個人指導の急所

(一)信心の姿勢


☆受け身の姿勢と積極的な姿勢☆

『信心しているからなんとかなるだろう』といった安易な考え方、気持ちであってはなりません。
「苦しい」「大変だ」ーーだからこそ!と決意を新たにして一にも二にも題目を唱え抜いていくのです。
    常に「だからこそ」という信心に立つことがいわば本因の姿勢です。積極的に唱題に励み、活動に取り組んでいただきたい。残業や仕事の都合で一週間のうち1日だけしか信心活動ができないと言って悩んでいる人がいる。だから、その人の功徳が、毎日活動できる人の7分の1ということでは無いのです。その1日で7日分の価値を生むように決意すること、これが大事です。

   受け身の姿勢というのは種々の環境に負けながら実践できない理由が気になってできないと思い込んでしまう。信仰実践で約していえば、積極的に自分の人生、局面を切り開いていくための信心をしようとしない態度を言うのです。教学試験に落ちて残念だと悩んでいるのはいわば本果の姿勢の信心です。

〝今度は御本尊様にしっかり祈念して合格しよう〟と決意することが正しい信心の姿勢になるのです。
正しい信心の姿勢を私たちの日常の信心に約していれば、常に〝よしこれから〟〝よし、変毒為薬しよう〟といういわば本因の姿勢で決意することである。
今の瞬間を今までの結果だけに見るのではなく、未来への出発点とみるのがいわば本因の信心の姿勢です。

☆けれども信心☆

〝けれども〟の言葉が接続的に入ると、前の言葉を否定してしまうのです。また、グチも実は不知恩になってしまうのです。謗法といわれるのもその意味です。

よく「主人が協力してくれるようになったんです。
〝けれども〟がついたのでは主人が信心に反対しなくなっただけでも、一歩前進なのに〝感謝〟の念がまったくないんですね。いくら感謝しても〝けれども〟をつけてしまうから、前の感謝が消えてしまう。

皆が意外と陥りやすいのが、この〝けれども信心〟なのです。これがあるうちは、喜びにあふれた信心はできません。 

☆困った、困ったはグチ☆

真剣な唱題には功徳があるが「困った困った」の百万遍のグチには功徳があるとは書いていない。

☆だからこそ信心☆

「忙しいから、大変だから、困ったから」等いくらいっても解決はつかない。
そこで「だからこそ」という信心に励み、そこから人間革命し、家庭革命、広宣流布へと連続していくのです。

☆信心☆

ハス池のなかには泥もあればゴミもある。泥の中にありながら、泥に染まらないのが妙法蓮華経の姿です。泥がイヤだからといって、小学校のプールへ引っ越してしまったら、水はきれいかもしれないが蓮華の花は咲かないし蓮根もとれません。
環境に紛動されず、どんなことがあろうとも、御本尊根本というのが信心ではないでしょうか。その泥に染まらず清らかに咲くことです。

☆信心しているのになぜ☆

信心すれば事故にもあわない、病気にもならない、死にもしない、というご利益があるという考えをもっているから、信心しているのになぜ?という疑問が起きてくるのです。
かりにも、そんな事があったとしたら大変です。学会員は赤信号なんか止まらない。ぶつかっても、ケガしないのですから。 


☆評論家の信心☆

いくら幹部でも、居眠りをして運転すればぶつかるに決まっている。幹部でも事故にあう、だからこそ、しっかりしなければと自分の信心に受け取ることです。

☆日頃の信心☆

困ったとき題目をあげるのは当然ですが、何でもかんでも困ったとき題目をあげればいいかというとそうはいきません。やはり日頃の信心が大切なのです。

☆前向きの信心☆

いかなる場合であれ、その人がその問題を契機として、今までの信心を反省し、今後がんばるとの決意の上に立って問題の解決を願っていく信心の姿勢が大事です。

☆ぐらつかない信心☆

いいことがあったら〝ありがとうございました〟、悲しいことがあったら〝こうして頂きたい〟ーーと苦楽ともに思いあわせて題目を唱える以外にないと、腹を決める。その決意が縁によって揺らぐか、グラつかないかが信心なのです。

☆愚痴☆

「だいぶ病気はよくなった〝けれども〟まだ完全ではありません」等とどういうわけか〝功徳〟と〝罰〟の間に〝けれども〟をつけなきゃ気がすまない人がいる。これを愚痴というのです。

☆悩みを因に☆

要するに信心は、悩みに負けるか負けないかです。その悩みを因として人間革命していくところに基本的な姿勢があるのです。

☆退歩☆

広布流布の大道を歩む私たちは、けっして〝これでよし〟などと現状に安住するようなことがあってはならない。それは結果にとらわれる信心であり、もはやそこには〝退歩〟しかない。

☆報恩☆

私達はよく、自分が幸せになれたのも御本尊様のおかげといいます。しかし、そう言うだけでは本当の感謝にならない。現実に広布のために戦い、会員一人一人を大切にしなかったら大聖人様は喜ばれないし、真の報恩を尽くすことにならない。

☆真の原因☆

自分が悪いといって相談に来た人はいない。すべて怨嫉にしても、批判にしても〝相手が悪い、だから苦労する〟という考え方に、自分が幸福になれない大きな原因があるのです。

☆信仰診断☆

せっかく信心しているのに〝怨嫉〟してはいないだろうか。環境に負けてはいないか。マンネリズムに陥ってはいないか。魔を見破れないでいることはないだろうか等々、健康診断ならぬ〝信仰診断〟というものが、人間はときどき必要ではないかと思います。

☆一善☆

「悪は多けれども一善にかつコトなし」P1463
です。どんな強い魔も御本尊様には勝てないのです。故に御本尊様に祈ることが大切なのです。

☆信心の指導☆

大切なことは、信心の指導をするのであって現象面のみに目を奪われて、解決方法のみに終始してはならないというのです。「体曲がれば影ななめなり」P992ですから、信心の姿勢をきちんと正していくことが肝心なのです。信心が体で、困っているものは影なのです。

☆プライバシー☆

相談を受けて、会員の個人的な秘密の問題を知った場合も、けっして不用意に口外しないようにしたい。軽薄な行為は、信頼を裏切るものであり、厳に戒めたいものです。プライバシーを侵害してならないのは社会人としての当然の常識なのですから。

☆行躰即信心☆

会合に出て歓喜しても、実践となると弱気になる人を見かけます。だが、たとえどんなに仏法の偉大さやその深意を理解したとしても、現実に信心活動を怠ったとしたら観念論です。
『行躰即信心』ということを知っていきましょう。
『行躰』とは、『実践』ということです。したがって信心とは実践ということになるのです。

☆活動意欲☆


☆時間をつくる☆


☆上達☆


☆発起衆☆


☆折伏力☆


☆広宣流布と自分☆


☆福運☆


☆生命力☆