和歌を贈ってくれる人がいるだろうか。
 すぐさま御書を購入すると、第六期の教学部員候補に手を挙げた。誰もが室長の講義を聞きたがった。
 
 心をつかむユーモア
 
 ある日の講義。
 室長が会場に入った後で、だらだら青年部の幹部が遅れて現れた。まったく求道心が感じられない。
 ちらっと視線を向けるや、火を噴くような声を放った。
 「その態度は何ごとだ!」
 幹部たちは立ちすくんだ。
 「本日、私は師匠である戸田先生に代わって講義を担当させていただいている。そういう決意でのぞんでいる。
 であるならば、真剣さを欠くとは、もってのほかだ」
 それから、ゆっくり正面に向き直ると、すっかり怒気は消えている。
 「これは幹部に言っているんです。あなたたちにではありません」
 受講者の博多洋二は、その気迫に圧倒された。頭では分かったつもりだったが、師弟という間柄の厳しさを初めて思い知らされた。
 
 村田只四にも、忘れがたい思い出がある。
 御書を講義していると、その会場に室長が入ってきた。席を譲ろうとしたが「そのまま続けて」。
 視界に入る位置から、厳しい表情で村田を見つめている。いい加減なことは言えない。背中に冷や汗を流しながら、全魂をこめて話した。
 終わってから室長が村田に言った。
 「御書講義は戸田先生の名代として行うものです。私はいつも戸田先生が、そばにいらっしゃると思って講義をしています。きょうのように、私がいつも見ていると思って全力でやりなさい」
 
 室長の講義には、確信があり、聴いていて力がわく。
 まだまだ、そのほかにも、関西で受け入れられ、慕われる理由がないか。取材班が考えながら大阪を歩いた。
 大阪環状線で、向かいの乗客が「大阪スポーツ」いわゆる"大スポ"を広げている。
 超低空でUFOを発見という記事を、そばの小学生がネタにしている。
 「まじ、すげえ。民家の上空に出現やって」
 「あほか、こんなん、はったりに決まってるやんけ」
 ボケとツッコミの分担が自然とできている。大阪は「お笑い文化」の発信地である。面白いか、面白くないか。この尺度は、やはり大きい。
 ある証言。戸田会長は講義で、こんな話をしたという。
 「私が大阪に来るのは貧乏人と病人をなくしたいからだ。今は貧乏でも心配するな。そのうち聖徳太子(当時の千円札)がオイッチニー、オイッチニーと行列を作って家に入ってくるぞ」
 聖徳太子が行列......爆笑が会場を包んだことは言うまでもない。
 池田室長が生野区の座談会に入った時のことである。
 かつて革新政党の幹部だった男が参加していた。今は魚を行商していたが、フライドの高さがにじみ出ていた。
 室長は、その壮年に語りかけた。
 「この信心で必ず願いは叶います。叶わなければ、この池田の首をあげる」
 そう言ったあと「あっ、あなたは魚屋さんだから、私の首をあげても、アラにもならんだろうね」。
 しかめっ面をしていた魚屋がぶっと吹き出した。あとは話が早い。その場で、入会を決めた。
 また池田室長はよく、にわか大阪弁を使った。
 「お元気でっか」「もうかってまっか」
 何ともいえない親しみがあり、相手のハートをつかむのである。
 
 室長のユーモア精神は、東京の創価学会の幹部の中では極めて珍しかった。
 東京には室長の先輩格の幹部が数多くいる。
 石田次男。威張っていた。
 戸田会長の話を聞いても、「ほう、ほう」と相づちを打つ。不遜な態度だった。後輩と食事に行くと「僕くらいになると、少欲知足で、食欲もないんだよなあ」と、すかしていた。
 石田の妻も、よく似ていた。「戸田先生のおっしゃっていたこと、ここが違うのよね」と平気で口にした。
 竜年光。まるで相手をなじり倒すように話すのが特徴だった。
 当時の会員らの回想。
 「あまりに狂気じみていて、まともに目を見ることができなかった」
 「いつも会合に、怒鳴られに行くようなもんだった。信仰というのは怒鳴られるものなんだと思っていた」
 石田や竜だけではない。ほとんどの幹部が号令をかけてばかりいた。自分では動かない。そのくせ後輩の失敗や欠点ばかりをあげつらい、罵倒した。
 東京から大阪へ派遣される幹部も、似たり寄ったりである。入会して日の浅い大阪の会員を、どこか小バカにしたような臭みがあった。
 同じ目線で語りかけるのは池田室長一人だった。
       
