諸法実相抄

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文永十年五月    五十二歳御作
与  最蓮房日浄    日蓮    之 を記す


1 諸法実相の意義を明かす

問うていうには、 
法華経第一の巻方便品第二に 
「諸法実相とは、所謂諸法の如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、 如是果、如是報、如是本末究竟等」 
と説かれている。 
この経文の意味はどのようなものであろうか。 
答えていうには、 下は地獄界から上は仏界までの十界の依報・正報の当体が、一法も残さず妙法蓮華経の 姿であるという経文である。 

依報があるならば必ず正報が住している。 

妙楽大師の法華文句記巻十下には、 
「依報も正報も常に妙法蓮華経の法理を顕している」等と述べている。 
また、金剛(こんごうべい)には、 
「実相は必ず諸法とあらわれる。諸法はまた必ず十如をそなえている。 
その十如は必ず十界という差別相がある。 
その十界には必ず身と土が存在する」と述べている。 
また、同じく金剛のなかで 
「阿鼻地獄の依報と正報は尊極の仏の自身のなかに具わり、 毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)の法身の生命も凡夫の一念の外にあるものではない」としている。 
これらの妙楽大師の釈義は分明である。 

誰が疑いを生ずるであろうか。 
したがって、法界の姿は妙法蓮華経の五字にほかならないのである。したがって、釈迦仏・多宝仏の二仏といっても時に応じて働きとして現れた用の仏であり、 
妙法蓮華経こそ本仏であられる。 

法華経如来寿量品第16に「如来秘密神通之力」と説かれているのはこのことである。 
「如来秘密」は体の三身であって本仏である。 
「神通之力」は用の三身であって迹仏である。 
凡夫は体の三身であって本仏である。 
仏は用の三身であって迹仏である。 

したがって、釈迦仏が我ら衆生のために主師親の三徳をそなえられていると思っていたのであるが、 そうでなくて、かえって仏に三徳をこうむらせているのは凡夫なのである。


2 虚空会の儀式の意義を明かす

釈迦仏・多宝仏の二仏といっても妙法蓮華経の五字のなかから用の利益を施すとき、 事相に釈迦・多宝の二仏と顕れて多宝塔のなかでうなずきあわれたのである。 

このような法門は日蓮を除いては申し出す人は一人もいないのである。 
天台大師、妙楽大師、伝教大師等は心の中では知っておられたのであるが、 言葉に出されることはなかった。 
ただ、胸の中にしまっておかれたのである。 
それも道理なのである。 
それは付嘱がなかったゆえであり、時が未だ来ていないゆえであり、 釈尊の久遠の弟子ではないゆえなのである。 
地涌の菩薩のなかの上首・唱導の師である上行菩薩・無辺行菩薩等の菩薩よりほかには、 末法の始めの五百年に出現して、法体の妙法蓮華経の五字を弘めるだけではなく、 宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕すことができる人はいないのである。 
これはすなわち、法華経本門如来寿量品に説かれた事の一念三千の法門であるからである。


3 妙法蓮華経が本仏なるを示す

したがって、釈迦仏・多宝仏の二仏といっても用の仏であり、妙法蓮華経こそ仏であられるのである。 
法華経如来寿量品第十六に「如来秘密神通之力」と説かれているのはこのことである。 
「如来秘密」は体の三身であって本仏である。「神通之力」とは用の三身であって迹仏なのである。 
凡夫は体の三身であって本仏である。 
仏は用の三身であって迹仏である。 
したがって、 釈迦仏が我ら衆生のために主師親の三徳をそなえられていると思っていたのであるが、 そうではなくかえって仏に三徳をこうむらせているのは凡夫なのである。 
そのゆえは、如来というのは天台大師の法華文句巻九下には 
「如来とは十方三世の諸仏、真仏、応仏の二仏、法身・報身・応身の三身、 本仏、迹仏の一切の仏を通じて如来と号するのである」 
と判じられている。

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この釈に「本仏」というのは凡夫であり、「迹仏」というのは仏である。 
しかしながら、迷いと悟りの相違によって、衆生と仏との異なりがあり、 このため衆生は、倶体・倶用ということを知らないのである。 
そうであるからこそ、諸法という言葉で十界を挙げ、これを実相であると説かれたのである。 