 
【第15回】 大阪の戦い 3 2009-1-30
 
関西で立ち上がれ! あらゆる企業・団体もしのぎを削った
学会が躍進する急所だった
 
  世界へ通じる大拠点
 
 昭和二十年代の後半、企業や団体が戦後の復興を終え、地方への進出をはかった。
 しかし、東京から大阪へ伸びようとして成功した例は少ない。
 経済界では、住友や松下など地元はえぬきが地歩を固め、大阪では強かった。かたくなに東京勢を拒んでいた。
 宗教界では天理教。「東の立正佼成会、西の天理」と呼ばれた時代である。
 昭和二十六年(一九五一年)に戸田城聖第二代会長が誕生するまで、創価学会は東京を中心とする教団にすぎなかった。全国の会員も、首都圏十二支部のいずれかに所属している。地方への指導はまだ手薄だった。
 関西がカギだった。ここを押さえれば、全国への展開は大きく開かれる。
 日本だけではない。戸田会長は若き日から、関西こそ世界へ通じる大拠点であると考えていた。
 十八歳の日記。
 「我れ志を抱く、これ世界的たらんとす」「よろしく座を阪神とすべし(中略)天下の形勢に通ぜん」
 世界に飛翔するためには、まず関西で勝ち上がっていくしかない。あらゆる企業や団体が、ここで、しのぎを削っていた。
 昭和三十一年、学会として初の参院選の支援にあたり、戸田会長があえて大阪に候補を立てたのは、そうした厚い壁に切り込んでいくためだった。だからこそ、青年部の池田大作室長を大阪の責任者にしたのである。
 候補者は、四人の全国区のはか、地方区は東京の相原ヤス、大阪の白木義一郎の二人だった。
 当時、東京の会員は九万世帯を優に超え、大阪の会員数は三万世帯にすぎない。完全な「東高西低」である。
 当選ラインは二十万票といわれる。大阪の敗戦は必至だった。
 しかし、あえて戸田会長は愛弟子を千尋の谷に突き落とした。
 
 昭和三十一年一月四日水曜日の夕刻である。
 二十八歳の池田室長は天王寺区の関西本部に初めて足を踏み入れた。
 前年の暮れに古い音楽学校を改装した建物だが、まだ所々、ガラス窓は破れ、扉は閉まらない。天井には雨漏りのあとが染みていた。
 当時の庶民の生活といえば、憲法二十五条に保障された「健康で文化的な最低限度」どころか、ぎりぎり以下の生活だったといってよい。
 関西本部の周辺にも、靴どろばうが出没した。新しい靴が盗まれる。若手職員に下足箱を見張る職務があった。
 当時の社会の一断面だが、日雇い労働者は梅雨時、仕事が減る。暴動でパチンコ店が襲われないよう、警察が頼みこんだこともあるという。「治安のためや。釘をゆるめてくれへんか」
 簡易旅館では、宿代を踏み倒すため、共謀した二人で大げんか。一人が逃げる。「待て!」。追いかけたまま二人とも行方をくらます。
 時折、どこからか逃げてきた者が座談会場に飛び込んできた。こわもての若い衆が追いかけてくる。そこへ会場の隅からドスのきいた声。
 「ここは、お前らの来るとことちゃう。はよ去ね!」
 若い衆は立ち去った。裏社会から足を洗った男まで座談会にいた時代だった。
 きれいごとだけでは済まない。清もあれば濁もある。昭和三十一年、そんな庶民の世界へ池田室長は飛び込む。
 
 夜行列車で大阪駅へ
 
 まだ底冷えのする時期のことである。早朝、大阪駅のプラットホームに夜行列車が滑り込んだ。
 池田室長は薄明の大通りを天神橋筋六丁目方向へ歩いた。市電の中崎町の停留所を過ぎ、シャッターの閉まった靴屋の角を左に曲がる。
 畳屋の戸をたたいた。
 「おはようございます」
 班担当員の井西はなが顔を出した。
 「こんな早うから、寒うおましたでしょ。どうぞ、お入りください」
 い草のにおいが漂っている。畳店の土間を抜け、奥の部屋へ通された。二階は大阪支部の拠点になっている。
 井西は、あわてて裏の八百屋に走り、酒粕を買った。得意の甘酒をこしらえる。
 ほかほかに温めた甘酒を出す。室長の冷えきった身体にしみこんだ。
 東京──大阪の往復は、夜行列車が多く利用された。
 たとえば五月には、こんな強行スケジュールを強いられたこともあった。
 五月一日。豊島公会堂での本部幹部会に出席し、終了後、夜行列車で大阪へ。
 二日。阿倍野地区の決起大会に出席し、夜行列車でとんぼ返り。車中、徹夜で原稿を書く。
 三日。本部総会で渉外部長として登壇する。
 四日。東京での仕事を片づけ、長期滞在の支度をととのえて夜行列車に飛び乗った。
 片道十時間以上かかる。夜行での往復は、室長の体力をひどく消耗させた。
 室長の行動をつぶさに見ている大阪の会員たちは、なにがなんでも勝とうという気持ちになった。
 マラソン選手が全力で走るのを見て、無条件に声援を送りたくなるのと似ている。
 
 年頭から折伏は上げ潮の勢いである。大阪の会員数は飛躍的に増えていった。
 連日、関西本部では、会員カードの整理のため、夜遅くまで人が残っていた。池田室長は、彼らに語った。
 「谷間に咲いている白ゆりは、人が見ていようが見ていなかろうが、時が来れば美しく咲き、よい香りを放っています」
 暖房もない部屋で、ちちかむ手をこすりながら作業してきたメンバーである。
 「美しい花は、山野の嵐や雨と戦い抜いて勝ち取った姿です。誰も見ていないかもしれませんが、時が来れば必ず大きな功徳が出ます」
 作業部屋には、室長から何度も出前のラーメンなどが届いた。
 
 四月八日、豪雨の大阪球場に二万人が結集した。大阪・堺支部連合総会。
 京都の舞鶴から乗りこんだ一団があった。大型バス二台。班長が総勢百二十人を率いてきた。
 経済の復興は都市部から進むため、地方の農村部は取り残されていた。
 土砂降りの雨をついて決行された総会で戸田会長は叫ぶ。「大阪から貧乏人を絶対なくしたい」。班長は目頭を熱くした。
 しかし、参加者はずぶ濡れである。歩くたびに長靴の中がゴボッゴボッと鳴る。バスに戻っても、がくがくと震え、総会での歓喜も消えてしまいそうだ。
 関西本部へバスを向けた。管理人に頼み、三階の仏間へ。濡れた衣服のまま座るので、たたみに水が染みこんでいく。
 その時、班長は思いついた。そうや、このまま隣の応接間で待っとれば、戸田先生に会えるんやないか......。
 こっそりと応接間に忍び込む。入れるだけの人数を詰め込んだ。
 静かに待つこと二十分。
 ついに扉が開き、班長が口を開こうとした瞬間である。
 「誰だ!」
 ぬれねずみの集団を見て、会長は驚いた。
 かろうじて「舞鶴から来ました」と答えた。
 「そうか、それは、よく来た。せっかくだから懇談してあげよう」
 四十分余り、懇切に指導をおこなった。「もういいだろう。おれは先に行くから、あとは頼むぞ」。池田室長にバトンを託し、奥に消えた。
 何もかも信頼し、まかせた様子である。
 「戸田先生は世界に二人とない大指導者です。私は若輩ですが、どこまでも戸田先生についていきます。皆さんも、どんなことがあっても、信心から離れず、戸田先生についていきなさい」
 これが師弟というものか。舞鶴の会員は初めて目の当たりにした。
 別の折、関西本部でこんな場面があった。
 室長が指導していると、電話が鳴った。東京の戸田会長から連絡のある時間だった。
 その瞬間、室長は機敏な動作で、腕まくりしていたワイシャツの袖を伸ばす。背広を着て、ボタンも留める。きちんと正座してから、受話器を取った。
 厳粛な姿だった。
       
時代と背景
 昭和31年1月4日、特急「つばめ」で来阪した池田室長は「大法興隆所願成就」と脇書された関西本部の御本尊に勤行。「戦いは勝った!」と師子吼する。翌日の地区部長会。自ら「黒田節」を舞い、参加者にも踊らせた。楽しく、にぎやかに戦いゆくことを教えたが、日記には「痛烈なる、全力を尽くした指導をなす」と。すべては一念に億劫の辛労を尽くしての指揮だった。
 