「実相」というのは、妙法蓮華経の異名である。 
ゆえに「諸法」(十界)は妙法蓮華経であるということなのである。 
地獄は地獄の姿をみせているのが実の相である。 
餓鬼と変わってしまえば地獄の実の姿ではない。 

仏は仏の姿、凡夫は凡夫の姿であり、 万法の当体の姿が妙法蓮華経の当体であるということを「諸法実相」とはいうのである。 
このことについて天台大師は 
「実相の深理は本有常住の妙法蓮華経である」と述べている。 
この釈の意味は「実相」の名言は迹門の立場から言ったものであり 「本有の妙法蓮華経」というのは本門の上の法門なのである。 
この釈をよくよく心中で案じられるがよい。


4 人法一箇の御本尊建立を示す

日蓮が末法に生まれて上行菩薩が弘められるところの妙法蓮華経を先立ってほぼ弘め、 作りあらわされるところの本門寿量品の古仏である釈迦仏、迹門の宝塔品で涌出された多宝仏、 従涌出品の時に出現された地涌の菩薩等をまず作りあらわしたてまつることは 自分の分際を過ぎたことである。 
この日蓮を憎むとも、内証をどうすることもできないのである。 
それゆえに、このような日蓮を佐渡の島まで遠流した罪は無量劫を経ても消えるとは思われない。 

法華経譬喩品第三には 
「もし、法華経誹謗の罪を説くならば、劫のあらんかぎり説いても説き尽くすことはできない」 
と説かれているのはこのことである。 
また、日蓮を供養し、また日蓮の弟子檀那となられたその功徳は 仏の智慧によっても量り尽くすことはできない。 
法華経薬王菩薩本事品第二十三には、 
「仏の智慧をもって量っても、その功徳の多少を量り尽くすことはできない」と説かれている。 
地涌の菩薩の先駆けは日蓮一人である。 
あるいは、地涌の菩薩の数に入っているのかもしれない。 
もし、日蓮が地涌の菩薩の数に入っているならば、日蓮の弟子檀那は地涌の流類ということになろう。 
法華経法師品第十の 
「よくひそかに一人のためにでも、法華経そしてまたその一句だけでも説くならば、 まさにこの人は如来の使い、如来から遣わされて如来の振る舞いを行ずるものと知るべきである」 
との文は、だれか他の人のことを説かれたものではない。


5 妙法弘通の人を諸仏・諸天が賛嘆

人からたいへんによく自分がほめられるならば、 
どのような困難でも耐えていこうとする心が出てくるものである。 
これはほめる言葉から起きてくるものである。 
すなわち、「末法に生まれて法華経を弘める行者には三類の強敵が起きて、死罪、流罪にまで及ぶであろう。 
しかれども、この難に耐えて法華経を弘める者を、釈迦仏は衣をもって覆ってくださり、

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諸天は供養をし、あるいは肩に担い、背に負うて守るであろう。 
その行者は大善根の者であり、一切衆生のためには大導師である」と。 

釈迦仏、多宝仏、十方の諸仏、菩薩、天神七代、地神五代の神々、鬼子母神、十羅刹女、 四大天王、梵天、帝釈、閻魔法王、水神、風神、山神、海神、大日如来、普賢菩薩、 文殊師利菩薩、日月天などの諸尊たちにほめられているので、 日蓮は、無量の大難をも耐え忍んでいるのである。 

ほめられれば我が身の損ずることもかえりみず、 そしられるときには我が身の破滅することも気づかずに振る舞うのが凡夫の常である。


6 弟子門下の信心の在り方を説く

このたび、信心をしたからにはどんなことがあっても、法華経の行者として生き抜き、 日蓮の一門となりとおしていきなさい。 
日蓮と同意ならば地涌の菩薩であろうか。 

地涌の菩薩であると定まっているならば、釈尊の久遠の弟子であることをどうして疑うことができよう。 

法華経従地涌出品第十五に 
「これらの地涌の菩薩は、私が久遠の昔から教化してきたのである」と説かれているのはこのことである。 
末法において妙法蓮華経の五字を弘める者は、男女の分け隔てをしてはならない。