 
【第16回】 大阪の戦い 4 2009-1-31
 
団結あるところ勝利あり!
池田室長を先頭に関西の快進撃が始まった
 
  ジュース工場の拠点
 
 関西での池田大作室長の行動は、昭和三十一年五月に入ると、さらに加速する。
 大淀区(現・北区の一部)で「日栄ジュース」を製造する小谷鉱泉所。小谷栄一・ふみ夫妻が営んでいた。
 五月十日の夕方、瓶詰めの機械音がやんだ。もうすぐ隣接する二階の会場で、池田室長を迎え、班長・班担当員会がはじまる。
 室長は行く先々で、人智を超えたような、いわゆる神懸かり的な振る舞いをしたわけでは全くない。
 むしろ皆が一緒になって、横一線で動く楽しさを、身をもって示し、教えた。
 この日も、小谷宅を訪れ、事務所脇の階段を上がろうとした時である。
 電話が鳴った。すかさず室長が手を伸ばす。
 「はい、小谷鉱泉所です。......はい、はい......」
 そのまま会場に姿を見せ、小谷の妻に語りかけた。
 「今、注文の電話を受けてきたよ」
 「あらま、すんまへん」
 爆笑。いかにも大阪のおばちゃんらしい返事に、緊張していた雰囲気が、がらりと変わった。
 商品名も知らないはずなのに、日栄マークのサイダーに、ラムネ、ミカン水などケースごとに的確に注文を取ってくれていた。
 小谷夫妻は恐縮した。
 「じゃあ、せっかくだから、みんなにサイダーをもらえるかな」
 室長はポケットマネーで振る舞った。あいにく冷えたものがない。常温のサイダーが配られた。ボンと栓を抜くと、泡が吹き出す。
 笑い声が絶えない。
 「信心だけは絶対に負けてはいけません。仏法は勝負です。題目をあげて、あげて、あげ抜きなさい。信心の団結あるところ、必ず勝利があります」
 和気あいあいとした一体感があるから、指導がスッと胸に入る。
 
 港区築港。
 外国人の船員や港湾労働者が、ひしめいている。ここで田内喜郎、富士子夫妻がレストランを開き、拠点になっていた。池田室長が昼食を兼ねて立ち寄った。特製のカツカレーを「おいしい」とペロッと平らげた。カレーが大好物である。
 大きな模造紙と筆が用意された。室長は腕まくりをして力強い筆さばきで「大勝」と認めた。
 池田室長が転戦すると、向かうところ敵なしの勢いで折伏が決まっていく。しかし、世間によくある宗教の勧誘や説明の類ではない。
 堂々としていた。
 ある時、関西本部で、その心構えを指導している。
 「この信心は絶対です。どれほど社会的な地位があっても、名誉があっても、御本尊を拝する信仰者には、かないません!」
 気迫に満ちた言葉だった。
 「もし信心していない人に『信心してください』と頭を下げて頼むような人が、大阪に一人でもいてはいけません! もし、そんな組織があれば、担当の幹部は責任を取って辞めてもらってもいいほどです。いいですか!」
 この勇気、この確信が電流のように大阪中に流れていったのである。
 折伏の火の手は西日本一円にも及んでいく。週末になると、大阪港から船にも乗った。四国、中国、九州へ戦線を広げる。
 それまで社会の荒波の中で打ちひしがれ、意気地なしのようにおどおど下を向いていた者まで、人間として、信仰者としての誇りに目覚めたのである。
 
 嵐に負けない水の信心
 
 快進撃した大阪支部は五月、一万一千百十一世帯の弘教を成し遂げた。破竹の勢いは止まらない。
 六月五日火曜日、大東市の朋来住宅に、池田室長が入ってきた。
 「室長がお見えになったら一筆お願いするよう、だんなに言われまして」
 その家の妻が大きな模造紙を広げている。
 「うーん、紙も筆もよくないなぁ」
 ユーモアをまじえながら墨に筆をひたした。
 今日は何日ですか、と聞き六月五日と確認する。
 「牧口先生のお誕生日の前日だね」と口にしてから、紙の上で身をかがめた。
 「信心は水の如く」と大書した。
 「水の和き信心って分かるかい?」
 まだ墨が光っている紙を指さしながら言った。
 「平らな川の水の流れではない。嵐の中の怒涛が大きな岩にぶちあたり、その岩を乗り越えていくような信心だ。
 難を乗り越える信心をしていきなさい」
 まさに法難と戦った牧口初代会長の魂そのものだった。室長は皆をうながすように、パンと手をたたいた。
 「さあ、勇気を出して、出かけましょう!」
 歯切れのいい言葉に、だれもが玄関から飛び出した。
 
 六月十二日の火曜日、参院選が公示された。
 遊説が始まり、各所で演説会がスタートした。
 平日は毎晩、演説会が開かれた。男子部、女子部の代表も「青年代表」の肩書でマイクを握った。池田室長は「大蔵商事営業部長」として応援演説に立った。
 河内市(現・東大阪市の一部)では、各会場を立て続けに回った。
 国鉄の鴻池新田駅に近い会場。室長の話は理路整然としている。「あの人は若いのに大したものだ。立派だ」。有権者は候補者よりも室長をほめていた。
 花園方面の会場。先回りした室長がつぶやいた。
 「よく集めてくれたけれど、未だ少ないな......」
 それを聞いていた宇田荘太郎は、言葉尻をとらえ、かっとなった。
 「少ないとはどういうことや。このへんは、みんな農家で遅いんや」
 もの凄い剣幕である。
 二千人の部下を率いた元軍人。地元の有力者で、選挙戦にも持論があった。
 入会九カ月。まだ池田室長の存在を知らない。翌日になっても腹の虫が収まらない。妻に言った。
 「戸田という会長におうて来る。昨日のこと、ゆうたろう思うて」
 関西本部で戸田会長を呼んだ。出てきたのは室長である。ちょうどいい。
 「昨日、結集が少ないって、あれはなんや。河内の選挙は、河内にまかせてもらわな困る」
 室長は、ほほ笑んだ。
 「わかりました。では、あなたにおまかせしましょう」
 きっぱりと言われ、かえって宇田は拍子抜けした。
 それ以上に、びくっとしたことがある。
 笑っているはずなのに、その眼光には、野戦の指揮官のような凄みがあった。
 河内の自宅に帰るなり、家人に告げた。
 「昨日は暗うて分からんかったけど、あの目を見たら分かる。あんなに、すごい目をした男は軍隊にもおらんかった。間違いない。ものすごい人やで」
 
 西本茂が一年間だけやってみるという約束で入会したのは、六月中旬だった。しかし困った点がある。西本は労働組合の幹部だった。
 参院選でも他党の候補を組合あげて応援していた。学会と労組の板ばさみ。
 関西本部へ指導を受けにいった。
 「あれが池田室長やで」
 先輩に言われた西本は、労働阻合のお偉方の顔と室長を比べた。
 若い。目が濁っていない。組合のトップが古狸のように思える。
 西本は室長に事情を打ち明けた。それでも学会は組合のように、きっと締めつけてくるだろう。それが選挙というものだ。
 意外な答えが返ってきた。
 「そうですか。選挙活動は自由です。ご自分でお決めください。どうか後悔のない活動をしてください」
 西本は絶句した。懐が深い。この人と一緒に戦おう。逆に腹を決め、これまで他党でかためた所をもう一度、回った。
 白木を頼む。お好み焼きのように引っくり返した。
 「いったい、どないしたんや」
  いぶかしがる相手を熱心に口説いた。利害ではない。信頼できるから推す。
 同じ一票を頼むのに、こんな違いがあるのか。義務的にやらされた選挙とは、まったく異なる充実感があった。
        (続く)
時代と背景
 昭和31年5月15日、新聞の朝刊に「"暴力宗教"創価学会」という見出しが出た。大阪支部の学会員6人が、大阪府警に不当逮捕される。その当日の朝刊に記事が掲載され、学会の快進撃をねたむ意図的な弾圧であることは明らかだった。
 池田室長は「電光石火」と揮毫し、動揺する会員を渾身で激励する。障魔を乗り越え、大阪の団結は一段と強固なものとなった。
 
【第17回】 大阪の戦い 5 2009-2-3
 
きょうは これで 二十四ヵ所目だ
関西の友がいるところどこまでも走った
 
 鬼神も泣かむ闘争
 
 大阪市西成区に坂本堅という大工がいた。
 昭和三十一年(一九五六年)六月、関西本部で青年部の責任者会に参加した。
 各区から順調な報告が続く。坂本のところは他の半分あるかないかである。順番がきて立ち上がり「地区の班長もしてますんで......」と言葉をにごした。
 要するに青年部だけでなく、地区の立場もあるので大変だと弁解したのである。
 「それならば、班長の資格はない!」
 池田大作室長の大喝が響いた。周りから「三階の広間が揺れたで」と言われたぐらいの迫力だった。
 「やらせてください!」。食い下がった。
 「だめだ!」
 やりとりは、五、六回も続いた。
 室長は数字が伸び悩んでいることを叱ったのではない。青年らしくない、ごまかし、言い訳、逃げの姿勢。その心底を戒めたかったのである。
 坂本は、その場に座り込み、おろおろするうちに会合が終わってしまった。
 中央の通路を退場していく室長の前に飛び出す。もう一度「やらせてください!」。頭を下げた。
 坂本の表情に変化を見て取ったのか「ついてきなさい」と短く言った。
 広間を出て、廊下をへだてた応接室へ。「座りなさい」。池田室長に促された坂本は身を縮めた。ああ、またタコ釣られる......。
 生まれ故郷の香川県・小豆島の言葉で、叱られるという意味だ。
 ところが池田室長は何も言わない。手に持った白扇を広げて、さらさらと筆で何か書き「これを持って頑張りなさい。今の君ならできます!」と渡した。
 「鬼神も泣かむ 斗争たらんことを 君の健斗を祈る」
 坂本は扇子を手に、西成じゆうを駆け回った。
 