皆、地涌の菩薩が出現した人々でなければ、唱えることのできない題目なのである。 
はじめは日蓮一人が南無妙法蓮華経と唱えたが、 二人、三人、百人と次第に唱え伝えてきたのである。 
未来もまたそうであろう。 
これこそ地涌の義でないだろうか。 

そればかりか広宣流布のときは、 日本中が一同に南無妙法蓮華経と唱えることは大地を的とするようなものである。


7 法華は末代衆生のためなるを説示

ともかくも法華経に名を立て身を任せていきなさい。 
釈迦仏、多宝仏、十方の諸仏・菩薩が集まり、 虚空会において釈迦仏・多宝仏の二仏がうなづきあい、定められたことは別のことではない。 
ただひとえに末法の令法久住のためである。 
すでに多宝仏は半座を分けて釈迦如来に譲(ゆず)られたとき、妙法蓮華経の旛(はた)をさしあらわして、 釈迦仏・多宝仏の二仏が大将として定められたことがどうして偽りであろうか。 
それは我々を仏にしようとのご談合なのである。 

日蓮はその座には居合わせなかったが、 経文を見ると少しの曇りもなく明らかである。 
またその座にいたのかもしれないが、凡夫であるから過去のことは分からない。 

しかし現在は明らかに法華経の行者であるからには、 
また末法は決定(けつじょう)して当詣道場(とうけいどうじょう)となるであろう。 
過去のこともこのことをもって推するならば、虚空会にも居合わせたであろう。 
三世の生命が別のものであるわけがない。


8 御本仏の絶対的な境界を述ぶ

このように思い続けていると、流人ではあるが喜悦(きえつ)は測り難いものである。 
うれしいことにも涙を落とし、辛いことにも涙を落とすものである。 
涙は善悪に通じているものである。 
釈尊滅後、釈尊の弟子の彼(か)の千人の阿羅漢は、 
仏のことを思い出して涙を流し、

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涙を流しながら文殊師利菩薩が「妙法蓮華経」と唱えられると、 千人のなかの阿難尊者は泣きながら「如是我聞」と答えられたのである。 
余の九百九十人は、泣く涙を硯(すずり)の水として、 
また如是我聞(にょぜがもん)の上に「妙法蓮華経」と書きつけたのである。 
今、日蓮も同じである。 
このような流人の身となった事も妙法蓮華経の五字七字を弘めたゆえであり、 これは釈迦仏・多宝仏が、未来の日本国の一切衆生のために留め置かれたところの妙法蓮華経であると、 このように日蓮も聞いたゆえである。 

現在の大難を思い続けるにも涙があふれ、末法の成仏を喜ぶにつけても涙が止まらないのである。 
鳥と虫とは泣いても涙を落とすことはない。 
日蓮は泣かないが涙がひまないのである。 

しかしこの涙は世間の涙ではない。 
ただひとえに法華経のゆえの涙である。 もしそうであるならば甘露(かんろ)の涙ともいえよう。 
涅槃経には 
「父母・兄弟・妻子・眷属に別れて流すところの涙は四大海の水よりも多いが、 仏法のためには一滴をもこぼさない」と説かれている。 
法華経の行者となることは過去の宿習である。 
同じ草木であっても仏とつくられることは宿縁である。 
仏であっても権仏となるのはまた宿業なのである。


9 信・行・学の要諦を示す

この手紙に日蓮の大事な法門を書いておいた。 
よくよく読んで理解し、肝に銘じていきなさい。 
一閻浮提(いちえんぶだい)第一の御本尊を信じていきなさい。 
あいかまえてあいかまえて信心を強くして釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏の三仏の守護を受けていきなさい。 
行学の二道を励んでいきなさい。 
行学が絶えてしまえば仏法ではないのである。 
我も行い、人にも教化していきなさい。 
行学は信心から起きてくるのである。 
力あるならば一文一句であっても人に語っていきなさい。 
南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。恐恐謹言。


五月十七日   日 蓮  花押