 「大阪の戦い」では広い府内を五つの管区にした。大阪市内を、北と南に二分する。
 それ以外を、三管区に分割した。いわゆる「北摂・北河内」「中・南河内」「堺・和泉」の三つである。
 この三管区は、それぞれ豊中市、布施市(東大阪市の一部)、堺市が中心である。
 室長は、ここにも力を入れた。大阪の周辺部から勢いをつける。
 序盤戦、豊中南部で活動する出口清一。厳しい現状をぽやいた。
 「明日、行ってあげよう」
 室長は、バイクの後ろにまたがり、十数キロ。野菜や魚の安売りでごった返す豊南市場を通り過ぎる。阪急・庄内駅近くの拠点に着いた。
 会えたのは、たった三人。しかし、目の前にいる三人に全魂を傾けた。
 後日、豊中駅前の拠点にも現れた。「ごめんやす」。大阪弁に、どっとわく。
 米軍の伊丹エアベース(航空基地)も近く、飛行機の爆音の下で奔走してきた同志である。
 室長の髪は、さっぱりと刈り上げられていた。駅前の床屋に入り、主人と対話してきたばかりだった。
 関西本部で目ざとく枚方市の会員数人を見つけたこともある。筆をとり「大斗争」と一気にしたためた。
 「校方の皆さんへ、おみやげです。お元気で!」
 枚方のある京阪沿線は、松下やダイエーが事業を伸ばす足がかりとなる。室長も、いずれこの方面が学会の一大拠点になると信じていた。
 
 戸田会長の応援
 
 堺市を回っている室長と地区担当員の江草ミドリが合流した。海沿いの高石町(現。高石市)へ向かう日だった。
 室長は、しきりに肩の凝りをほぐすように首を回した。
 「たしか、きょうはこれで二十四カ所目だよ」
 江草は言葉を失った。
 "どないしよ......"
 初めの予定より、さらに行き先を追加している。どこもかしこも、拠点で室長を待ちわびていた。
 室長はすべて回ってくれ、倒れ込むようにして、たどり着いた拠点もあった。
 それでも、ある会場で懇談中に、鳥の声に気づく。裏庭に小鳥小屋があった。
 「誰が飼っているの」
 その家の息子が飼っていたが、しつかり信心ができていないため、母親が申し訳なさそうにしている。
 「楽しそうに飼っているなあ。優しくて、いい子じゃないか」。室長から伝言が託された。
 信心もせんと鳥ばかり大事にしよって、と思っていた母の見方が変わった。やがて息子も信心を始めた。
 
 布施市の立花仁六は、かつて陸軍の伍長だった。
 関西本部で質問会になると、真っ先に手を挙げる。
 小柄で、ひょうきん。室長も、彼のとんちんかんな質問に誠実に答えた。
 旧・国道三〇八号線を入ってすぐの所に、立花のプレス工場があった。
 東大阪の一帯は、小さな町工場が多い。室長が生まれ育った東京・大田と似ている。戦時中、蒲田の鉄工所で働いたこともあった。
 布施市の公設市場では、集会所を借りて、よく座談会が開かれた。五月のある日、ここに室長が入った。
 新来者が七人いた。真言、念仏、天理教。
 「私は、宗教の正邪を仏法哲理の上から申し上げている!」
 確信を込めて語る。
 真言と念仏は入会を希望した。天理教だけ迷っている。家族がらみの事情があった。あえて問い詰めない。
 「きょうは家族とよく相談して、また来てください」
 どこまでも常識ゆたかな言動である。天理教は驚いた。世間で言われる"暴力宗教"と違うじゃないか!
 
 六月、布施の商店街に、大きな懸垂幕が掲げられた。
「創価学会会長 戸田城聖来る 六月二十七日 公設市場二階」
 午後一時。炎天下で演説会は始まった。公設市場の駐車場に八百人が押しよせた。
 ふだんは二階の室内エリアで集会を開くが、室長は「いや、入りきらない。ものすごい勢いで集まってくるよ」。
 計算どおりである。
 万全な態勢で師を迎えるため、前日には、入念に下見をしてあった。
 大変な人込みとなり、役員が汗をぽたぽた流しながら動いている。池田室長は一人の青年に目をとめた。歩み寄ると、両手で彼の右手をすくい上げた。
 「痛かったろうな」
 数本の指が欠けている。仕事場の事故で切り落としていた。青年は驚く。こんなに刻一刻をあらそう現場で指先を見てくれていたとは......。
 零細工場の町には、ケガをしても働き続ける孤独な若者も多かった。
 
 池田室長は多忙を極めた。関西本部では靴の踵を入れる間も惜しんで、草履を履いて飛び回ったこともある。
 ゆっくり食事する時間もない。関西本部の筋向かいにある「とみや食堂」から出前を取った。
 鉄板でキャベツ、豚肉をじゅうじゅう炒め、上に紅ショウガを散らしたヤキソバで腹ごしらえをした。
 婦人部も歩きに歩いた。
 仙頭辰子は毎日、弁当をさげて家を飛び出し、白木を支援した。
 ある日のこと。「あなたも白木さんでっか。もう四人目でっせ」と言われた。
 「初めは、何かゆうてはるなあと思った。二度目は、さっきと同じ名前やと聞き流したけど、三人目に、どんな人やろうと思ったんや。
 今度はあんたから聞かされた。それほど信頼されている人やったら、私も白木さんを応援しまっせ」
 二枚しかない仙頭の着物の裾は擦り切れた。桐の下駄も歯がすりへって、せんべいのようになった。
        (続く)
時代と背景
 「大阪の戦い」にのぞむ決意を和歌に託している。「関西に 今築きゆく 鏑州城 永遠に崩すな魔軍抑えて」。西日本の要衝となる関西を、水滸会や戸田大学で折々に学んだ古代中国の難攻不落の城郭(現在の遼寧省南西部)にたとえた。
 返歌は「我が弟子が 折伏行で 築きたる 錦州城を 仰ぐうれしさ」。恩師の目は、勝利の城のいただきを確かにとらえていた。
 
【第18回】 大阪の戦い 6 2009-2-4
 
池田先生に育てられた大恩を永遠に忘れない
これが常勝の原点となった
 
  仕事と生活に勝て
 
 「大阪の戦い」も終盤。
 池田大作室長は外出から関西本部へ戻る途中、一軒の家に立ち寄った。
 以前から心配していた幹部の家である。どこか我流で、和を乱すことがあった。
 訪ねてみると、のんきに家でゆっくりしていた。室長は表情を曇らせた。
 「すみません。ちょっと、家の用事があって......」
 「分かります。用事があるのが当然です。しかし、みんな状況は同じです。時間を工夫し、団結して戦おうと努力しているのです」
 全軍をあげて前進しているさなかである。その土ぽこりに身を隠し、要領よく手を抜こうとする性根を厳しくただした。
 また、ある夜、関西本部で、男子部の幹部に声をかけた。「君は、きょう会合があったんじゃないのかい」
 彼は口ごもった。担当する組織の会合があったが、自分の"出番"はないから、休んでいた。
 組織にあぐらをかいてはいけない。魚も頭から腐る。
 「とんでもない! 大切な同志が集まっている。今すぐ行きなさい!」
 靴を手に、ほうほうの体で駆け出した。
 別の折。大阪駅に近い畳屋の井西宅に東京からの派遣幹部が集まった。
 打ち合わせを終えると、一人の青年を呼んだ。
 ギッと厳しく見据える。
 「ずっとこっちにいるね。仕事は、どうしたんだ」
 あれこれ言い訳をする。
 「手はキッチリと打っています」
 「ウソをつくな! 東京に帰って、ちゃんと仕事をしなさい」
 すべて見抜かれていた。
 「どうか、ここで戦わせてください」
 「ダメです。今すぐ帰りなさい!」
 その場に居合わせた大阪市北区の国重睦子は、胸が熱くなった。こんなに厳しい室長を見るのは、初めてである。
 たとえ白木が勝っても、自分自身が生活に負けてしまったら惨敗だ。
 いいかげんで、中途半端のまま、いてもらっては、士気を下げるだけである。
 室長は甘えを許さない。徹頭徹尾「自分に勝つ」ことを教えた。
 青年は東京に戻り、仕事を立て直してから、再び戦線に復帰。まるで別人のような動きを見せた。
 
 昭和三十一年(一九五六年)七月八日の日曜日。
 参議院選挙の投票日である。午後六時の投票締め切りを受け、立花仁六宅では集計に追われていた。
 ようやく報告を終わり、立花は住み込みの従業員たちと夕食をとり始めた。このところ忙しかったので、久しぶりの晩酌である。
 空きっ腹に冷たいビール。すぐに顔が真っ赤になった。
 と、その時である。「ごめんください」。聞き覚えのある声。池田室長が、白木義一郎や地区部長を連れてねぎらいにきてくれた。
 「おっ、前祝いかい?」
 妻の丸子があわてて片付けようとしたが、室長は「いいんだ、そのままで」。
 少し酔った勢いで立花が室長にビールを勧めると、コップを手にとってくれた。まったく飲めない室長である。一同は腰を抜かすはど驚いた。
 「みんな、本当にありがとう。勝たせてもらった。勝たせてもらったよ」
 立花は、きょとんとした。「あれ、室長、開票は明日でっせ。そんなん分かりまへんがな」
 室長の目は、自信に満ちていた。
 
 まさかが実現
 
 翌日、池田室長の言葉は現実となった。
 白木の得票数は、二一万八九一五票。
 次点に四万余の大差をつけ、第三位で当選した。世の中がアツと驚いた。
 朝日新聞では「"まさか"が実現」という見出しで報じられた。痛快な勝利である。一方、東京地方区。
 二〇万三六二三票を獲得したものの、残念ながら次点で敗れた。
 東京の総責任者は、石田次男だった。この敗北が戸田城聖会長の死期を早めたとする声もある。
 しかし、その一方で、戸田会長は未来への光明も見たにちがいない。
 なぜならば、室長は師から得たすべてを「大阪の戦い」でいかんなく発揮したからである。戸田大学や、水滸会で受けた指南が、勝利の兵法であったことを現実の上で証明した。
 東京の敗北に憤ったことは確かだが、それ以上の希望の光があった。
 
 大阪の勝利がもたらしたものは何か──
 「この人と一緒なら、どんな戦いにも勝てる」という強烈な確信である。
 それは世代を超え、伝えられていく。ここに大阪の強さの秘けつがある。
 大阪での約半年間、室長は訪問指導だけで八千人と会った。その足跡を取材班が赤ペンでマークすると、大阪の地図は、ほぼ真っ赤に塗りつぶされた。
 室長が誰よりも先頭に立って行動したことで、幹部が動く大阪になった。
 室長が会員と同じ目線で語ったことで、いばる幹部を許さない大阪になった。
 室長が愉快に前進の指揮を執ったことで、楽しい大阪になった。
 真っ赤な地図の上に、理想の組織が見えるようだった。
 
 豆タンクのニックネームで慕われたのが、地区部長の岡本富夫(梅田地区)である。
 猪突猛進タイプ。
 大阪の戦いで張り切りすぎ、いつの間にか商売が傾きかけていた。家族の間も、ぎすぎすしている。自分のことが全く見えない。
 そんな時、一枚の葉書が届く。差出人を見て驚いた。
 池田室長からである。
 「世紀の大法戦 広布の大将軍として 光輝ある指揮をとられよ」と記された後に、こう書かれていた。
 「仕事と夫人を大切に」
 岡本は、自分の頭をぽかんと殴りたい思いだった。アホなことしてしもうた……。
 室長は、お見通しだ。申し訳ない。商売や家のことまで心配をかけてしまった。
 心を入れ替えた岡本は家族に頭を下げた。
 ある夜、大きな紙を取り出し、字を書き始めた。
 「ええか、これは我が家の家訓や」
 仏壇の横の古い壁に画鋲でとめ、読みあげた。
 「池田先生によって育てていただいた我が岡本家は、この御恩を生涯、忘れてはならない……末代までこのことを語り伝え、厳守せよ」
 字は少々へたくそだが、声には気合いがこもっていた。関西の金同志の心を代弁していると言ってよい。
 池田室長によって生きがいを知った。真に正しい人生の道とは何かを教えてもらった。この「大恩」を関西は永遠に忘れない。
 
 最後に「大阪の戦い」の今日的意義について、一言つけ加えておきたい。
 明治以降に伸びた、いわゆる新宗教の分布を見ると、その多くが、発祥の地に教勢が片寄っている。
 日本列島は小さいようでいて、歴史や風土や人の気質は、それぞれの地域で大きく異なる。宗教を受け入れる土壌もまた然りである。
 教団の生まれた本拠地では強いが、他方面への展開は苦手。やがて外に拡大するエネルギー自体が失われていく。
 奈良の天理教なら西日本、東京の立正佼成会なら東日本に勢力の中心があった。
 目に見えない壁がある。
 では、創価学会は、どうであったか。
 先述したように、戸田城聖第二代会長が誕生するまで、学会員は首都圏の十二支部に所属していた。東京を中心とする教団になってしまう可能性もあった。
 しかし昭和三十一年の「大阪の戦い」で、大阪・堺支部の会員は、中国、四国、九州へ一気に広がり、西日本全域に学会員が増大する。
 壁は破れたのである。
 創価学会は、日本の東にも西にも強い、きわめて例外的な宗教団体となった。
 やがて、SGI(創価学会インタナショナル)として、全世界へ伸びていく基盤が、整ったのである。
 池田大作青年という一人の若き指導者によって、戸田会長は勝った。そして学会という一大民衆勢力もまた勝ったのである。    (完)